ルビィとソフィア
砂鳥はと子
第1話 言葉は伝わらなくても
国外れの森を通って家に帰ろうとしていた時だった。泣き声のようなものが聞こた気がして私は立ち止まる。
風がそよそよと吹く昼過ぎのことだ。
何かを聞き間違えたのだろうか。私は再び歩き出す。
春が訪れたばかりの森は新緑の爽やかな緑と、色とりどりの花で溢れている。
道の脇に並ぶ黄色い花に目を奪われていると、視線は誘導されるように一本の木へとたどり着いた。
木漏れ日が落ちる大きな木の根本に、薄汚れた布をまとった猫族の亜人の少女がうずくまっていた。
肌も野放図に伸びた髪も泥まみれになっている。。
私が住む黒豹族の亜人が住む国は、大陸の北にあり、他国とは巨大な河によって隔てられている。他の種族が滅多に出入りしない国でもあった。一方、猫族の国は大陸の南にあり、温暖な気候を好む彼らは北のこちらでは見かけることがほとんどない。
なのでこんなところに猫族の少女がいるのはとても珍しい。
無視して通り過ぎても良かったのだが、私は足を止めた。
近づくと猫族の少女は顔を上げる。
「なー、な、なー、なー」
何か訴えるように言葉を発するが、猫族の言葉は分からない。
「どうしたの?」
聞いてはみたが、少女もまた私の言葉が分からないようで瞳が困惑している。
茶色い大きな耳もへたりと前に倒れていた。
私はなるべく優しく笑みを浮かべて、安全な生き物であることをアピールする。
「迷子なの?」
無駄とは分かってもつい話しかけてしまう。
「なー」
泣きそうな表情の少女が赤い宝石のような瞳で私をじっと見ている。
しばらく無言で見つめ合う。
どうしたものかと思案していると、ぎゅるるると小さな獣の悲鳴じみた音によって、沈黙がかき消される。少女の腹の虫が鳴ったのだ。
「家に来る?」
思わず私は少女へ手を差し伸べていた。
少女は戸惑ったように小首を傾げるが、私の手を掴んだ。
「大丈夫よ。取って食べたりしないから」
私は屈んで目の高さを彼女と合わせる。
よくよく見れば愛くるしい顔をしている。年齢は黒豹族なら十四、五歳くらいだろう。
猫族は我々黒豹族に比べると体も小柄で、顔立ちも幼いので実際にはもう少し年上かもしれないが。
年齢を聞いたところで言葉が通じないので確認はできない。
私は猫族の少女を連れて家へと帰った。
「なーっ! なーっ!」
まず最初はお風呂であろうと思い、浴室に入れようとしたが嫌がられた。
「体をきれいにしなきゃだめよ。入りなさい」
「なーっ」
「こんな汚れたままでいいわけないでしょ。あなたがお風呂に入っている間にご飯を作っておくから」
私はバスタオルと着替え用のワンピース型のパジャマを押し付けて、浴室の扉を閉めた。
逃げたりはしないと思うが、逃げられたところでこちらが困ることはない。あの娘の先行きが少し不安になるくらいだ。
私は宣言通り、台所でお昼の支度を始める。猫族が何を好むかよく知らないが、鼠族や兎族と比べたら黒豹族とそこまで好みは変わらないはずだ。
かなりお腹を空かせてそうなので、私は肉をふんだんに使った料理を拵える。
その他にも冷蔵庫のあり物で適当に作り整えた。
浴室の前に行き、ノックをする。
「入ってもいい?」
「なー」
と返事が来るがもちろん、「いい」なのか「嫌」なのかは分からない。声音は「いい」に聞こえるので、ゆっくりと戸を開けた。
脱衣場で真っ白な少女と対面する。ちゃんと身体を洗ってくれたようだ。
少女は真新しい洗濯物のような白さで佇んでいる。肌も、耳やしっぽの毛並みもやや青みがかった透き通る白だ。
さっきまでの泥だらけからは想像もできない。
「随分、変わっちゃったね」
私はバスタオルで彼女の髪を拭いてやる。
「まるでどこかのお姫様ね」
育ちがよさそうに見えるが、何故黒豹族の住む国にいるのか。何故あんなに汚れた出で立ちだったのか。少女と言葉が通じるようにならなければ、永遠に分からないままだろう。
私は彼女に手渡したパジャマを着せる。何分、体の大きさが違うので無難なものを選んだらこれになった。彼女は私の腕にすっぽり収まるくらいに小柄である。
「さて、ご飯にしましょう」
私は少女の手を引いてリビングへ向かった。
リビングの席に座らせると、少女は目をキラキラさせて食卓を見ている。
「なー?」
「食べていいのよ」
私は器とフォークとスプーンを指した。
「な〜?」
言葉が通じないというのは不便だ。
私は彼女の手にスプーンを持たせ、私もスプーンを持つ。そして目の前のスープを掬って飲んだ。
「なー、なー?」
少女はスープをじっと見つめた後に、そっとスプーンで掬い口に運ぶ。
「なー!!!」
口に合ったのか笑顔になる。
何度もスープを掬っては美味しそうに飲んでいる。
「他のも食べていいからね」
少女はよほど空腹だったのだろう。一度手をつけたら止まらない勢いで、皿の中身を減らしていく。
いい食べっぷりに作った私も嬉しくなる。久しぶりに楽しい食事になりそうだ。
少女の食事が落ち着いたところで私は名前を聞いてみることにした。
「ねぇ、あなたの名前を教えて。私はねソフィア」
自分の顔を指してもう一度「ソフィア」だと名乗る。
「⋯⋯ソフィニャ?」
「うーん、ちょっと惜しい。ソフィア」
少女はじぃっと私は見て指をこちらに向ける。
「ソフィニャ!」
「そう。ソフィア」
多少の間違いはしょうがない。彼女には発音しにくいのだろう。私は分かりやすいように大きく頷く。
「あなたは?」
今度は指先を少女の顔に向ける。
「なぁー?」
上手く伝わらなかったのか少女は私を指す。
「違う。あなたよ」
私はその指先を掴んで少女の方へ返した。
「なぁ、なー! ルビィ! ルビィ!」
「ルビィ? それがあなたの名前?」
「ルビィ! ルビィ!」
少女は自分で自分を指してにこにこしながら何度もルビィだと言う。
目の色も名前に相応しい赤色。彼女の名前はルビィで間違いないだろう。
「ルビィ」
呼びかけると「なー!!」と返事をする。
取り敢えず名前だけでも分かってよかった。
勢いでルビィを家に連れて来てしまったけど、これからどうしよう。
そんな事を悩みながら、私はルビィを家に残して商店街へ来た。取り敢えずルビィに着せるものを見繕わなければならない。
私は十代の子が好む比較的安価なお店に入った。動きやすそうで、シンプルな服を選ぶ。
レジで会計を済ませながら、なぜ出会ったばかりの異種族の少女のために散財しているのか不思議な気持ちになっている。
ルビィは放っておけない可愛らしさがある。このまま街や森にほったらかすには抵抗があった。
しかるべきところに連れて行くのも、はばかられる。
どうしてルビィが故郷であろう猫族の国から遠く離れたこの地にいるか分からないからだ。
出会った時にあんなに汚れていたのは一人で旅してきたからだろう。お金も持ち物もなく、着の身着のままここまでやって来た。
家出なのか逃避行なのか。
私はそれを聞き出す術がない。
家に戻るとルビィはソファの上で寝転がっていた。
「ただいま、ルビィ」
「ソフィニャ!」
ルビィは起き上がると私に抱きついて来た。
「ソフィニャ、ソフィニャ〜」
寂しそうに私を見上げる。
「一人は嫌だった?」
私は小さなルビィな頭を撫でた。
「なー、なぁ、なー! ソフィニャ!」
ぎゅっと強くしがみつく。不安だったのだろうか。
「大丈夫、大丈夫。ところであなたの服を買ってきたの。好みに合わなかったからごめんね」
私は袋から服を取り出して見せた。
「なぁ〜?」
「ルビィの」私は彼女を指し、
「服」と新しい服を指す。
「ソフィニャ! ソフィニャ!」
ルビィはいくつかある服から紺色のダボッとしたワンピースを手にした。
「それが気に入ったの? 着てみる?」
着ていいことを何とかジェスチャーで表すと、ルビィは勢いよくパジャマを脱いで裸になる。
「ごめん、ルビィ。先にこっちを着てね」
私は下着を渡した。いくら家の中でもワンピースの下が裸のままでは困る。
ルビィは下着をつけ、その上にワンピースをまとう。
「ソフィニャ!」
私に「似合う?」と言わんばかりにその場でくるりと回る。
「うん、似合ってるよ」
「なー!なー!」
ルビィもすっかりご機嫌になった。
(なんだろう、すごく可愛い)
心の奥底から愛おしさが溢れてくる。これもひとえにルビィが可愛らしいからなのか。
「ソフィニャ!」
甘えるように私に頭を擦り付けてくる。
撫でてあげると満足そうにニマッと笑う。
「似合う。似合う」
「ニア、ウー?」
「そう。似合うよ。可愛い」
「ニアウー。カアイー」
ちゃんと意味が通じてるかは知る由もないないが、カタコトで一生懸命真似る様は胸に来るほど可愛い。
(ルビィをどうしていいかまだ決められないけど、しばらくは一緒にいてもいいよね)
私は会って間もないルビィにかなりの情が湧いている。
ルビィを連れ帰ってから一週間が過ぎた。
結局この一週間、私ははっきりとルビィをどうするのか案が出ないまま生活していた。
「ソフィニャ、ルビィ、コレ、スキ。アレ、スキ」
ルビィは夕食に並ぶムニエルと肉料理を指して言う。
一緒にいるうちに、ルビィはいくつか黒豹族の言葉を理解するようになった。
「ソフィニャ、ルビィ、アレキライ。イヤ」
ルビィは野菜の盛られたサラダを手前、私の方へ押しやった。
「これも食べなさい。純粋な獣と違って私たち亜人は野菜だって美味しく食べられるんだから」
「イヤ。コレイヤ!」
「食べなさい」
私はフォークに野菜を突き刺してルビィの口元に持って行く。
「なぁっー!」
ルビィは首を左右に振る。
「わがまま言わない。食べなさい」
「⋯⋯⋯⋯」
渋々といった顔をしながらもルビィは野菜を口にする。砂でも食べているような顔で咀嚼すると、肉入のスープで一気に流し込む。
「ソフィニャ、イイコ。イイコ」
ルビィはこちらに頭を付き出す。これは撫でろという意味だ。
「はい。偉いね、ルビィ」
撫でるとルビィは得意満面の顔になる。
「ルビィ、エライネ?」
「うん。偉いよ」
素直で可愛い反応のルビィを見ていると、このままずっと一緒に暮らしていてもいいかという気になる。
夕飯を終えてお風呂に入り、私たちはベッドに並んだ。この家には私が使っているベッドしかない。
ルビィは私と一緒でも寝られたら気にしないのか、来た時から同じベッドで眠る。
淡いピンクのパジャマ姿のルビィは本棚から数冊本を持って来た。
「ソフィニャ〜」
「ルビィには難しいと思うけど」
読み聞かせたところで、ほとんど言葉の分からないルビィには理解できないだろう。
「そうだ、ルビィがどこから来たか知りたいんだけど⋯⋯」
私は地図帳を持って来た。
おそらく猫族の国からだとは思うが、何かあった時のために確認しておきたい。
私はこの大陸の地図が乗っているページを開いた。
「私たちが住んでいるのはだいたいこの辺」
私は床を指した後に地図で大まかな場所を指した。ルビィは珍しく表情もなく地図を見入っている。
「なーっ」
ルビィは嫌がるように首を振る。
「イヤ!」
強引に地図を閉じると私にしがみつく。
「ソフィニャ、イヤ! なー、ななーな!」
身体が少し震えている。
これは故郷には帰りたくないということなのか。思い出したくない過去があるのかもしれない。
「分かった、分かった。ルビィがどこから来たのかは聞かないよ」
私は安堵できるように優しく背中をたたいた。
私とルビィは一日のほとんどを共に過ごしている。私は物を書く仕事でささやかながら生計を立てていた。基本的に家に籠もって仕事をしている。
だが時には取材のために遠くへ出かけることもあった。ルビィと出会ったのはその帰りのことでもある。
今のところ遠くに行く用事はないが、その時が来たらルビィを留守番させられるのか心配だ。一人で何も出来ないほど幼くはないが、彼女はどうにも寂しがりやである。
私が買い物で少しいなくなることにも不安を覚えている。
そんな子を今更他人に委ねる気にはならなかった。
私が見つけて連れて来てしまった以上、やはり私が責任を持って面倒を見るべきではないだろうか。
「ソフィニャ〜!」
私が仕事部屋で書物をしていると、ルビィがシャツを持って入って来た。
「ソフィニャ、キレイ? キレイ?」
「うん、きれい。きれい」
ルビィは何もやることがないので、いくつか家事を教えたらできるようになった。
今日はアイロンがけをやらせてみたのだが上手くいったようだ。私のシャツはシワ一つなくまるで新品のようだ。
「ルビィはいい子だね」
「イイコ!」
シャツを持ってクルクルと嬉しそうに回っている。
「あと少しで仕事の区切りがつくからちょっと待ってて。あとで散歩がてら買い物に行きましょう」
「カイモノー!! ソフィニャー!」
ルビィも出かけたかったのか喜んで私に飛びついて来る。
純粋無垢なこの子を見ていると、私の心の中に温かさがいくつも生まれては広がっていく。
もうルビィを手放すなんて考えられなくなっているのだから、私は実に単純なのかもしれない。
私は手早く仕事を済ませて、ルビィと共に外へ出た。
たまにはいつもと違うルートで市場に行くのも楽しいのではないか。そう思った私は普段は使わない道に向かって行く。
ルビィは物珍しそうに石畳の道をキョロキョロしながら進んだ。
しばらく進むと街道は河沿いに出る。深い青色の水面をたたえた河が横たわっていた。水鳥がのんびりと浮かんでいる姿も見られる。
「見て、ルビィ。河よ。ほら、あそこに鳥がいる」
「イヤ!」
興味を示すかと思ったルビィだが、怯えた様子で私の背中に隠れた。
「イヤ、イヤ」
ルビィは私の手を引っ張り、河とは反対側に行こうとする。
家に来た時にはお風呂を嫌がっていたし、今も私がはっぱをかけなければ入ろうとしない。水が苦手のようだった。
「ルビィは河が怖いのね。じゃ、市場に行きましょう」
私はルビィと共に河に背を向けて、本来の目的地へ赴いた。
市場はほどほどに賑わいを見せ、様々なものが売られている。
私たちは野菜と果物を扱う露天商のテントへと来た。ルビィは自分の目と同じ色をした果物に興味津々だ。
「ソフィア、久しぶりじゃないの。今日は珍しく連れがいるのね」
露天商のカリサが物珍しそうに私とルビィを見ている。
「ええ、まぁ。ちょっと、知り合いの子を預かっていて⋯⋯」
いつも良くしてくれるカリサに嘘をつくのは心苦しいが、まさか拾って来ましたとも言えない。
「あら、そうなの。ソフィアったら仕事のネタのために異国のお姫様でも拐かしてきたのかと思ったわ!」
「もう、どういうことですか。お姫様をさらうなんてそんなイメージ持たれるなんて心外です」
「ソフィア知らないの? 最近、隣国に物見遊山に来ていた猫族のお姫様がいなくなったんだよ。ちょうどソフィアが連れてるようなアルビノらしくてね。何でも婚約が嫌で脱走したらしいよ。今も従者が探し歩いてる」
「そんなことが⋯⋯」
果物に夢中になっているルビィの横顔に目が行く。確かにお姫様でも違和感ないような育ちの良さが滲む容姿と純粋さを持ってはいる。
「そのお姫様ってのは確かルビィって名前だったかしら。もし見つけたら褒賞金が出るってさ」
「へぇ〜」
私は手にした野菜を落としそうになった。
ルビィはもしかしたら、いや確実にその遁走したお姫様なのだろう。それともたまたま偶然、同じ名前の少女が黒豹族の国に迷い込んでしまっただけなのか。
変な汗が背中を伝った。
家に戻ってからも、私は気が気でなく落ち着かなかった。ルビィは行く宛のない帰る場所もない少女ではない。由緒あるお姫様。きちんとあるべき場所へ返さなければならないのは明白だ。
「ソフィニャ〜?」
考え込んでいる私を心配してか、ルビィは切なそうに私を見つめる。
「ソフィニャ、イイコ。イイコ」
ルビィなりに私を励まそうと頭を撫でてくれる。
「ありがとう、ルビィ」
どんな出会いにも別れはある。だからルビィとも。
分かってはいても私はこの子がいない生活を想像して悲痛な気持ちになっている。
「ソフィニャ、ソフィニャ!」
ルビィが目に涙を潤ませている。私はいつの間にか泣いていた。それを見て、ルビィも泣きそうになっている。
ついこの間出会ったばかりのはずなのに、もう何年も一緒にいるような錯覚すら感じている。
「ごめんね、ルビィ」
私はぎゅっと目の前の少女を抱きしめた。
柔らかで温かな小さな身体。この愛おしい存在と別れなければならないなんて、辛い。彼女は私の癒やしだ。心を温かくしてくれる灯火のような存在。
悲しい気持ちに水を差すかのようにドアのノックが私を現実に引き戻した。
こんな時に客人の相手をする気はないが仕方ない。
私は気持ちを切り替えて、ルビィを放すと玄関へ向かった。
扉を開けると、そこには二人の猫族の男性と一人の黒豹族の男性が立っていた。
「突然の訪問、失礼いたします。こちらはソフィア・スイーニーさんのお宅でしょうか?」
と黒豹族の男が口を開く。
「ええ、そうですが」
何だか胸騒ぎがする。
「こちらのお宅にアルビノの猫族の女性が入って行くのを見たという話をご近所の方から伺ったのですが、こちらにそのような女性はおりませんか?」
私はどう答えるべきか、すぐには口が開かない。
「ソフィニャ〜?」
気になったのか部屋の奥からルビィが顔を出す。
「なー!、なーな、なー!」
猫族の男たちが一斉にルビィを指さす。
私は来るべき時が来てしまったのだと悟った。
通訳である黒豹族の男性を介して事のあらましを聞いた。
ルビィは猫族の国に住む貴族の姫なのだそうだ。
虎族の青年と婚約することになり、家族と共に虎族の国まで物見遊山でやって来たものの、婚約が嫌で逃げ出した。
森や野山をひたすらに走り抜け、遠くまで来たものの大きな河にぶつかってしまう。近くに橋はなく、かと言って戻れば婚約させられる。
泳ぐのが苦手だったルビィは観念して、河を渡ることにした。手頃な流木を浮きの代わりに使いながら、命からがら何とか河を渡り切った。目の前には森が広がっている。
折り悪く雨が降ってきたが、それでもルビィは構わずに泥だらけになりながら森を彷徨い、ようやく道に出た。
そこで気が抜けたルビィは疲れと空腹でへたりこんでしまう。
ルビィは木の根本で夜を明かして朝を迎え、太陽が真上に来る頃、私と出会ったというわけだ。
私もルビィと会い、家へ連れ帰った経緯を簡単に説明した。取り敢えず、姫を拐ったわけではないことは分かってもらえた。
ルビィはといえば従者たちに見つかり、しょんぼりして座っている。
猫族の男たちはルビィに必死になって色々と話しかけていた。
「ソフィニャ、なー、なー⋯」
「ルビィは何と言っているの?」
通訳に尋ねる。
「ソフィアと離れたくない、と」
「私だってそれは⋯⋯」
でも見つかってしまった以上、ルビィは家へと帰らねばならない。
従者たちはなおも説得を続け、とうとうルビィが折れた。
「ソフィニャ⋯⋯!」
大粒の涙をこぼしながらルビィが泣く。
私も泣きたい気持ちでいっぱいだったが、ここは我慢しなければ。そうしなければ、今すぐにもルビィを連れてどこかへ行ってしまいそうだったから。
「ルビィ、短い間だったけど、あなたがいて楽しかった」
私は大事に大事にルビィを抱擁する。
「またいつか、会いましょう。きっと会えるから」
「ソフィニャ⋯」
私は涙を堪えて、ルビィが去るのを見送った。
季節は進み、穏やかな春から燦々と光が降り注ぐ夏へと変わった。北国の短い夏が始まろうとしている。
私は窓際の席でお茶を飲む。以前、ルビィが市場で選んだ茶葉から淹れたものだ。
夏になってもどことなく私の気持ちが浮かれないのは、ルビィがいなくなったせいとしか言いようがない。まだ寂しい思いが胸にくすぶっている。
ため息をつき、お茶を口にしたところで扉を叩く音がする。客人だろう。思い当たるふしはなかったが、取り敢えず玄関に行く。
「どちら様ですか?」
「ソフィニャ! ソフィニャ、ルビィ!ルビィ!」
「ルビィ!?」
久しぶりに聞く声にびっくりしながらも私は扉を開いた。
「ソフィニャ〜!」
柔らかくて白くて小さな生き物が私の腕に飛び込んで来た。
「ルビィ、どうしたの? 何故ここにいるの!?」
「ソフィニャ、ルビィ、リューガク。ソフィニャトスム」
「留学?」
「ソフィア様、お久しぶりです」
扉の向こうから以前会った通訳の黒豹族の男性と猫族の従者が現れる。
「これはどういうことですか?」
「この度ルビィ様は黒豹族の国へ勉学のため留学することになりました。それで当分こちらで生活することになったのですが、ルビィ様がどうしてもソフィア様と暮らしたいと申しまして」
「そうですか。私は構いませんけど⋯⋯」
「ソフィニャ、イイ? ルビィトスム、イイ?」
「もちろん、いいよ。いいに決まってるでしょ」
話を聞くとあの後、国に帰ったルビィは何日も部屋に引きこもり泣いていたという。私と会いたがっていたそうだ。
それを見かねた両親がルビィに留学話を持ちかけたという。初めはルビィを元気づけるための方便だったようだが、あまりにルビィが喜んだために、留学させざるを得なくなった。
ルビィはそれなりの住まいをこちらに用意してもらったそうだが、どうしても私と住みたいとここまでやって来てしまったらしい。
「もう、ルビィったら周りの人を困らせたらダメじゃない」
「ソフィニャ〜! ソフィニャ〜!」
肝心のルビィはこちらの話など聞いてない。困った娘だ。でも、喜んでいる私がいる。
「ソフィニャ、ルビィ、スコシ、コトバ、ワカル、ナッタ」
「みたいね。前よりはお話できるね」
「ソフィニャ〜!」
ルビィは甘えるように私の身体に顔をうずめている。可愛くてたまらない。
(また一緒に暮らせる)
それだけで私は幸せだった。
私たちの新しい、そして楽しい夏がやって来る。
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