on time

半蔀

Morning

 午前7時13分。ハンドドリップした黒い液体が香ばしいにおいをキッチン中に広がらせた。ガラス製のコーヒーサーバーには側面に目盛りがついている。私は湯気で曇ったガラスの側面を確かめた。うん,いつもどおりぴったしだ。


 午前7時14分。私は用意しておいた二つのカップにコーヒーをそそいだ。二つのカップで量が同じになるように,交互に少しずつサーバーを傾ける。最後の一滴を注ぎ切ると,二つのカップの黒い液体はきっちり同じ量になった。同15分。


 この時間に二杯のコーヒーが出来上がっていないといけない。圭くんがこの時間に起きて来るからだ。ホントは7時に起きなきゃいけないのに。目覚ましのスヌーズを三回鳴らしてようやく起きる。


「おはよう……」

「おはよ」


 圭くんが眠そうな顔でキッチンまでやって来た。私はそんな圭くんにコーヒーを渡した。彼は眠そうな顔のままコーヒーをちびちび飲んだ。私はいつもの彼を見ながらいつものように嬉しくなって自分の分を飲んだ。その後二人で朝食を食べた。午前7時20分。


 午前8時30分。圭くんがリビングで仕事を始める。テレワークだ。今日は朝のミーティングが無い日なので,洗い物をするのに気兼ねしなくていい。キッチンで食器を洗っていると,リビングの圭くんと目が合った。二人して笑った。同53分。


 午前9時10分,部屋に掃除機をかける。1LDKの一室。それなりに時間が掛かる。仕事していた圭くんにはリビングを一旦離れてもらう。ノートPCを開いたまま持ってキッチンに避難する姿はちょっと面白い。同33分。


 午前9時55分,リビングで洗濯物をたたむ。圭くんは打ち合わせが入ったとかでヘッドセットを着けて難しそうな話をしてる。ちょっとカッコいい。何やら後輩から仕事の相談を受けているようだ。でも,アドバイスをする時にどや顔で言うのはどうかと思う。午前10時1分。


 午前10時30分,リビングで邪魔にならないように読書。午前11時35分,圭くんは少し休憩。一緒に紅茶を飲むことにする。二人して暖かい紅茶をちびちび飲んでいると圭くんは突然何かを思い出したような表情をして言った。


「僕たちって一緒に暮らして結構経つね」

「四年くらいかな」

「そうだね。そうだったね」


 圭くんはそう言ったあと何か言いかけるようだった。私は急いで彼の言葉を遮った。


「そろそろお昼作らなきゃ」


 私は立ち上がってキッチンに向かった。彼の視線を背中に感じた。


 午後12時30分。昼食。圭くんとお昼のニュースを見ながらカルボナーラを食べた。桜の開花が近いとキャスターが言っている。


 午後1時25分。圭くんは仕事に戻る。私はノートPCで次回分の宅配を注文する。我が家の食材は配送頼りだ。私はカタログから野菜やらお肉やら魚,お菓子,飲み物……色々選んでいく。二人して黙々と作業。そうだ,今日は夕方に配送が来る予定だ。


 午後3時30分。圭くんがおやつ休憩。私もご一緒する。コーヒーを淹れる。うちではインスタントは飲まない。ちゃんとした豆のハンドドリップがこだわり。最初の蒸らしが肝心だ。少量の熱湯を注いでコーヒー粉をふっくらと膨らませる。しばらくすると,ぽたぽたとしずくが落ちてくる。コーヒー粉にお湯の通り道ができた証拠だ。あとはその通り道を狙ってお湯を数回に分けて注いでいく。何度も何度も繰り返した作業だ。私も結構コーヒーを淹れるのが上手くなったと思う。四年も経ったんだ,そりゃあそうか。上手くなったのはコーヒーを淹れることだけじゃない。料理も洗濯もお掃除も。繰り返し繰り返し,同じように繰り返した。だから上手くなった。一つのことを同じように何度もすることが大事なんだ。


 午後4時20分。宅配が来る。一週間分の食料を運ぶのは重労働。でも慣れたもんだ。


 午後5時30分。一足先にお風呂に入る。圭くんはまだお仕事。


 午後6時10分。圭くんのお仕事終了。圭くんはお風呂に入る。その間に私は夕食の準備をする。


 午後6時40分。夕食完成。今日は圭くんの好きな鳥のからあげ。冷凍のやつだけど,最近のはレンジでチンするだけでホントに揚げたてみたいになる。それに加えてレタスのサラダとお味噌汁とご飯をつけた定食メニューが今日の献立。同45分,いただきます。


 午後6時48分。圭くんはなんだか浮かない顔だった。からあげ,好きなはずなのに。「おいしいよ」と声を掛けると,彼は気のない返事をして食べ始めた。私は何だろうと思ったけど深くは尋ねなかった。圭くんはいつもより口数が少なかった。


 午後8時25分。洗濯物を乾燥機に掛ける。圭くんはリビングのソファに座ってテレビを見ている。でもどこか心ここにあらずって感じだった。私はやっぱり変だなと思ったけど気にせず一緒にテレビを見ることにした。


 刀鍛冶の職人についての取材だった。真っ赤に熱せられた鋼を迷いのない動作で叩いていく。叩いて,叩いて,折返して,また叩いて。私が毎日コーヒーを淹れるのとちょっと似ている気がした。


 作業のあとに,取材に行った若い俳優が刀工に尋ねた。どうしたら上手く刀が作れるようになるんですか。刀工は,何度も繰り返して体で覚えることです,と答えた。そうだそうだ,何度も繰り返すことが大切なんだ。刀工はもう一つ付け加えた。ただ,毎回同じに打っても良い刀にはならない,鋼に含まれる炭素の量も物によって異なるし,気温も湿度も毎日異なる。同じように良い刀を作るには,今目の前の鋼にとって最も適したやり方で打たなければならない。それは自分で毎回考えないといけない。


 圭くんがテレビを消した。彼は私の方に向き直って言った。


「僕たちが付き合い始めて何年になるかな」

「えっと……」

「六年だね」

「そっか」


 この話は苦手だ。その先を聞きたくない。


「早織,聞いて」

「わ,私,乾燥機かけ忘れたかも」


 ソファから慌てて立ち上がる。しかし,今度は逃げられなかった。


「ねえ,僕はそろそろ僕たちの将来を考えたいんだ。早織が前向きじゃないのは分かってるよ。だから今まで話をして来なかったけど……。もう六年なんだ」

「まだ六年だよ」


 私は震える唇でそう答えた。体がぶるぶると震えた。いつもどおりに,いつもどおりにしたいのに。


「早織は僕と一緒になりたくないの?」


 圭くんは悲しそうな顔をして言った。


 ずるい。そんな言い方しなくてもいいのに。もっと,こんなときじゃない,ちゃんとした時に,二人でじっくり話せばいいのに。だって,今だって一緒にいるじゃないか。いつもみたいに起きて,いつもみたいに仕事して,いつもみたいな一日の終わりに,話すべきことじゃない。絶対に今じゃないよ。


 私は震えて物が言えなかった。そんな私に圭くんは呆れたようにため息を吐いた。私は背筋が凍りつく思いがした。まるで丹念に設計図どおりに模型を作り上げていたら,途中でその設計図に間違いが見つかってしまったかのようだ。


 圭くんは寝室に一人で行ってしまった。私は一人リビングに取り残された。


 私は圭くんと二人この1LDKでいつまでも毎日を繰り返せれば十分だった。一緒に住み始めて四年。すべてがこの部屋で完結していた。私はこの部屋を,完璧な設計図から作り出した模型たちのように,精確に何も変わることなく,ただ繰り替えす日々にしたかった。午前7時15分のコーヒーで始まる世界。私にとって,何よりも大切なものなのに。その模型の中の日々は彼の突然の一言で,その設計図の完璧さにほころびが見えてしまった。


 翌朝,午前7時0分。コーヒーを作る。ドリッパーにペーパーフィルターをセットし,コーヒー粉を二人分入れる。フィルターの中で粉が均等になるようにドリッパーを軽く叩いてならす。サーバーにドリッパーをセットして,お湯が湧くまで待つ。同10分。お湯が湧く。


 午前7時13分。ドリップ完了。いつものように二つのカップに交互に注いでいく。圭くんはまだ起きて来ない。結局,あの後圭くんは先に寝てしまった。私も圭くんを起こさないようにして寝た。まだいつもの時間まで二分ある。でも今日は何だか不安だった。いつもの朝はいつもの通りいかないような気がした。そんな想像をして,ぞっとしたものが背筋を走った。


「あ」


 変な想像をしたのが良くなかった。サーバーはカップから狙いを外し,テーブルの上に盛大に黒い液体を撒き散らした。液体はやがて重力に引っ張られて,テーブルの端へ溜まり,そして,ぽたぽたと地面に落ちた。床に落ちたコーヒーが小さな黒い水たまりを作った。


 私ははっとして顔を上げた。午前7時15分。寝室から物音がした。


 コーヒーはまだ用意出来ていない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

on time 半蔀 @hajitomy

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ