第42話 反魂の祈り


 雨の上がった空は昏く、昼か夜かの区別もつかない。


 降り注いだ黒血油のような雨が染め上げたトーチ・タウンは、神人の喪に伏しているかのように静まり帰っていた。


 羅刹鬼が第七魔導研究所別棟の屋根を壊し、ゆったりと傅くようにその場に屈む。


 眼下の実験室には鬼の骨の魔法陣が整然と並べられたままになっている。


 奇跡的に無事だったことに、キサラは思わずサヤの勾玉を握りしめた。


『行けよ、キサラ』


「ありがとう、羅刹鬼」


 キサラが羅刹鬼を降りると、蒼く揺らめいていた焔が消えた。


 羅刹鬼が伸ばした腕を伝って降り、キサラは実験室の魔法陣の中に辿り着いた。

 羅刹鬼に捧げ、喰らい尽くされた命が間もなく尽きることは、誰の目にも明らかだった。


『もっと喰いたかったがなァ。こっちの嬢ちゃんに叱られそうだ』


 羅刹鬼の口から、エンネアの魂が戻される。

 穏やかな優しい光に囲まれたエンネアの魂は、キサラの元に駆け寄り、柔らかに抱きついた。


「エンネア……」


『キサラさん。勝ちましたね』


 エンネアの声が震えているのがわかる。


「ええ……」


 抱きしめかえしたキサラの手は、エンネアを擦り抜けた。

 キサラは苦笑を浮かべてエンネアの髪を撫でるように手を添え、頭上の視線に応じた。

 操縦槽を開けたイルフリードが、無言のままキサラを見下ろしていた。


「……ありがとう、イルフリード」


「護ってやるつもりが、護られたか」


「いいえ、あなたの功績よ」


 イルフリードの苦笑にキサラは頭を横に振った。


「……お前のお陰で、神人殺しの名を得た。今生の別れに、ひとつ望みを叶えてやろう」


 そう言ってイルフリードは、いびつにわらった。


「……望みは、自分で今から叶える。あとは、あなたの良心に従って――」


「私に良心があると思うか?」


 キサラの言葉にイルフリードの失笑が重なる。

 キサラは微笑んで深く頷いた。


「ええ、きっと」


「…………」


 イルフリードは答えなかった。

 キサラも答えを求めずに、眠るエンネアの身体の上にサヤの勾玉を置いた。


 ――サヤ、あなたが叶えようとしたことは……


 勾玉に重ねた手をゆっくりと離し、目を閉じる。


 ハクライの巫女の踊りを、あの時サヤが見せてくれた最期の姿をキサラはなぞった。


 穏やかな微笑みを称え、キサラは舞う。


 残された命を燃やすように、キサラの周囲に蒼焔が具現し、それに吸い寄せられるように、彷徨う魂が彼女の周りを共に舞い始めた。


「応えて、サヤ……」


 キサラの唇が愛おしくその名を呼ぶ。


 その想いに応えるように勾玉が光を宿し、反応を示した。


 魔法陣に蒼焔が宿り、ゆっくりと妖しく燃え始める。

 蒼焔に包まれた魔法陣の中で、キサラは舞いながらエンネアの身体に近づくと、傍らに跪き、勾玉の上に自分の手を重ねた。


「……っ」


 魂が抜けていく、生命が吸い取られていく感覚があった。


 エンネアの身体に繋がれた延命装置が止まり、繋がれていた管が宙を浮遊する。


 だが、それだけだった。


 キサラの手指の隙間から零れていた翠玉のような光が、弱まり、零れ落ちていく。


 勾玉が――サヤの魂の反応が、まるで止まったかのような弱々しさにキサラは目を見開いた。


 ――これでは足りなかった?


 命と魂を捧げる。

 その定量に足る命は、キサラにはもう残されてはいない。


 焦りがキサラの目を霞ませたその時。


『喰い過ぎて恨まれンのは、嫌だかンなァ』


『キサラさん、想いはもう通じていますよ』


 羅刹鬼とエンネアの声が重なった。


「エンネア!」


『私の魂と肉体の全てを、使ってください。遠慮はいりません』


 エンネアが微笑みながらキサラの手に両手を重ねる。

 エンネアの魂の温もりが、キサラの冷え切った手を優しく包み込んでいく。


『サヤさん……。キサラさんの元に、還って来てください』


 穏やかに祈るエンネアの声を耳にしたキサラの目から涙が零れていく。

 頬を伝い落ちた涙は重ねられた二人の手の上に落ちた。


『キサラさん、泣くのはまだ早いですよ』


 微笑むエンネアの目からも、大粒の涙が零れている。


「あなたこそ……」


 エンネアと目を合わせ、キサラは微笑んだ。

 心のざわめきが全て消え、温かで懐かしい感覚がキサラを包み込んだ。


『こんな姿になっても、お役に立てるのが嬉しいんですよ』


 エンネアはぽつりと呟き、幸福そうな笑みを浮かべてキサラに頬を寄せた。

 キサラもエンネアと身体を寄せ合う。


 零れる涙が重なった頬で融け合い、淡い光が漏れる手の上に零れたその時――。


 勾玉が拍動し、強い光が辺りを包み込んだ。


「……エンネア……?」


 エンネアの姿はなく、世界は真っ白に染まっていた。


 波紋のようなものがゆっくりと足許に広がり、誰かが近づいてくる気配があった。


「サヤなの……?」


 キサラの問いかけに応えるように、サヤの懐かしい姿と声が像を結ぶ。

 キサラの耳に、サヤの謡うような美しい声が甦った。

 ハクライの里に伝わる反魂術の詠唱がキサラの口を突いて出た。



 彼岸の扉よ、禁忌の英知よ。

 どうか、祈りにこたえてほしい。


 消え往く者に新たな天命を。

 辿る輪廻は永遠に。

 愚かな願いを照らしてほしい


 この身は罪を見据え明日を往く。

 ただ去り難きは人の生。

 生きる意思が果てようと、この身は祈り続ける。



 いつの間にか閉じていた目を、キサラはゆっくりと開いた。


 詠唱に応えるように、蒼焔のように蒼く輝く光をまとった蝶が舞っている。


 キサラの身体が白く崩れ、魂が抜け出したが、勾玉に添えた手をそのままにキサラは祈り続けていた。


 蒼焔をまとった蝶が、乱舞する。


 そのなかの一羽が、エンネアの身体の上に置かれていたサヤの勾玉に留まり、吸い込まれるように消えた。



 ――キサラちゃん、今度こそみんなで一緒に暮らそうね。



 勾玉が割れ、サヤの声が響く。


 その声に応えられたかどうかはわからない。

 あたたかな光に抱きしめられたかと思うと、キサラの魂もまた、肉体と同じように白く崩れた。


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