二つの壁画

メンタル弱男

二つの壁画


       ある男の話


 2020年はほとんど外に出ない一年だった。遊びはもちろん、仕事においても在宅ワークが増え、男の目に映る物といったら無機質な家具やら小物類ばかりで、頭の中がひどく乾燥していくような感覚があった。どこからともなく聞こえる静けさの音。打ち消すように昔の歌を口ずさんでみたり、はたまた一人呟いてみたりもした。


『もう疲れたよ』

『そうだね』


 訳もわからず溜まっていくストレスを発散しないでいると、身体だけではなく精神面へも不安が侵食し、何かをやろうという意思は沈みかけてゆく。

 このままだと本当に大変だ、と彼はなんとか最後に踏ん張り、せっかく家にこもっているのだからと、部屋の模様替えをしようと思い立った。


『何か変わっていくよ』

『本当だ』


 動き出せば早かった。ワンルームの部屋は実に簡素で、新しいアイテムを揃えるのは楽しかった。少し大きめで落ち着いた黒色のソファを置き、その前には木目調の細長いローテーブルを持ってきた。容易に作成できる収納棚をいくつか買って部屋の仕切りのように用いたり、カーテンも汚れていたので新しいものに取り替えた。

 目に入るものが変われば、滞っていた心に柔らかな流れが戻ってくる。頭の中も次第に潤ってくる。そして新しい感覚が、さらに新しいものを求めてくる。全てが良い循環だ。


『綺麗になった』

『確かに随分変わったね』


 ただ、男は単調な部屋の壁だけが気になっていた。

 彼が住んでいる四角い部屋は、入り口から見て向かいが一面窓になっている。その気になっている壁というのは、部屋の両横の壁で、のっぺりと広く不気味なほど白い。床や天井に比べて、まだ新しい感じがするのは気のせいか。この二つの壁に、どことなく不穏な空気が纏わりついているような気がした男は、何を思ったのか、ここに絵を描こうと決めた。

 彼自身、今まで何か絵の勉強をした訳ではなく、美術の授業でとりわけ良い評価を得た訳でもない。ただ無性に、この壁を自分の手で変えなければならないような気がしてならなかった。


『どうしよう』

『どうしよう』


 男は早速、塗料を買って準備を始めた。家はもちろん立派な持ち家ではなく、何十人もの住人を見送ってきたであろう古臭い賃貸であるから、貼って剥がせる壁紙というものを購入して、向かい合う二枚の大きなキャンバスを作った。案外簡単に用意が出来て、さぁこれから絵を描こうという時に、突然男の頭の中にある構想が浮かんだ。

 それは一方に昼の絵を、もう片方に夜の絵を描くというものだ。窓があっても一日中薄暗いこの部屋にずっといると、自然の時間の流れをあまり感じることができない。男にとって昼と夜は、ほとんど変わることのないこの部屋の景色に混在している。彼はそれを部屋の中で表現してみようと思った。

 絵のモデルは、丘の上から見下ろした街の景色。これは実在する景色なのかどうなのか彼自身にも分からない。ただ頭の中にずっとあるイメージだった。いつかそこに行きたいという目標のようなイメージ。


『これはなかなか厳しい』

『息苦しいよ』


 男はたった一日でその二つの絵を仕上げてしまった。作品は自分自身でも素敵だと思えるくらいに上出来だった。昼と夜。対になった世界が、部屋全体を飲み込むような迫力がある。そしてどちらの絵も丘の上から望む景色を描いているので、頂上にいる気分になれた。

 だが彼は寝る前に少しだけ何かが足りないように感じて、広く寂しかった丘の上に人を描いた。昼には黒、夜には白の服を着せて。妙な明暗の反転を男は大変気に入ったようだった。

 実に有意義な経験だったと、男はソファに寝転び一人呟いた。家でアクティブに過ごすのも悪くない。何かをやり遂げたという達成感が心地よく、後片付けもしないまま眠ってしまった。よほど疲れていたのだろう、うなされて呻き声も聞こえる。。。


          ○


 不思議な事が起こった。

 男が目を覚ましたのは何時だったか、仕事が休みなのでかなり遅い時間だった。そういえばこの部屋には時計が無い。カーテンを開けようと彼が立ち上がった時、どこか違和感を感じた。あたりを二度見回して、寝起きの頭はようやく気付いた。


 昨夜描いた二枚の絵の中にいる人がそれぞれ入れ替わっている。

 確か、昼の絵には黒い服。夜の絵には白い服の人物を描いた。それが見事に逆になっている。男は立ち尽くしたまま、血の気が引くのを感じた。形はそっくりそのまま、色だけが変わっているのだ。何が起こっているのか考えても当然分からない。あり得ない事が当たり前のように存在している恐怖で男はこの日何もできなかった。


          ○


 翌日もまた気味の悪い事が起こった。絵の人物がまた移動している。今度はどちらも夜の絵で、肩を並べるような配置になっていた。まるで二枚の絵が息を合わせるかのように変動している。昼の絵には、元々人を描いていたところに、しっかりと街の景色が描かれていた。一度描いて塗りつぶした所だ。こればかりは彼自身、恐怖というよりも、理解できない現象に対する不快感、そして怒りのようなものを感じていた。男は慌てるかのように一番上の壁紙を剥がした。もう部屋の状態など考える事もなく、乱雑に破いた。

 すると真っ白な壁紙に、どういった理屈なのだろうか、その二人の姿だけが黒いシミとなって残っているではないか。。。


 いったいこの部屋では何が起こっているのか、、、。


          ○


 その翌日、この部屋には男の姿は無かった。そして行方も未だに分かっていない。。


 この部屋のオーナーの分厚い書類には、付箋が貼られているページがある。そこにはこう記されている。


『部屋の壁に大きなシミあり(二枚とも)。壁紙を変えてもしばらくすると同じシミができる。原因調査中。それまで定期的に壁紙の交換が必要。入居希望者には説明必須、契約書にも記載済み。』

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二つの壁画 メンタル弱男 @mizumarukun

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