旅路1

 上を見ると、薄墨色の世界が広がっている。地鳴りのような低い、恐ろしい音が遠くから聞こえてきた。冷たい風は肌を撫でつけ、何かを奪っていくように思えた。


「もう一泊ぐらいしていっても良さそうだが」


 優し気な宿の店主は俺たちを気遣うようにそう言った。店主の目には今にも雨を降らせそうな雨雲が映っていた。


「いや、先を急ぐ」


 ホウショウは短くそう言った。相変わらずのそっけなさだ。それに、急ぐと言っても一日だけの滞在のはずが、もう随分この町にお世話になってしまっている。先を急いだところで、結果はあまり変わらないだろう。


「そうか。では、気を付けてね」


 ホウショウが風邪を引いた時も迅速な対応をしてくれたが、俺が倒れた時も理由を問わず、親身になって世話をしてくれた。この店主には本当に頭が上がらない。ここ数日でどれだけお世話になったか分からない。


 最後まで、訳ありの俺たちを普通の客として扱ってくれた。


 俺は気づいたら、店主に頭を下げていた。柄でもないことをしていることは分かっている。だが、この町で何かを得られた気がした。上手く言葉では表現できない。それでも、それは俺にとって必要なものだった。だから、最大限の感謝をするべきだと思った。


 後ろを見たら、二人も頭を下げていた。その姿を店主は暖かい笑顔で見つめていた。少し気恥ずかしい。俺は少し俯きがちに、前へと進む。後ろから二人分の足音がする。俺はその音に心地よさを覚えていた。


「待って」


 突然、声がかかる。それは息が混じった、焦った声だった。


 後ろを見ると、遠くから神父が走ってくるのが分かる。あの事件以来、神父には会っていなかった。ホウショウとシナノと神父。三人の中でどのような会話が行われていたのか、想像もつかない。ただ、三人が納得した形にはなっているのだと思う。勘でしかないが。


「これ」


 神父がシナノに差し出したのはティアドロップの模様が彫られたブレスレットだった。よく見ると、シナノの瞳のような色の宝石が所々に装飾されている。どこか神秘的な雰囲気のするブレスレットだ。


「どうして」


 シナノが迷子のような目をする。


 神父はシナノをここまで育ててくれた父でもある。神父とシナノが今までどういった関係を築いてきたのかも分からない。ホウショウのこともそうだが、シナノのことも何も知らないのだと突き付けられた気がした。


 それでも、俺から二人に二人のことを聞くことはないと思う。誰だって隠したい過去がある。ずっと胸に秘めたい気持ちがある。それは絶対的な領域。俺が侵してはいけないものだ。どれだけ心を許そうとも、そこは大切にしていきたい。


「シナノ。貴方は私のことを恨んでいるでしょうか。子を手放してしまうこの私を」


 神父の爆発寸前の気持ちが流れてくる。もう、最初に出会った神父とは別人になっていた。


「それは」


「いえ、この聞き方は卑怯ですね。私は何も貴方の力になれませんでした。しかし、これだけは覚えていて欲しい。私は、この町はいつまでも貴方の味方です。もし、貴方が私たちの力を必要とするなら、惜しみなく提供します」


 シナノの顔が歪んでいくのが分かる。


 思わず、シナノの背中を押していた。これで最後にしたくなかった。何も分からないが、シナノと神父には良い関係を築いて欲しいと思う。


 それを皮切りに、シナノは神父の腕の中へと走っていく。


「ごめん、ごめんなさい。……父さん」


 神父の顔が驚きに染まっていく。


「僕には、他にいないから」


 羞恥心からか、シナノはそう呟くと、俺たちの元へと走ってくる。


「良いのか?」


 本当に俺たちと一緒に来て良いのか。必要だったらホウショウを力づくで、黙らせても良いと思っていた。その前に返り討ちに合うかもしれないが。


 シナノは目を擦りながら、勢いよく頷いた。その目は決意に満ち満ちていた。


 相変わらず天気は雨模様で、風は吹き荒れている。それでも確かに俺たちは歩を進めていた。


「優しかった。父さんも町のみんなも」


 風の音や草木が擦れる音。辺りは騒がしいはずなのに、不思議とシナノの声がよく聞こえた。


「心の声が聞こえて、捻くれてた僕に優しくしてくれた。毎日、ご飯をくれて、こんな僕と遊ぼうとしてくれて。……楽しかった、んだと思う。教会の子供たちも。最初は鬱陶しかったけど、それでも初めて安心するところだった」


 ホウショウと俺は何も言わず、ただ静かにシナノの言葉一つ一つに耳を傾けていた。


「こういう気持ちって何て言うんだろう。なんで、心が辛いんだろう。分からない、分からないよ」


「さあ、何だろうね。俺もずっと探しているよ」


 ああ、やっぱり似ていると思った。俺もそういう経験があまりないから答えが分からない。それでも、その気持ちがシナノにとって良い方向へと働いてくれることを願っている。


 俺はシナノの頭をゆっくりと撫でた。シナノは居心地が悪そうに身動ぎする。


「子ども扱いしないで」


 言葉には棘があるが、声に暖かさがある。やはり、シナノの声は落ち着くと思う。後で、どうやったらそういう声を出せるのか、聞いてみよう。


 この時の俺は本当に能天気だった。平和ボケをしていたのかもしれない。ホウショウの俺とシナノを見る目線の意味も知らなかった。いや、知ろうともしていなかった。結局俺は自分本位だ。ホウショウがどういう気持ちで俺たちといたのか。全てに気を回せていなかった俺の責任でもある。


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