10. リゾート施設をめぐる対立

 バドゥルはセシリアの柔らかな唇の感触を味わった。

 最初はこわばっていた体が腕のなかでゆっくりゆるむのが感じられ、閉じていた唇が開くのがわかった。バドゥルはしっかりとキスをして、舌で軽くセシリアの舌をかすめた。ためらうような反応が返ってくると、背筋に熱いものが走り抜けた。さらに激しく唇を奪い、柔らかな胸のふくらみが感じられるほどきつく抱き締める。「んんっ……」セシリアが漏らした声に、はっとして唇を離し、頬を火照らせた美しい顔を見下ろす。

 セシリアが煙るようなまなざしで見つめ返した。

「先ほどの返事は?」

「え……?」

「もうしばらく滞在してくれるだろう。いいな?」

「……はい」

「それでいい」バドゥルは言って、くるりと振り返り、回廊を歩いていった。


 セシリアは、回廊の奥へと遠ざかっていく堂々とした後ろ姿をぼんやり眺めていた。

 頭が混乱して、どうしたらいいのかわからなかった。バドゥルのそばにいると、こうなってしまう。

 確かに、彼には皇太子としての威厳があり、その態度に威圧されるのもほんとうだ。でも、バドゥルを怖いと感じるのはそのせいではない。彼に見つめられたり、触れられたりすると、自分がどうなるかわからないから怖いのだ。

 帰国しようと思ったのは、そのせいでもあった。これ以上バドゥルのそばにいるのは危険だ。だって、皇太子に恋をしてどうなるというの?……向こうは完全に戯れのつもりだろう。

 でも、先ほど私を見つめていた黒い目は、信じられないほど優しかった。そして、あの情熱的なキス。戯れのつもりで、あんなキスができるのだろうか。

 セシリアは、あふれてくる想いをはらいのけるように首を振った。

 だめよ。こんなことに心を乱されている場合じゃないわ。イギリスに戻ったら、すぐに次のレースの準備を始めなくてはいけないのに。

 皇太子に約束してしまったのだから、しばらくは滞在しなければならないだろう。それに、とセシリアは考えた。バドゥルは確か、リゾート施設の投資家を集めたパーティーがあると言っていた。砂漠の民が今も反対しているという施設の建設を、先に進めるためのパーティー。バドゥルの弟ターリク王子の冷たい目も気にかかる。

 ジャスティンといっしょに、とりあえずそのパーティーには出席しよう、と決めた。だいじょうぶ、バドゥルとはふたりきりにならないように気をつければいい。

 まずは、スタンリーをうまく追い返さなくては……。セシリアはようやく落ち着きを取り戻し、みんながいる会見室へと足を向けた。


 二日後、セシリアとジャスティンは、ふたたび宮殿の大広間に足を踏み入れた。会場にはおよそ百人が集まっていて、半分はカンドゥーラをまとったアラブの男性だったが、もう半分はヨーロッパ各国から集まった投資家とメディアの人々だった。ほとんどは男性だが、二、三人女性もいた。みんな落ち着いた色のドレスを着て、髪をスカーフで隠している。

 セシリアも、ベージュの上品なレースのドレスをまとい、髪には淡い緑色のスカーフを巻いていた。ジャスティンはタキシード姿で久しぶりに盛装し、少し窮屈そうな様子だが、若くハンサムな投資家に見えなくもなかった。

「未来の子爵らしい姿だな、ジャスティン」背後から現れたバドゥルが、ジャスティンの肩をぽんとたたいて言った。セシリアにまっすぐ目を向ける。「きょうの君は一段と美しいよ、セシリア。ジーンズ姿に勝るとも劣らないな」そしてすばやくウインクすると、鮮やかな青いビシュトの裾をひるがえし、会場の奥へ歩み去った。

 セシリアは、そのりりしい後ろ姿を見送りながら、スカーフの位置を直すふりをして赤く染まった頬を兄の目から隠した。二日前の回廊でのキスのあと、セシリアはレース後の後片づけや雑務に追われて、バドゥルとは一度も顔を合わせていなかった。きょうの昼過ぎにようやくホテルを引き払い、用意された宮殿の部屋に案内された。

 皇太子のざっくばらんな態度は、初対面のときとまったく変わりないように見えた。まるで、ふたりのあいだに何ごとも起こらなかったかのように……。そう、皇太子にとってはきっとなんでもないことなのね。もう惑わされたりしないわ。セシリアは唇を噛みしめた。

 ジャスティンが興味深そうに妹を眺めてから、右側のテーブルで談笑している年配の男性に気づいた。「ゴールドスミス氏も来ているのか」

 セシリアもそちらに目を向けた。チャコールグレーの上等なスーツに身を包み、白髪をきちんと整えた背の高い男性が、アラブの中年男性となごやかに会話していた。確かに、イギリスの有名な投資家ゴールドスミス氏だ。

 ゴールドスミス氏は、スタンリーの所有しているホテルの株主で、ふたりの父マクレーン子爵の知り合いでもあった。中東のリゾート施設にも投資するつもりらしい。世界じゅうの有望な投資先に目を光らせている人なのだから、特に意外でもなかった。

 ゴールドスミス氏がこちらに気づいた。「おや、ジャスティン、セシリア。まだこちらに滞在していたのか。〈チーム・バーリー〉の優勝おめでとう。ジャスティン、元気そうでよかった。一時はイギリスじゅうが心配していたよ」

「ありがとうございます、ゴールドスミスさん。ご心配をおかけしました。皇太子が友人なので、しばらく滞在させてもらっているんです。ナビールのリゾート施設に投資なさるんですね」ジャスティンが言った。

「ああ、そうなんだ。これから成長が見込めるのはなんといっても中東だよ。バドゥル皇太子はとても進歩的なかただ。砂漠のオアシスに広がる優雅なリゾート施設。ホテルやプール、ショッピングセンターも完備。ヨーロッパの裕福な観光客はいずれ、中東に押し寄せるようになるだろうね」ゴールドスミス氏は上機嫌で、ショッピングセンターに入る予定のブランドなどについてあれこれ語った。

 セシリアは落ち着かない気持ちになった。「あの……オアシス近くのアタウッラ村にたまたまうかがったんですけど、とてものんびりした静かな村で、ブランドものが並ぶショッピングセンターはあまり似合わないような……」

 ゴールドスミス氏が笑いながら言った。「おやおや、君のような若い女性がそんなことを言うのかい。リゾート施設といえば若い女性たちがターゲットであり、若い女性といえばショッピングセンターがつきものだ。切り離しては考えられないよ」

「でも……」

「本日はお集まりいただきありがとうございます」マイクを通して、バドゥルの自信に満ちた声が聞こえた。壇上に設置されたスクリーンの横に立ち、投資家の人々に挨拶する。それから、スクリーンにリゾート施設の設計図が映し出され、イギリスの有名な建築家が紹介されて、施設の概要が説明された。

 ほぼ、ゴールドスミス氏が思い描いているのと同じくらい豪華な施設になりそうだった。プール付きのホテルとショッピングアーケード。セシリアは違和感を覚えた。砂漠の村からの帰り道、バドゥルはリゾート施設について、もう一度砂漠の部族と話し合うと言っていなかった? こんな形でどんどん進めてしまって、ほんとうにいいのだろうか。

「砂漠のオアシスは、とても美しかったわね、兄さん」セシリアはジャスティンに向かってぽつりと言った。

「ああ……そうだな」ジャスティンが情景を思い描くように、軽く目を閉じて答えた。

「あそこにこんな立派なリゾート施設が、ほんとうに必要なのかしら」

「確かに、そぐわないような気がする」ジャスティンが考えこむように言った。「でも、外から訪ねてきた僕たちに、意見する資格はないよ。バドゥルが国のため、国民のためになると考えた上で決めたことだ」

「そうね」セシリアは言った。中東の小さな国は、いろいろな事情を抱えている。周囲の国との力関係に気を配らなくてはならないし、アメリカやヨーロッパ、アジアの国々の協力を得て、発展をめざさなくてはならない。バドゥルはそのために精いっぱい尽力している。軽々しく批判を口にすることはできない。

 それでも……。セシリアは心に引っかかるものを感じていた。


 バドゥルはパーティーの進行に満足していた。投資家の反応は上々だった。資金面では問題なく建設を進められそうだ。あとは、砂漠の部族をどう説得するかだが……。自分たちの暮らしがどれほど豊かになるかをわかってもらえさえすれば、きっとうまくいくはずだ。平野の部族と砂漠の部族は、常に友好的な関係を保ってきた。その関係にひびが入るのはまずい。

 入口付近にたたずんでいた弟のターリクが、険しい顔で近づいてきた。

「砂漠の首長にはどう説明するんだ? パーティーに呼ばずに、あんな設計図まで発表して」

「パーティーには招待した。出席を断られたんだ。砂漠の部族とは改めて話し合うつもりだ。柔軟に意見も採り入れる」

「設計を大幅に変更すれば、今度は投資家たちが黙っていないだろう」

「大幅な変更はしない」バドゥルはきっぱりと言った。「きっと首長はわかってくれる」

「自分勝手だな」ターリクが吐き捨てるように言った。「兄さんはいつもそうだ。父上も不安そうだよ」

 バドゥルは思わずかっとした。「リゾート施設については、私が父上から全面的に任されている。おまえは口を出すな」

「これは国内の問題でもあるんだぞ。きょうのパーティーは中止にすべきだったんだ」ターリクが声を荒らげた。

「砂漠の首長から再度話し合いの申し出があったのは、つい数日前だ。中止にできるはずがないだろう」

 ふたりはにらみ合った。遠巻きにこちらを見つめる人々がざわめくのが感じられた。

 側近のナジが歩み寄って、低い声でバドゥルに話しかけた。「国王は少しご気分がすぐれないようで、パーティーにお顔を出すことは控えられるそうです」

「そうか」バドゥルは弟をにらみながら応じた。「あとでご様子をうかがいに行こう」

 ナジが下がると、ターリクもくるりと背を向け、会場から出ていった。

 バドゥルはため息をついた。弟と言い争いたくはなかった。ターリクが真剣に国のことを思っているのはよくわかっていた。お互いその点では一致しているのに、なぜ対立ばかりしてしまうのか。バドゥルはもどかしくてならなかった。

 パーティーが終わり、投資家たちがひとりまたひとりと会場を出ていった。バドゥルはジャスティンとセシリアに声をかけた。「晩餐まで、自室でくつろいでいてくれ。国王に君たちを紹介したかったのだが、父上がパーティーに顔を出されなかったので、のちほど時間があればナジに案内させよう」

 バドゥルはその足でラシード国王の私室へ向かった。ノックしてから扉をあけると、驚いたことに国王はローブをはおってベッドの端に座り、そばにサルマ王妃も付き添っていた。ほんとうに具合が悪いのか。国王の顔色はあまりよくなかった。

「ご気分がすぐれないとうかがいました。横になっていなくてよろしいのですか」バドゥルは言った。

「少し胸苦しさを覚えただけだ。もうなんともない。着替えて書斎へ向かうところだ」

「そうですか。よかった」バドゥルはほっとした。

「パーティーには顔を出せなくてすまなかったな。だが、ターリクが不満そうな様子だったぞ」

「どうなのです、バドゥル」サルマ王妃が心配そうに言った。「砂漠の部族から今一度の話し合いをと申し出があったのでしょう。少し立ち止まって考える時ではありませんか」

「そのことについては、弟とも砂漠の部族ともきちんと話し合うつもりです」バドゥルは苛立ちを抑えて言った。「それより父上、よろしければ友人をご紹介したいのです」

「例のイギリスの自転車選手と妹さんか。よろしい、三十分後に書斎へ連れてきなさい」


 セシリアは、バドゥルに案内されて兄とともにラシード国王に紹介されたあと、国王の書斎兼応接室を出た。

 国王はとても威厳があるが、穏やかで優しく、ジャスティンの体調を気遣いながら、ぜひゆっくり宮殿に滞在してほしいと言った。男性の集まるパーティーに女が同席したことをよく思っていないのではと不安だったが、セシリアにもとても丁重に接してくれた。

「では、一時間後に食堂で」ジャスティンの部屋の前まで来ると、バドゥルが言った。

 セシリアの部屋は、さらにその奥の女性専用の翼棟にあった。バドゥルがその入口まで送った。そこから先は、たとえ皇太子でも足を踏み入れることはできない。

 女性専用の翼棟につながる回廊まで来ると、ふたりは立ち止まった。奥の扉の前には女官がふたり、静かに佇んでいた。

「ありがとう、バドゥル。パーティーにご招待いただいて、国王陛下にご紹介までしてくださって」

「いや。君たちは大切な友人だからね。パーティーでは退屈しなかったかな」

「だいじょうぶよ。知り合いもいたし。ゴールドスミスさんは、その……友人が所有するホテルの株主なの」

「ほう、そうか」バドゥルが探るような目をセシリアに向けた。

「リゾート施設には、一流ブランドのショップが並ぶアーケードもつくるとか」

「その予定だ。欧米の女性たちに訪れてほしいなら、ショッピングセンターは必須だろう。君は買い物に興味はないのか?」

「ロードレースのシーズン中は服もおしゃれもどうでもよくなるけれど、もちろんオフには買い物に行くわ。だけど……」

「だけど?」

「あの砂漠の村には、豪華なホテルやショッピングセンターは似合わないような気がするの」

 バドゥルがため息をついた。「君までそんなことを言うとはな」

「パーティーの終わりごろ、ターリク王子と何か言い争っていたでしょう」セシリアは思わず言った。「もしかして、王子もリゾート施設のありかたについてご意見があるのでは? 急いでものごとを進める前に、まわりの人の言葉に耳を傾けるのも……」

「一国の皇太子に意見するのか? 君はたいした女だな」バドゥルがぎらぎらした怒りのまなざしを向けた。

 セシリアは一瞬ひるんだが、きっとにらみ返した。「そんなつもりじゃないわ。でも、一国の皇太子なら、耳を傾けるのも仕事のうちでしょう」

「数日前やってきたばかりの君に、この国の何がわかる?」バドゥルが声を大きくした。「急いでものごとを進めるのにはわけがある。政治や経済や国際関係、あらゆる事情がからんでいる」

「ええ、わかるわ。でも……」

「ヨーロッパの子爵令嬢に何がわかる。余計な口出しはするな!」

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