ケンちゃん

吉田ヒグラシ

ケンちゃん

 ケンちゃんが、異形の者になって帰ってきた。今のケンちゃんの姿を、上手く言い表す言葉が見つからないのだけれど、強いて言えば、少しだけナマコに似ている。それと、チューリップの花にも似ている。黒い色をしている。

 ケンちゃんが帰ってきてしまった理由には、何となく心当たりがあった。ケンちゃんは、私の幼なじみだった。私は物心ついた頃からケンちゃんが好きだった。どこが好きだったのかは、よく分からない。とにかく、いつかはケンちゃんに告白をするのだと、私はずっと意気込んでいた。ずっと、を具体的に言うと、私の物心ついた年齢が定かではないから正確には言えないけれど、だいたい三十年間だ。ケンちゃんに告白をする機会は、本当はいくらでもあったのだけれど、しなかった。なぜなら、ケンちゃんはモテなかったからだ。モテる人を彼氏にしたいと、私は常々思っていた。モテる人かモテない人のどちらかを選ぶなら、モテる人が良かった。だから、ケンちゃんのことを好きな人が現れたら、告白しようと思っていた。ケンちゃんと同じ大学に進学して、同じ会社に就職して、そのときを待った。けれど、三十年経っても、ケンちゃんはモテなかった。私も三十路に入るとさすがに、駄目だこりゃ、と思った。そろそろ告白をしたほうが良いのかもしれない、と考えていた矢先に、ケンちゃんは交通事故で死んだ。お母さんから連絡が来て知った。私はアパートの自室で一人おいおい泣いた。「ばか」と「すき」を、一晩中繰り返し呟いていた。それが日曜日、つまり昨日のことだ。

 たぶん、ケンちゃんは怒っているのだと思う。散々「ばか」と言われたことに。それから、私が「すき」と言わなかったことに。だからこうして、異形の者になって帰ってきてしまったのだ。

「ごめんね」

 私はケンちゃんの、首だか腹だか、もはやそういう概念はないのかもしれないけれど、とにかくそこをさすった。スーツが汚れないように、袖はしっかりとまくった。ケンちゃんはうごうごしている。私の狭い部屋に、ケンちゃんからちぎれたと思われる、黒いぶよぶよとした物体が、いくつか散らばっている。ケンちゃんは窮屈そうだった。屋内に入れるには、サイズが大きすぎるのだ。このままでは、私の生活にも支障が出るのは明白だった。そもそもここはペット禁止だ。ともあれケンちゃんには、何とかしてお帰り頂くしかなかった。

 「ごめんね」は言ったから、散々「ばか」と言ったことについては、許してくれたと思う。ケンちゃんは、私がどんなにひどいことをしても、心を込めて謝れば、いつも許してくれたから。練習中の格闘技の実験台にしても、帰り道に川に突き飛ばしても、女の先生の前でパンツを引きずり下ろしても……

 とにもかくにも、今が告白のときなのだ。ケンちゃんの心残りをなくして、天国だか地獄だかに、安らかにお帰り頂くのだ。

「ケンちゃん」

 私はケンちゃんを、真正面から見すえた。目が合っているのか、そもそも目があるのかも分からない。それに、改めて観察すると、かなり気持ち悪い。私は思わず一歩後ずさった。さっきケンちゃんに触れた手を、無性に洗いたくなってきた。私は昔からグロテスクなものは駄目なのだ。けれど、目の前にいるこれも、ケンちゃんには違いなかった。

「ケンちゃん、すきだよ」

 ケンちゃんはうごうごしていた。嫌がっているように見えなくもない。私にはもうよく分からない。

 と、突然、ケンちゃんが私にタックルしてきた。

「えええ」

 私はとっさに布団に飛び乗って避けた。ケンちゃんは私の背後にあった扉から勢いよく出ていった。礼儀正しく、開けたドアを閉めて。

「戸締まりは、大事だもんね」

 私は少しの間ぼうっとしていた。それから、立ち上がって、部屋のそこここに散らばったケンちゃんのかけらを拾い集めた。ケンちゃんには申し訳ないけれど、ぶよぶよしていて鳥肌が立ったので、汚いものを持つようにつまんだ。何か入れ物がないかと探していると、良いものが見つかった。アルバムだった。あくまでも私のアルバムだから、ケンちゃんの写っていない写真もたくさんあったけれど、ケンちゃんと私が砂場でお山を作っている場面や、中学校の入学式に桜の木の下で並んだ場面、ケンちゃんが大学に合格して柄にもなく泣いているのを私がなだめる場面が、そこには並んでいた。ケンちゃんのかけらは柔らかかったから、指で潰したら、写真を入れるスペースにちゃんと収まった。

「わあ、もうこんな時間。遅刻、遅刻」

 私は手を洗い、通勤鞄を肩にかけ、焼いていない食パンを一枚掴んで、きちんと戸締まりをして部屋を出た。

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ケンちゃん 吉田ヒグラシ @yoshida-higurashi

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