天堂山の魔人

来星馬玲

天堂山の魔人

 そこは、不用意に吸い込めば肺を痛めかねないほどの薬品と汚物の強い臭いで満たされていた。窓の無い、研磨された石で造られた壁は不自然なほど整然としており、これが四方を囲み、天井から僅かに差し込む日の光を鈍く反射させている。


 一室には冷たい石の床に腰を下ろす、二人の少女の姿があった。何れも髪を無造作に切られ、ボロボロの濃紺の布の衣服を身に着けており、さながら牢獄の中に幽閉された囚人といった様相である。

 

 二人の容姿からは、左程歳の差は見受けれない。どちらもまだ十代前半といったとろこであろうか。二人とも汚れてはいたが色白の肌が特徴的で、大きくはないがある程度の背丈の差から、並ぶ姿はまるで姉妹であるかのようにも見えた。ただ、両者の居ずまいには大きな差異があった。


 背の高い方の少女は姿勢を正した状態のまま身動き一つせずに、眼を閉じ、まるで達観している風で瞑想をしているかのようであった。もう一人の少女はその姿を見習おうと頻りにその同室の少女の様子を見よう見まねで模していたが、落ち着きの無さが猶更際立っていた。


 戸が開かれ、一室の静寂が破られた。黒い布で頭部と目元より下を覆っている、黒尽くめの人物が入ってきた。その者は、朱に染まった肉の塊を乗せた皿と濃緑色の液体が入った容器を二つずつ乗せた盆を両手で持ち、少女たちの方へ近づいてきた。


 その人物は少女たちの前でしゃがむと、手にしていた盆を二人の前へ置いた。侵入者はそれで用は済んだという風に、無言で立ち上がると、足早に部屋を出て戸を閉めた。一室の外部から、重い物で錠が占められる鈍い音が響く。


 固まった血糊の付着したぶつ切りの肉の塊。加熱した形跡は見られず、冷えた血に混じって油の臭いが漂ってくる。


 背の高い方の少女が手を伸ばし、素手で肉塊を一つ摘まみ上げると口に運んだ。背の低い方の少女は悍ましい物を見る目でその様子を凝視していたが、やがて自らも恐る恐る肉を手に取った。


 得体のしれない肉をじっと見つめる。赤身が多く、白い筋組織の多さが目立ち、これを生で食べるのだと思うと背筋に悪寒が走った。しかし、飢えを満たす本能には抗えず、掌の上の肉の一部を捻り、毟りとった。千切り取った肉片から長い筋が垂れ下がり、手首に張り付き、油のベタベタとした嫌な感触が皮膚の上から広がる。


 背の高い方の少女は既に新たに手に取った肉塊を口へ運んでいるところであった。そちらを見やっていたもう一人の少女も、意を決した様子で細かく千切った肉片を口に含んだ。


 肉の臭みが口内に広がり、思わず吐き気を催した。唇に付着した細かい筋により、不快感が増す。それでも、喉に引っかかるところで身体が拒否反応を示していた肉片を、一気に飲み込んだ。


「ごぼ、ごほ、ごほごほ」


 咽る少女。辛うじて正気を保っていた己の脳が現状に対する恨み辛みを訴えかけたが、それに応えることは出来なかった。

 

 最早手慣れた動作で肉を食していた少女が、辛そうに咳き込んでいる少女に、濃緑色の液体が入った容器の片方をを差し出した。差し出された方は無言でこれを受け取り、一瞬の逡巡の後、一口分だけ口に含んだ。苦い草の味が舌を刺激したが、汚物の様な肉の塊に比べれば幾分マシに思えた。これを喉に流し込み、未だ食道に引っかかっていた肉片ごと胃に収めた。


 悪夢の様な晩餐を終えた頃には天井から差し込む日の光は失われ、室内は漆黒の闇に沈んでいた。二人は揃って油でベタベタになった手を服の裾で拭き、星明りを頼りに手探りで寝床を探した。


 暗闇の中で寝付けずにいる少女は脳内で自分がまだ外で暮らしていた頃のことを思い出そうと懸命になっていた。薄れゆく記憶を必死に留めようと、何度も何度も反芻する。気を弄られ、悍ましい物を与えられ続けるうちに、自分の長いとは言えない生涯が遠い過去に追いやれた様な錯覚に陥っていく。だんだんと現状への恐怖という感情すらも薄れていく自分が怖かった。


 もう一人の少女が言葉としてはあまりに不鮮明な呟きをもらし、過去への回帰に集中している相方の方へ手を伸ばした。彼女がこうして毎晩求めてくるのが最早日課であった。求められた少女はされるがままになっていた。


 二人の少女がまぐわう。最初は静かな触れ合いであったが、徐々にそれは激しさを増していった。監禁生活に順応しているかの様に振舞っている少女は、夜の時間になる度に抑圧されていた感情を燃え上がらせるのであった。それは相方への狂愛に加えて、相手の胎内に宿っている新しい命に対する母性も含まれていた。




 人身売買を生業としている売人の前に現れたのは、いつも視察に訪れていた男であった。この客人の人を見る目が、他の常連とは明らかに異なっていることは既に熟知している。ただ、その売人にとって、この男がどういう人物であるのかは、得体のしれない組織に属しているという程度の知識しかなかった。


「れいの女はどれかね」


 客人は売人と顔を合わせるなり、売人が口を開くよりも先に尋ねた。


「奥の部屋に匿っておりますよ。何しろ、特注の品ですからね、誰も手を付けないように気をつけておりましたよ、へへ」


 売人はつい日頃の癖で下卑た笑い声をもらしてしまったが、すぐ案内するようその客人に促されたことで、気を取り直して客人を案内した。


 喧騒から遠ざかった密室の扉が開かれた。そこにいるのは色白の肌と烏の濡れ羽色の髪が特徴的な二人の少女であった。お互いの顔を二人の少女は身を寄せ合っていたが、突然の侵入者たちにはっとなって振り向いた。


 背丈の幾分高い方の少女は男たちをきっと睨み続けていたが、もう一人の少女は男たちの視線と目が合うと、弱弱しく目を伏せた。客人である男は、この一瞬で二人の少女の大まかな性格を見抜いた。


「苦労しましたよ。何しろ、真道チンシャンの連中も売られる女が多いものだから、色々と対策を講じてきておりましてね。連中にとって、全く同じ血をひく後継者の存続は死活問題ですからな。独占欲も甚だしい。女は皆で分かち合わなきゃあ」


「こちらの注文通りか、それが知りたい」


 職業気質が面に出ている売人とは対照的に、客人は冷徹な態度を微塵も崩さなかった。


 売人は得意げになって語りだす。


「奴らは女を街で働かせる際、女の中に気を打ち込む。これが曲者でしてね、わたしらが手を出そうとすれば、外敵の気に反応して、女の中に仕込まれた気が凶器となって相手の中枢を突く。手練れでなければこれ一発で精神を崩壊させられかねませんね」


「女の中に男の気が入っていたのであれば、とんだ不純物だな。完全に取り除いたのか」


「ええ、それはもう。取り除く時も一筋縄ではいかないものでして、これが上手くいかないと女の方の精神が内部から壊れて再起不能になるどころか、女の肉体的な損傷も伴います。連中も同族の女の血が他方に流出するのは気に喰わないらしくてね。気を取り除くのに手こずると生殖能力なんかが真っ先にやられちまう。そうなると人形と変わりませんな」


 客人の男の顔が露骨に顰められた。ここに来てから初めて見る客人の変化であったが、注文に気難しい客人のことを知っている売人は慌てて話を続けた。


「も、もちろん、うち一番の手練れにやらせましたよ。ご覧の通り、この女たちは至って正常です。それに、まだ男女の営みを知らない生娘でして……」


 客人がふいに少女たちの方へ近づくと、両者をじっくりと見定めた。それから少し目を閉じ、己の気を集中させると、軽く頷く仕草をしてから売人の方へ向き直った。


「確かに、一人は処女だな。だが、もう一人は妊娠している。胎児の気は僅かしか感じられないが、受精して一か月弱といったところか」


「へえ、そんなこともわかるので」


 売人は心底驚いた。目の前にいる男が相当な気の使い手であることは知っていたが、まだ人間が人間となる前のものの気まで読めるとは予想以上であった。


「だがまあ、問題はないだろう。むしろ、こちらにとっては期待以上の収穫になるかもしれぬ。……この女たちを買おう」


「へい、ありがとうございます」


 売人は客人に向かって恭しく頭を下げた。



 

 その施設の中では、処女だった方は二十九号。身ごもっている女は三十号と呼ばれた。


 度重なる気の操作と、人肉の提供、調合した薬物の投与などで、二十九号の人格は容易く変質した。想定より早い変化であったが、研究者たちは熱心に症状を纏めた文章を作成した。


 三十号の方はより念入りに調整が行われた。母体の方も重要な研究資料であるが、中にいる胎児の改良の方が、研究者たちの大きな関心事であったからである。


 提供される人肉は、過去の研究対象であった真道チンシャンの女のもののみが使われた。気と肉体は切っても切れないという理念のもと、より理想形に近づける為には厳選した人肉が必要であったためである。二十九号は自ら進んで差し出された肉を食したが、三十号はなかなか口にしなかった。そのことが研究員たちにとっての悩みの種であった。


 そして、実験が開始されてから七か月ほど過ぎた頃。三十号が胎児を出産した。早産であった。


 胎児はアヒルの雛を思わせる容貌をしており、眼球は死んだ魚の様に虚ろであった。研究員たちはこの赤子を何とか成長させようと苦心したが、半日も持たずに、赤子は死んだ。


 この頃には母親である三十号の精神もほぼ崩壊しており、特に悲しむ様子も見受けれなかったが、不思議なことに、まだ処女である二十九号が強い母性本能を発したらしい。まるで二十九号が自分の産んだ子供であるかのようにしきりにあやし、自らが口に含んで租借した人肉を口移しで二十九号に与え始めた。


 研究員たちの多くは、赤子が死んだ時点で何の成果も得られなかったと落胆していたが、研究部長が全く違った見解を皆に提示した。他の部署に潜り込ませていた同胞から伝えられた研究内容も統合した新しい試みに、研究員たちの関心が集中する。


 母性の行き場を失った三十号と新たな母性に目覚めた二十九号。この二人は気を凝縮された真道チンシャンの肉を喰らい続けて生き延びてきた。二人の女の気を操作し、女の卵子と卵子で、人間を凌駕する新人類を創造する。


 それが、新たな研究課題であった。




 監禁されてから一年と半年が経過した。胎児が死んでからはそれまで避けられていた生体改造が行われるようになり、三十号の身体は継ぎ接ぎだらけであった。全身からは麻酔用の阿片の臭いが漂っている。


 見るも無残な外見となった三十号とは対照的に、二十九号は異様なまでの妖艶さを増していた。研究部長の方針で、二十九号の身体には直接刃物が加えられることは一度も無かった。二十九号が新しい母体となることも決定している。


 人間を喰い、その気を取り込み続けた女。日々研究にのみ執念している研究員ですら、二十九号と眼を合わせるとその美貌に取り込まれそうになった。


 第一段階の実験は一先ず成功。それが局内における見解の一致であった。


 直接的な肉体の改造と、度重なる気の操作で変質させた三十号の卵子は、二十九号に取り込まれ、これが新しい胎児として息衝き始めたのである。明確な気の流れを感じ取った研究員は、思わず歓声を上げていた。


 この朗報は研究者たちが屯している開発局内にも瞬く間に広まった。この研究に携わった『無心派』と呼ばれる者たちに伝染するかのように、この話題が引っ切り無しに繰り返される。自分たちの技術が持ち出されたことを知った派閥の者は抗議したが、狂喜に打ち震える研究員たちにその声は届かなかった。


 


「わたしの可愛い子。あなたよ、あなたがわたしの中にもいるのがわかるの」


 二十九号が赤ん坊の様に泣きじゃくる三十号の頭を優しく撫でながら、言った。


 二十九号の腹部は大きく膨らんでいる。胎内には、自分にこうしてあやされる愛しい少女と、自分の命が合わさった子供が産声を上げる時を待ち望んでいるのが、二十九号にはよくわかっていた。気と心の崩壊した三十号は、理由もなく、ただ泣きながら二十九号の母性にしゃぶりついている。

 

 一室に、局で働く一人の男が入ってきた。男が部屋から出るように促すと、二十九号は三十号を助け起こしながら、自らの意思で監禁部屋から出た。あとに残された男は、石で作られた床にこびり付いている排泄物などの清掃活動に従事していた。


(まるで動物を飼っているようだな)


 男はそう思った。他の研究員たちと違い、局内の清掃などの雑用を業務としている男にとって、開発局の研究内容は何一つ理解できなかったし、理解するつもりにもなれなかった。研究対象として心を奪われていた局員たちとは違い、その男の目には二人の少女がただの動物としてしか映っていなかった。




 実験は大きく進展した。二十九号の胎児は、未だ胎内にいるにもかかわらず、極めて強い気の力を発揮し始めたのである。


 この気の力に方向性というものが無く、これが無造作に他者へ向けられる危険性も孕んでいた。ただ、純粋な防衛本能は有しているらしく、二十九号と、二十九号の支えになっている三十号に対しては一切の危害を加えることは無かった。


 あとはこの胎児が無事に生まれてくれば、そこから様々な気の扱い方を熟練者である局員が指導していけば、究極の肉体と気を併せ持ったかつてない最高級の作品が出来上がる――探求者たちの多くがそう思っていた。


 この研究に携わる無心派の一派の多くは、より強い気の持ち主を創り出すには、極限まで進化した肉体が必須であるという考え方が根強い。当初は、肉体という枷から解放された、純粋な気の力を顕現させるという理想論が皆の目標であった。しかし、肉体を失った者の気を存続させる手段が皆目見当がつかず、いつしか至高の気を宿す究極の肉体を創り出すという目標に移り変わっていったのである。


 一方で、一部の局員は未だに当初の目標の実現を諦めてはいなかった。彼らにとって、肉体からの解脱に成功した純粋な気というもは、大変魅力的で、その兆候と解釈し得る調査結果がないかと常に目を光らせていた。




 三十号は両方の眼球をくり抜かれた。腎臓、胆嚢、肝臓の一部などは既に過去の手術で取り除かれている。これらは非常に重要な研究資材となっていた。


 研究員たちは、二十九号に胎児が宿った時点で三十号を完全にバラし、その体組織の隅から隅まで精査したかった。精査が終わったあとは、保存する臓器を選別したうえで、二十九号に与える食肉としても利用できた筈である。しかし、母体である二十九号の精神を安定させるのに三十号の存在が必須となっていたため、三十号の命まで奪うことは出来なかった。


 ところが、臓器を摘出した三十号を生き永らえさせたことで、新たなる発見があった。失われた臓器を補う様にして、新たな器官が形成され始めたのである。これには普段は冷静な研究員たちも驚きを隠せなかった。改造による改造を繰り返した結果、三十号の肉体もまた人間を超越した存在へと変貌していたのかもしれない。


 形成された器官にどういった機能があるのかは未だによく分っていない。今回は、眼球を取り除いたことで、次は如何なる変化の兆候が表れるかが、研究員たちの新たな関心の的となっていた。


「大丈夫。大丈夫。あなたが失った光をわたしが見ていてあげる。わたしがあなたの目にだってなってあげる」


 二十九号は自分の膝の上で蹲る三十号を優しく撫でながら、慈愛のこもった声で何度も言い聞かせていた。


 二十九号には、愛する三十号が非人道的な実験に使われていることに対する怒りや憤りといった感情は無かった。傷つき、弱っていく三十号が自分に甘えてくるという至福の時を謳歌している。それに、こうして自分に支えられることで三十号の身に表れる変化を好ましく思っていた。


 まもなく、二人の命の合わさった結晶が誕生する。二十九号にはそのことが分かっていた。




 今日も、一室の清掃を任じられている男が独房のようなその部屋へ入ってきた。


 中に入るなり、男は異変を感じた。男もまた多少の気の扱いは心得ていたので、瞬時に己の察知したものの正体を見極めようと気配を出所を探った。


 眼前では二人の少女が抱き合ったままじっとしていた。既に見慣れた光景であるが、異様な気はその二人の頭上付近の空間から感じられる。男がその気の正体に気づくのと同時に、強烈な思念の波動が男の中枢を突いた。


「おごぉ。ああああ」


 石室の中に響く断末魔。一瞬で精神を破壊された男はその場に頽れた。


「さあ、一緒にいこうね」


 二十九号が立ち上がり、三十号も助け起こされる。それから、中空を漂っていた不可視の思念体が舞い降り、少女たちの胎内へ入り込んだ。


 悠然とした足取りで、少女たちは一室をあとにした。




 首都から少し離れた所に建てられた開発局の管理する一施設。ここでは「無心派」と呼ばれる局員たちが日々自分たちの作品を創り出すことに執心していた。そして今、その作品の一つが管理下を逃れ、外部へ解き放たれようとしていた。


 少女たちの脱走は、施設に取り付けられた気を感知する鈴の音を増幅させる管を通じて、勤務中の局員すべてに知れ渡った。


 施設の中をゆっくりと進んでいく二人の少女の前に、局員たちが立ちはだかる。日頃から気を操作することで作品を改良している局員たちもまた、卓越した気の使い手であった。


 二人の局員が相手の気を流れを読み取り、掌握することで無力化しようと試みた。少女たちは度重なる人体改造で気の力が異常なまでに強くはなっていたが、切の訓練を行っていない為、その気を扱うだけの技術は持ち得ていない筈であった。


 局員たちの気は少女には届かなかった。両者の間に、思念の壁が現出し、局員の気の波動を遮断したのである。思念は不可視の獣の如く蠢き、局員たちの方へと迫りかかってきた。


 貴重な被検体を研究目的以外で傷つけることに躊躇していた局員二人もこの相手を前にして、心の余裕を失った。急いで散らばった気を制御して集約し、己の肉体を強固にすることで未知なる敵を迎え撃とうとした。しかし、間に合わなかった。


 一人の局員の頭部が内部から爆裂した。隣にいた同僚の死の原因が、その者自身の気の暴発であると見抜いたもう一人の局員が、急いで自己の気を抑え込もうとした。ところが、縮小される筈だった気は、急速に膨張し続けていく。


「駄目だ。壊れる、壊れてしまう……」


 二人目の局員もまた、己の気によって己の頭部を爆散させる。周囲の石でできた壁に、局員の血と脳漿がびちゃあと張り付いた。


「これは……素晴らしい。わたしが今まで見てきた中で最上の傑作だ」


 二人の同僚の死を背後から観察していた、一人の男が歓声を上げた。その男は少女たちを競売場の裏で引き取った男であった。


 少女たちは男を無視してその場を通り過ぎようとしたが、男がその前に躍り出た。即座に不可視の存在が男の方へ狂気の波動を送る。予め己の気を極限まで縮小させていた男はこの波動を軽くいなした。


「まだ出て行かれては困る。君たちには更なる高みが望めるのだから……」


 男の気を暴走させることが出来ないと見た不可視の存在が、二十九号の胎内に急速に飲み込まれていった。何が起こっているのかと男が相手の出方を探っていたが、次に起こった出来事を目の当たりにして、あっと言った。


 二十九号が突然蹲り、床の上に転がった。すると、ボロボロの布の股袴の下で、両足に力を込め、開脚した。


 被検体の様子に目を奪われていた男は、女の胎内からこれまでの生涯で感じたことの無い、異質な気の奔流が沸き起こるのを感じた。気の流れは物理的な衝撃波となり、男の腹部を貫通した。男は己の穿たれた腹から腸が引きずり出されていく様子を凝視する。やがて、男は立っている気力を失うと、地に伏した。


 男は理解した。赤子は二人いる。そして、それぞれが異なる延長線上に位置する、研究員たちの目指した理想形そのものであったのだ。


(……流石だ。相手の気を利用するだけではないのか)


 男は激痛のあまり声を出すことも叶わなかったが、最後の力を振り絞って、称賛の意思を込めた気の流れを相手に送った。


(君は……君たちにはこの施設は狭すぎるのだろう。極限まで進化した肉体と、純粋な気の思念体を既に得ている君たちには……。良いぞ、行け。外の世界で、人間を越えた新人類として開花するのだ)


 最期にそう相手に伝えた男は、己のなすべきことをやり遂げた満足感を噛み締めたまま息絶えた。




 二十九号と呼ばれていた少女は、たった今出産した。生まれてきた赤子は全身の皮膚が赤黒く輝いていた。赤子は生後数分で獣のように四つん這いとなり、歩行を可能した。


 何とかそれを取り押さえようとした局員たちは、眼前の赤子の他に、もう一つの不可視の存在に気がつく。この研究に携わっていた局員の誰しもが悟った。二十九号の胎児は双子だということは、胎内の気を調べることで事前に知っている。即ち、片方は肉体を伴っているが、もう片方は実態を把握出来ない、不可視の生命体なのだ。


 これまで進行方向を妨害されたことで、生まれたばかりの双子は、この場にいる局員すべてを自分と自分たちの母親にとっての敵と認識していた。


 肉体を持った赤子は己の気を鋭い刃へと変貌させ、全身で突進すると同時に、気に触れた局員の胴体を八つ裂きにしていく。不可視の赤子は外敵の内部にある気の力を掌握し、その気を思考の中心となっている脳内に集中させ、一気に増長させることで頭部を破壊する。双子は生まれながらにして、息の合った連携で敵対者を確実に仕留めた。


 繰り広げられる地獄絵図の中。母親たちは涼し気な表情のまま回廊を歩んでいく。死んでいく局員に対する興味は微塵も無かった。早く、愛しい子供たちを相応しい場所へ連れていく。そのことだけを考えていた。




 ここは天堂山の麓。澄んだ空気の中、時折鳥のさえずりが聞こえてくる。濃緑に覆われた高き山の合間には、街に出稼ぎに出る真道チンシャンの女性にとってはなじみ深い山道が、緑の中を這いずる蛇のように続いている。


 かつて自分たちが通った道に戻ってきた二人の母親は、深緑の香しい匂いをその肺いっぱいに吸い込んだ。眼球を失っている方の母は、もう一人の母の見ている光景をその気の流れと一緒に感じ取ることで、かつての情景を思い出し、安堵していた。


 母親の腕の中で抱かれる赤子と、その赤子に取りつくことで感覚を一体化させているもう一人の赤子もまた、ここが自分たちの帰るべき場所であると知り、生まれて初めて純粋な喜びの念を覚えた。異常なまでに発達した気の力を備えているとはいえ、未だ基盤となる思考力に乏しい双子は、ここが自分たちの生きていくのに相応しい環境であることを生まれながらにして持ち合わせていた本能で悟っていた。


 一人の真道チンシャンの男が、天堂山の中に踏み入ってくる侵入者の気を察知し、相手の様子を探っていた。


 自分たちの聖域を侵す者かと思い、真道チンシャンの男は相手の前に飛び出すと、己の中の気を凶器へと変貌させながら臨戦態勢に入った。ところが、ふいに馴染みのある者の気配を感じ取り、やや困惑気味に相手を見定めた。


 妖艶な色白の女と、その女に抱かれた赤黒い獣の様な生き物。傍らにいるもう一人の女は両方の眼球を失っており、全身継ぎ接ぎだらけの裸体を晒していた。何れも異常な気を有していたが、真道チンシャンの特有の気の性質を備えている。


 それから男は、眼前の三人の他にも、もう一人の気の力の持ち主の存在を敏感に感じ取っていた。強烈な畏怖の感情に襲われながらも、この気は未だ真道チンシャンの誰もが成し得なかった至高の頂に達していると男は直感した。


 男はその場で跪き、深々と頭を垂れた。自分には到底及ばない気の高みに対し深い敬意を表し、帰ってきた真道チンシャンの者たちを丁重に出迎えた。




 開発局で起こった一連の出来事は、鉤爪ジュアズの捜査対象となった。その場に居合わせた局員たちの大部分が斬殺され、脱走した怪人たちが繁華街を縦断したことで、開発局側でもみ消せる事態では無かったのである。


 また、開発局側としても、一部の無心派のもたらした騒動に関わることを嫌い、敢えて鉤爪ジュアズの捜査を迎え入れ、知っている情報は一通り提供したあとは無関心を貫いた。


 局員の残した研究資料から、この施設の無心派の者たちが悪行高い大狼連合の人身売買に関わっていたことが露呈した。その為、僅かに生き残っていた施設の局員は尋問にかけられたが、大狼連合に関する大した情報は得られなかった。


 資料から鉤爪ジュアズの者たちが判断したことであるが、脱走したのは二十九号と三十号と呼ばれる、改造された真道チンシャンの女たち。それに、二十九号の娘である双子の姉妹であったらしい。他にも番号を振られた女たちがいたらしいが、二十九号より前の女は全員局内での死亡が確認され、生き残っていたのは三十四号と三十六号の二人だけであった。


 三十四号は多くの臓器を切り取られていたために酷く衰弱しており、発見から三日後に死亡した。三十六号は、身体の右半分を切除され、三十七号と呼称されていた女の左半身を繋ぎ合わせた合体人間であった。こちらは発見後二週間ほど生き延びていたが、局員の手から離れた状態で生き永らえることは叶わず、三十六号は現世に対する怨嗟を訴えながら、この世を去った。


 あまりにも非人道的な行いが露見したことで、この研究に携わった局員には重い罪の業が課せられた。見せしめの為に街中を引きずり回されたうえに、二百回に及ぶ棒打ちが行われ、最期には首を討たれ、その首は晒しものとなった。


 この事件で他の開発局に対する警戒の目が強められ、一部の無心派の暴走のせいで生業がやり難くなった他の局員たちの多くが、騒動を引き起こした者たちへの恨み言を繰り返していた。


 鉤爪ジュアズだけでなく、皇帝直属部隊であるドウにおける、情報操作を担当するワーの内部においても、天堂山へ逃亡したと思しき被検体の捜査に関する審議が行われたが、結局は捜査対象から除外された。


 犠牲者は全て真道チンシャンの女であり、倫国に対する損失は浪費された研究費用のみと言えた。怪物は真道チンシャンの聖地に逃げ込んだため、当面は倫国に害する恐れも無いだろうというのがワーの出した結論であった。


 その後、事件に関する新しい情報が得られることは無く、多くの倫国民にとって馴染みのない真道チンシャンの人間が犠牲になっただけでもあったため、徐々に人々の記憶から忘れ去られていった。




 帰郷した母娘は天堂山の深部で暮らしていた。厳しい自然の中で、二人の母親の娘たちは獣の様に駆け回った。かつて二十九号と呼ばれていた女は、深い慈しみの情の籠った瞳で、強靭な肉体を備えた娘と、気の奔流で己を誇示するもう一人の不可視の子供の様子を見守っている。三十号と呼ばれていた方の女は、相方の女の感覚を通して、我が子たちのことを見ていた。


 局員の遺した研究資料にも記されていたことであるが、三十号の体内に生成された新しい器官は、二十九号の五感を読み取り、共有するためのものであった。それ故、二人一組でいる限りはこの環境の中でも無事に暮らしていける。


 母親たちは鬼女として認知された。双子は魔人として、真道チンシャンの者たちから恐れられながらも、敬われた。かの者たちは誰しも到達し得なかった気の高みに昇った存在であり、多くの真道チンシャンの者にとって、崇拝の対象となったのである。


 還るべき場所へと帰った双子は母たちに見守られながらすくすくと成長していく。その過程で、卓越した気の扱い方も身に着けていった。


 やがて、天堂山の魔人という伝説が語られるようになるのは、そう遠くない未来の話であった。

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