おうちきもの

樹坂あか

おうちきもの

 いよいよすることもなくなって、手持ちぶさたが臨界突破した母は長らく手付かずとなっていた押し入れを引っくり返したらしい。数字に一喜一憂する日々の中、送られてきたのはいくつかのやたら平べったい段ボールだった。


「出てきたからって全部こっちに送らなくたって……お母さんが着ればいいのに」

「おばあちゃんの若い頃のだから、私の歳だと流石にね。元々そんな着物好きって訳でもないし、押し入れで虫に食わせるよりはあんたに送った方がいいじゃない」

「まあそれはそうかもだけど……」


 リビングに居座る段ボールの山を見下ろしながら、私は内心でうーんと唸る。声にも出ていたのか、電話越しの母が「あら?」と意外そうに言った。


「あんた昔からおばあちゃんの着物すてき、着てみたいって散々言ってたじゃない。中身も確認したけど綺麗なもんだったし、背丈も同じくらいだから十分着れると思ったんけど」

「ああうん、そうだね。……でもこのご時世だから、着たところでさ」

「いつかは落ち着くわよ。そしたら着物で旅行にでも行ったら?」

「旅行はハードル高くない?」

「おばあちゃんは着物でニューヨーク行ってたわよ」

「つよい」


 着物で外に出ることさえ躊躇う私とは大違いである。

 そのまま互いの近況などを少々話して、母との電話を切った。基本インドアな私でも時折息が詰まりそうになるのだから、活動的な祖母の血をしっかりと受け継いだ母なら尚更この状況は息が詰まることだろう。そのうちまた何か発掘したと言って送ってくるかもしれない。

 さて、とにかく今はこの段ボール共をどうにかしなければ。上の箱からガムテープを剥がし、中身を取り出していく。記憶より色褪せたたとう紙と、懐かしい防虫剤のにおい。段ボールの隙間を埋めるようにして入っていた半襟や帯揚げ、帯締めには、微かに見覚えのあるものもある。色の組合わせひとつでまったく違うおしゃれになるの、面白いでしょうと語った祖母は、着物や帯以外に色とりどりの小物を持っていた。金銀の糸や鮮やかなちりめんが詰まった祖母の箪笥は、幼い私には宝石箱のようだった。


「着物届いたの?」


 思い出に浸っていたところに不意に声がかかり、私は肩を揺らした。見れば別の部屋で仕事をしていたはずの彼がこちらを覗き込んでいる。


「あ、うん……。仕事、もう終わったの?」

「ん。昨日残ったとこ仕上げるだけだったから」

「そっか。お疲れさま」

「空いた段ボール潰しとく?」

「ありがとう、お願い」


 てきぱきと段ボールを潰しながら、彼は床に並べられている品々を物珍しそうに眺めている。


「結構いっぱいあるね」

「おばあちゃん、普段から和装だったからね。そういえば洋服着てるの見たことないなぁ」


 一番上にあった小振りなたとう紙を開いてみると、正絹の襦袢が一枚入っていた。母の言っていた通り染みも虫食いもなく綺麗なものだ。祖母がしまうときに全力で防虫剤を入れたのだろう、相応のにおいもする。着るならばしっかりにおいを抜かなければ。


「開けてみてもいい?」

「どうぞ」


 彼が手近なたとう紙を開く。出てきたのは色鮮やかな一枚だった。


「わ、かわいい。紬かな」


 白地に空色と浅緑で矢羽の模様が描かれ、裾は向日葵のような黄色で縁取られている。着物だけなら爽やかな初夏の印象だ。若い頃の祖母はどんな風にこれを着ていたのだろうか。


「これ、つむぎ? って言うの?」

「ああうん、そういう種類の着物。紬はおばあちゃんよく着てたから、たくさんあるかもね」

「へぇ……」


 正絹の着物も着ることはあったが、私の記憶にあるのはほとんど紬の姿だ。祖母としては正絹ほど手入れに気を遣わなくていいから楽らしい。

 しげしげと着物を見ていた彼だったが、しばらくしてふと思い立ったように尋ねてきた。


「そういえば着物姿の写真って成人式のしか見たことないけど、よく着てたの?」

「あー……お正月とか、たまに着てたかな。今は全然着なくなったけどね。着方覚えてるかも怪しい」

「へぇ……。なんで着なくなったの?」


 今もすごい好きそうなのに。

 小首を傾げる彼に、私は目を瞬く。

 なんで着物を着なくなったか。それははっきりと覚えている。けれど更にその原因は何だったろうか。すごく些細な、言いがかりのようなことだったはず。

 ……わからない。積極的に思い出したくない記憶は、思い出さないでいるうちに随分と虫が食ってしまったらしい。ぼやけているくせに感情だけは頑固にこびりついて、つい苦笑がこぼれた。


「遠縁のおばさんにね、着方がなってないって言われたの。何が間違ってるって言われたのかはもう忘れちゃったんだけどね。めったに会わないようなおばさんなんだけど、会うとき着物だとほぼ毎回言われるから……着物は好きだけど、着物姿で人前に出るのが、ちょっと嫌になっちゃって」


 他の人は何も言わなかったから、あのおばさんが余程目敏いのかなんなのか。朧気な記憶が当時の真実を伝えることはないけれど、何にせよそれで私は着物から遠ざかった。同時期に進学で実家から離れたのも着物離れの要因のひとつかもしれない。

 成人式でプロに着付けてもらって、そこからはもう着ることもないと思っていた。


「……せっかく貰ったんだから、着てはみたいんだけどね」


 積み上がる着物を見て呟けば、今度は彼が目を瞬く番だった。


「着ればいいのに、家で」

「え?」

「おばあさん、普段着でも着てたんでしょ? 普段着使いのは入ってないの?」

「え、いや……これとかそうだよ」


 彼が開いた着物を指し示す。汚れたらネットに入れて洗濯機のおしゃれ着コースで洗えばよし、とかつて祖母は言っていた。


「もちろん無理にとかじゃなくて、好きな格好しててほしいんだけど。どうせしばらく家に籠ってなきゃだし、見るのも俺くらいしかいないし……だったら楽に着れるかな、と」

「……おうち着物、ですか」

「うん。……特にこんな状況だから、家の中の楽しみは多い方がいいと思うしさ」


 そう言って、むに、と頬をつままれる。家に籠って以来冴えない顔の日が増えたような気はしていたが、彼にも気づかれていたようだ。どこか心配そうな表情をしている。

 年中和装だった祖母とは違い、洋服文化にも馴染み深い私は主にハレの日だけ和装だった。だから着物そのものも、着物を着るという行為も特別で、非日常の心踊るものだった。祖母と一緒に帯や半襟の組み合わせを考えるのも楽しかった。


 おうちで、着物。

 誰に何を言われることもない。


 ――躊躇が消えて、わくわくしている自分がいた。


「……今日干しておいて、明日着たいから、一緒に帯選んでくれる?」


 懐かしさと期待に心からの笑みを浮かべた私に、彼も笑って頷いた。

 翌日、濃紺に花の刺繍の帯を締めた私は、ほんとは着物姿直に見てみたかったのもあると正直にこぼした彼に小さく吹き出した。

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おうちきもの 樹坂あか @kinomiko

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