ウェルカム マイ ホーム

みこ

ウェルカム マイ ホーム

 ガチャ、ガチャン。

 つまらないキーホルダーひとつだけ付けた鍵を、玄関ドアの鍵穴に挿し、ドアを開けた。キーホルダーが揺れる。それは確かに私が買ったキーホルダーで、けれど、描かれたアニメか何かのキャラクターが実際なんなのかは知らない。ただ、そこにあったから買った、それだけのキーホルダー。

 カション、とそのつまらないキーホルダー付きの鍵を指定位置の引き出しの中にしまい、いつものようにぐいっとスニーカーを足から離すと、ふいっと自分に向かう視線に気づいた。

 視線が合う。

「……おかえりなさい」

 座布団の上で足を崩し、肩より長い明るい茶色の髪を揺らしながら、その少女は軽く振り返るようにこちらを見て、のんびりとした笑顔でそう言った。

 だから、私もにっこりと笑顔で「……ただいま」と言ったんだ。


 鞄を無造作に放り投げると、ゆっくりと手を洗い、うがいをする。

 そして、台所へ立つと、昨日作った鍋を火にかけた。

 その場に立ったまま、ぼんやりとテレビを眺める。テレビではトーク番組がやっていた。芸能人同士で語られる面白エピソード。

「ふふっ」

 普段はあまり見ないけれど、時々見ると面白い。

 あの子は、ずっとテレビを見ていたんだろうか。ふいっと見ると、クリーム色のカーディガンの背中がいかにも真剣ですと言うような素振りでテレビに食いついている。

 鍋が温まったところで、お皿二つを小さな棚の中から用意した。

 大根、こんにゃく、じゃがいも、たまご。言わずもがな、おでんと言われるそれである。ささやかながらカラシもつけて、テーブルの上に置いた。お箸を差し出す。

「あ、ごめんなさい手伝いもしなくて……」

 集中していた顔が、やっと気づいたというようにこちらを向いた。くりんとした純粋な瞳。この子はそんな瞳、する子だったかな。一瞬そう思いかけて、思い出すのをやめた。

「……いいよ、そんなの」

 それでも申し訳なさそうな顔だ。

 向かい側に座る。

「いただきまーす」

 大きい声と小さい声。嬉しそうな声と投げやりな声。チグハグな二人だった。少しズレた声で、二人で声を出した。

 パクリ。

 目の前の瞳が、きゅるんと音を立てそうなほど煌めいた。

「お……っ、おいしい〜!」

 その嬉しそうな顔が、固かった空気を、壊した。

「そうでしょう!うちの秘伝の味付けなの」

 にっこり笑いかけると、真っすぐな笑顔がこちらを向いた。

 その瞬間から、笑顔の絶えない時間になった。

「私は、おでんはやっぱりタコだなぁ」

 串に刺さった味の染みたタコを口に入れながら言う。

「あたしは、ロールキャベツ!」

「いいね!?」


 空いた缶ビールが、2本。ほとんどなくなったおでんの鍋。明るく照らす天井の電気と、つけっぱなしのテレビ。気づくともう深夜番組になっていて、アーティストが1人、何かを語る番組が映っている。

「ありがとう……おいしい……おでん」

 手元の空になったお皿を見つめているみたいだった。でも、本当に見ていたのは違うものだったかもしれない。

 下を向いた茶色の髪がふわりと揺れた。

 ああ、その揺れ加減は知ってる、と思った。

「ねえどうして……」

 顔を上げたその瞳は、涙で潤んでいた。

「どうして……?」


 怒らないの、か。

 その言葉を聞いて、苦しくなる。息が、しづらくなる。

 そりゃあびっくりはしたよ。

 だって、部屋に帰ったら、

 一人暮らしのワンルーム。逃げ場所もない。セーラー服姿の女の子。知り合いでもない。会話もしたことはない。

 ひとつだけの座布団に座り、出されたおでんを嬉しそうに頬張る女の子。

 それでも。

「……怒らないよ」

 そう応えた。

 だって、私はから。

 びくつくような顔で、その女の子が泣きじゃくる。

 おずおずと、ちゃぶ台の向こう側まで、その手を握りに行く。


 そう、私はその女の子を知っていた。

 朝乗っている電車の窓から、何かが貼りついたような顔で、思い詰めたような顔で、じっと、踏切の向こう側から過ぎゆく電車を眺めている女の子。

 気づいたのは2週間くらい前。

 その日から毎日、この女の子が立っているのを見ていた。

 何を考えているのか、薄々勘付いていたのに、どうして放っておいてしまったんだろう。どうして何もしなくても大丈夫だなんて思ったんだろう。


 その手を握る。

 温かさのないその手。冷たくすらない。

「私こそ……」

 言いかけて、何を言っても遅いような気がして、言葉を紡ぐのをやめた。


 今朝の光景を思い出す。嫌でも思い出した。

 いつもの踏切。

 そこにいない女の子。

 踏切脇で、作業員さんが二人、何かやっているのが見えた。

 運ばれる小さなブルーシート。

 あ……、と思った。

 何があったのか予想がついてしまい、それでも目を背けることが出来なかった。


 腕の中で、女の子がしゃくり上げた。

「お、おいしかった。おでん。……テレビも楽しかった……。話すのも楽しかった……」

「私も……。私も楽しかったよ……」

 それだけ言うと、涙でいっぱいの女の子の瞳が、こちらを向いた。

 くしゃくしゃな顔で、また泣き出して。

「ありが……とう……」

 その言葉だけを絞り出すと、手の中から、……目の前から、どこか溶けるようにその子が消えた。


 翌朝。

 いつもの電車に乗った。いつもの踏切。探したけれど、当たり前のようにあの子はいなかった。

 ぼんやりと昨夜のことを思い出す。

 夢だったかと思う。けど、どこから?

 確かに、手を……握った。

 握った手を、思い出しながら、そこに咲いている花を眺めた。

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