ハムエッグ作りには向かない職業
名取
ハムエッグ作りには向かない職業
美味いものはどうしていつも脆いのだろう。
床に落ちて割れた鶏卵と、ボロボロになった薄切りハムの前で、俺はこの日43回目のため息をつく。この調子では、安売り卵が何パックあっても足りない。ハムも、このままでは世界中の豚をスライスしても間に合わないだろう。
「……今日という今日は、」
気合を入れ直すためにも、俺は自分の頬を叩き、静かに呟いた。
「絶対に食べるんだ。美味いハムエッグを」
床の残飯を片付けながら、これまでのことを振り返る。最近感染症が流行っている関係で、外での仕事が減っていた。そのせいで、いわゆる「おうち時間」も増え、自分で食事を作ることも増えてきた。だが、今まで一度として、満足いく出来の料理を作れた試しはない。
「……」
片付けを終え、手を念入りに洗い、再び料理の準備を整える。
ハムエッグ作りは、何よりも繊細さが大切となる。フライパンに油を引いて十分に熱する、ハムを二枚めくって取る、卵を割る、フライパンから皿へ盛り付ける。これらの工程のどこか一つでもミスれば、それはもうハムエッグではない。それは卵とハムを一緒に炒めただけの、ただの何かだ。
油を引き、コンロの火をつけて、フライパンを熱する。新しいハムのパックを冷蔵庫から出し、震える手で封を開けようとした時だった。
「キャー! 誰か助けて!」
隣室から、女の悲鳴が聞こえてきた。どたどたどた……と二人分の足音と揉み合う音がしたあと、断末魔の絶叫が響き渡る。俺はハムをコンロの脇に置き、そっと壁に耳をつける。
「ねえユカリ。どう? 痛い?」
「ど……どう、して……」
「忘れたのかい? 誰も信じちゃいけないんだって、君がそう言ったんだろう」
ぶすっ。また鈍い音がして、それきり隣は静かになった。
俺はおもむろに壁から離れ、ハムを再び手に持つ。薄いビニールパックを開けるのにはなんとか成功して、中身のロースハム6枚を取り出したそのとたん、今度はうちのインターホンが不吉に鳴り響いた。
ハムを持ったまま、そろりとドアスコープに目を近づける。
「ねえ、いるんでしょうお隣さん。開けてください。開けてくださいよぉ」
クソったれ。俺はハムを戸棚の上の方に隠し、コンロの火を止めると、熱されたフライパンを片手に持った。ドアの向こうには、血塗れのメガネ男が立っていた。正気とは思えないいびつな笑顔を浮かべている。
「開けないならぁ、無理やりにでも開けちゃいますよ? 僕、ピッキングが得意なのでぇ」
ドアが外側から開くのと、俺がフライパンを振りかぶったのは同時だった。
「い、痛っ! 熱い!」
フライパンからこぼれた熱いサラダ油が、狂った隣人の頭上に降り注ぐ。眼球に入ってくれればより好都合だったのだが、メガネのせいで目を潰すことはできなかった。それでも隣人はよろめき、体勢を崩して通路に倒れた。
「やめ、やめてっ、」
がんっ。
振りかぶった勢いのまま、フライパンをメガネ男の脳天に叩きつける。当たりどころが良かったのか、それとも元々ひ弱なのか、ともかく彼はその一撃で完全に動かなくなった。
「やれやれ」
この流れのまま本業に戻っても良かったが、今日はハムエッグを作ると決めているので、さっさとドアを閉めて、家の中に戻った。熱した油は無駄になってしまったし、フライパンは汚れてしまった。また最初からやり直し。でも、まあ、洗うだけならすぐ終わる。こんなこと、ハプニングのうちにも入らない。
「よし」
綺麗にしたフライパンを火にかけ、油もバッチリ引いた。ハムを丁寧に二枚ぶんとって、フライパンに乗せる。じゅぅっ——。夢にまで見た、ハムの焼ける芸術的なまでの良い音。そして無性に食欲をそそるこの香り。もうこれだけで食べた気にさえなってしまう。
まあでも一応換気扇つけとこう、とスイッチを入れた時だった。
「……勝つのは、私……」
どこからか、不気味な少女の声がした。よくよく耳を澄ますとそれは、どうやら換気ダクトの中から聞こえてくる。
「生き残れるのは一人だけ……だからみんな殺すの……アハハハ」
ガタガタ、とかなり嫌な音がする。俺は慌ててフライパンをコンロから避け、火力を最大にした。火の大きさが最大になったその瞬間、ダクトから防火服姿の少女が飛び出てきた。
「アハハ! 死んで!」
少女は小型の火炎放射器を振りかざした。俺の顔を炎がかすめ、髪の焦げる匂いが辺りに漂う。どうしようもないので、仕方なく調味料ラックに手を伸ばし、ラー油と醤油の間に隠していた小瓶を少女に投げつけた。
「な、何これっ! あ、熱い……溶ける!」
顔面に直撃した
「次は……」
次が最大の山場、とも言える。卵を割る。この作業はさっと素早くやるしかなさそうだ。この分だと、そろそろ「おうち時間」も終わりが近いかもしれない。
「頼むから。誰も来ないでくれよ」
冷蔵庫から卵を一個、取り出した。ゴクリと唾を飲み込んで、卵の殻をフライパンの縁に当てようとした、まさにその時だった。
「あんた、前回の優勝者なんだってな?」
うんざりだ。俺は渋々ながらもそちらを見る。ベランダの窓が開いていた。風に揺れるカーテンを背にして、謎の男がリビングに立っている。ちなみにここはマンションの五階だ。なんというバイタリティ。彼のような者は、さぞ立派なハムエッグを作ることだろう。
「呑気なもんだな。命がけのゲームの最中だってのに、料理に夢中かい?」
馬鹿にしきった顔で彼は笑った。俺は、全くもって意味がわからない、という顔をしてみせた。実際、理解できなかった。
「あんたみたいな普通のやつが、どうしてここまで勝ち残ってきたのか、甚だ疑問だ。相手がたまたま雑魚ばっかりだったのかね。だとしたら、あんた相当ラッキーだな」
行き場をなくした卵を、ゆっくりと懐にしまう。
この国で、デスゲームが公式に「娯楽」として成り立ったのは、俺の生まれた年のことらしい。何もかもに恵まれ、何もかもに飽きた富裕層のため、明日の食い物にも困っている我々貧困層の人間は、こぞってこのゲームに志願する。
誰一人、長く生きたいだなんて思っていない。
ただ——今の飢えを癒すため。今この時、発狂しそうなほどの飢餓を凌ぐため、皆、様々なゲームに参加する。そうすれば、準備期間として与えられる最初の一週間だけは、国に衣食住を保証されるから。
「私は今回が初戦なんだ。悪いけど、王座は奪わせてもらうぜ?」
ああ、なんという最新鋭の装備だろう、と俺はつい見惚れてしまった。
彼はもう髪も肌もツヤツヤ、手にしたロープや防護服は見るからに頑丈そうで、そして片手には、ダイヤか何かでできているのか? と思うくらいきらきら輝く真新しいダガーナイフがある。どれもこれも、貧困層のプレイヤーには決して与えられない
「ラッキーなわけない。俺はむしろ不幸を引きつける体質だよ。いつもいつも、敵は向こうからやってくるし、ハムエッグは一度も作れないし」
「ハムエッグの匂いだったのか。良い匂いだな。あんたを殺した後で、ゆっくりいただくとしようか」
男がこちらに突進してくる。とっさにフライパンを掴み、側面で殴る。中のハムが飛び出て、宙を舞う。攻撃は肩に当たったものの、服が良いせいか手応えは薄い。
「死ね!」
隙を見せてしまった喉元に、ダガーナイフが迫る。ああ、死ぬくらいなら、一度だけでもハムエッグを作ってから死にたかった。全てを諦め、目を閉じた時だった。
「な、えっ?」
ペタ。間抜けな音にそっと目を開けてみれば、宙を舞っていたはずのハムが、男の顔に落ちて目隠しとなっていた。そしてそれと同時に、いつの間にか懐から落ちていた生卵が、男の足元で、古典的なバナナトラップよろしく見事に機能した。奴は赤子のように仰向けに、無様に転げて頭を打った。とどめを打つまでも無かった。彼は死んでいた。
「……」
結局勝手に死ぬんだったら、うちで死なないでほしい。
心底そう思いながら、俺は床の残飯と、死体を片付け始める。
「ああ、俺のハムエッグが……」
いろいろな意味で嘆きの声が止まらない。今までずっとこうだった。なんやかんやでいつもこうなる。
かつては、見栄えのいい遊園地や、無人島などを舞台とした「屋外デスゲーム」が盛んに行われていた。だが、今は感染症対策のため、プレイヤーが個室で暮らす「屋内型」や「人狼型」がもっぱらメインになった。このほうが、運営が薬の配布や体調管理をする時に便利だからだ(病気で死ぬのが一番ウケが悪いらしい)。
そしてやはり効率化のため、プレイヤーのプライベートの時間も、あてがわれる舞台の
「501号室のプレイヤー・エゴマ様。優勝おめでとうございます」
疲れ果てて床に座った俺に、合成音声が淡々と労いの声をかけた。
「次のゲームは三日後に始まります。明日の朝、別会場に移動していただきます。次の物資補給は二日後です。何かリクエストはございますか?」
あれが最後の卵だった。無残にも、しかし俺の命を救ってくれた、死んだ鶏の卵をビニール袋にそっと入れながら、俺は答えた。
「油とハムと卵」
ハムエッグ作りには向かない職業 名取 @sweepblack3
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます