無題

延暦寺

 

 間違っているとか、間違っていないとかの問題ではなかった。だから、あの喧嘩が起こるのだって必然だった。


 彼女と喧嘩をしてから1週間。その間に未知のウイルスの魔の手は世の中に深く浸食し、大学は休みになった。病院は見舞を受け付けなくなった。


 彼女と、会えなくなった。



 彼女は生まれつき心臓が弱かった。小学校から中学校にかけて入退院を繰り返し、満足に学校へ行けなかった。運動会や遠足にも出ることが出来ず、随分寂しそうな顔をしていたのを覚えている。高校に入ってからはしばらく落ち着いていたが、大学に入って十ヶ月たった1月、急に倒れた。彼女はほとんど僕の部屋で生活していて、彼女の部屋はもう解約しちゃおうか、なんて笑っていた矢先の出来事だった。


 彼女の両親が駆け付け、僕らは病室に泊まり込んだ。全く寝付けなかった。三日後、ようやく目を覚ました彼女に、残酷な事実を伝えなくてはならなかった。


 手術をしなくてはならない。成功率は8%


 彼女はそっか、といったきり黙ってしまった。中学の時、彼女が一番大きな手術を受けた時とよく似ていた。


 それから一か月間、大学が終わると真っすぐ彼女の病院に行った。いつも彼女は元気そうに笑い、それがいかにも痛々しかった。無理をしているのは目に見えていて、だから僕はなるべく長居しないようにした。今日あったことをお互いに話して、彼女のいない家へと帰った。彼女は誰も頼ろうとしなかったし、だから僕も誰に頼ることもしなかった。こういうのは無責任だろうか。


 あの喧嘩はそんな無理が綻びた瞬間だったのだと思う。彼女はぽつりと、このまま死んでもいいと言って、僕はそのことが許せなかった。彼女が自分自身の生き方を否定したことが許せなかった。僕も彼女のいっぱい相手を傷つける言葉が手裏にあって、だからボロボロになる前に僕はごめんといって帰った。彼女はちょっと申し訳なさそうにして、でも返事をしなかった。


 そして、会えなくなった。


 僕はせめて手紙を書いて仲直りをしようと思ったけれど、彼女になんて伝えればいいのか分からなくて、だから手術の予定日を三日後に控えた今日まで、何もできずにいた。こういうところが僕のバカなところである。どうしようもないところである。



 部屋はがらんとしていた。授業が全て休講になって、外出自粛が叫ばれる今、僕はずっと家に閉じこもって、真っ白な紙とにらめっこしていた。

 顔をあげると、至る所に彼女の跡を見つけてしまう。例えばコーヒーミル。自分は飲まないのに、可愛いからと買ってきて、ありがたく僕が使わせてもらっていた。

 あるいはぬいぐるみ。小さい頃からずっと一緒のテディベアで、彼女はそれを抱いて出ないと眠れない質だった。


 部屋のあらゆるところに彼女との想い出が染みついていた。この一週間、僕はずっと彼女のことを考えていた。目の前の椅子はずっと空席だった。彼女と一緒だったら楽しかったはずのおうち時間も、彼女が居なければ空しいだけだった。ただひたすらに辛かった。


 本当は謝り倒してでも彼女と仲直りすべきだということを頭では分かっているのだ。でもそれが彼女の人生に対する否定となることが許せなかった。


 ごめんねと、ありがとうと、生きて。


 それを一つにした言葉を、探していた。



 時計が午後3時7分を指した。ハッとした。2013年4月22日午後三時7分。中学生になってすぐ、彼女が大きな手術をすることになっていた頃。


 一度だけ、彼女の心臓は動きを止めたことがあったのだ。


 幸いほんの数分で彼女の心臓は血液を送り出し始めた。後遺症もなかった。

 そのことを聴いた時、僕の心臓も止まるかと思った。彼女が生きているという当たり前であるはずのことが、本当にありがたいことだと思った。

 多分その時だった。彼女のことが好きであると自覚したのは。



 そうか。

 彼女に言うべき言葉は一つだったのだ。

 あの時、まだ僕たちはただの幼馴染だったから言えなかった。

 恋人になってからも、何だか気障な感じがして気恥ずかしかったから言えなかった。


 今言わないでどうするのだ。


 僕は手紙にゆっくり、ペンが折れてしまいそうなほど強く、たった4文字のその言葉を書きつけた。気障だろうと何だろうとかまわなかった。それが今の、いやこの人生を通しての、彼女に対する思いの全てだった。


“愛してる”


 太陽は傾きつつあった。僕は病院へ走った。

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無題 延暦寺 @ennryakuzi

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