02. 皇太子との出会い

「いったい何ごとだ」

 太く低い声が響いた。

 セシリアたちはいつの間にか、広々とした玄関広間に足を踏み入れていた。声のしたほうを振り返ると、長い廊下の奥から、小走りで近づく側近らしき者とともに、ひときわ背の高い男性がゆっくりこちらへ向かってくるのが見えた。カンドゥーラの上に、豪華な金色の襟に縁取られた深緑色のビシュトをはおって盛装している。身分の高い人であることは、ひと目でわかった。

「皇太子殿下」中年男性と衛兵たちが、うやうやしくお辞儀をした。

「ジャファル補佐官、こんなところで何をしている?」皇太子が鋭い声で言ってから、ジャスティンに目を留めた。「ジャスティン・マクレーンか?」

「皇太子殿下、お久しぶりです」

「十年ぶりくらいか? なつかしいな」皇太子が彫りの深い顔に満面の笑みを浮かべて、ジャスティンの手を取った。頭に巻いた真っ白なグトラの下から、漆黒の髪がのぞく。

「監督、セシリア、こちらはバドゥル皇太子殿下だ。殿下、〈チーム・バーリー〉監督のカート・ギブソンと、このあいだ話した妹のセシリアです」

「堅苦しいな。十代のころみたいに、バドゥルと呼んでくれ」皇太子がセシリアに目を向けて、軽い調子で言った。「君もな」

「えっ、いえ、まさか……」セシリアは、どう答えていいのかわからずに口ごもった。

 ごほん、とジャファルが咳払いをした。

 皇太子が振り向いて尋ねた。「何を騒いでいたのだ、ジャファル?」

「こちらのご婦人を別室へご案内しようとしていただけです」ジャファルが答えた。

「別室? なぜだ? こちらの女性は友人の妹さんで、ロードレースチームの一員でもあると聞いている。歓迎会には参加してもらうよ」

「しかし、こちらの宮殿では……」

「宮殿の規則は、私のほうがよく知っている」

「ですが、陛下は……」

「ジャファル」皇太子が突然鋭い目つきになり、低い声で言った。「父上には私から話しておく。行け」

 ジャファル補佐官は口を閉じ、一礼して立ち去った。そのあとに衛兵たちも続いた。

 皇太子がさっと笑顔に戻り、セシリアに話しかけた。「たいへん失礼をして申し訳ない。内務大臣補佐官は、少々頭が固くてね」

「いえ……」セシリアはどぎまぎしながら、やっとのことで答えた。声や顔の表情を、これほど自在に操る人を初めて見た。それにしても、なんて端整な顔立ちをしているのだろう。褐色に日焼けしたなめらかな肌。高くまっすぐな鼻と、力強くもすっきりと細い顎。きりりとした太い眉、長く黒いまつげが縁取る黒曜石のような瞳。

 皇太子がふっと口もとをゆるめた。「なんだ、ジャスティン。美しい妹さんじゃないか。〝まるで男みたいだ〟などと言うから油断していたよ。私がさらって宮殿に閉じこめるんじゃないかと心配で、予防線を張ったわけか?」

 ジャスティンが笑った。「まさか。こいつなら、閉じこめても鍵をこじあけて逃げ出すよ」

 皇太子が笑って眉をつり上げ、セシリアにきいた。「そうか? 宮殿の錠前は頑丈だぞ」

「ご心配なく。私はメカニックの助手です。錠前くらい簡単にあけられる工具を肌身離さず持っていますので」セシリアは澄まして答えた。

「こちらの広間のほうへどうぞ」皇太子の側近が、廊下の奥へと一行を導いた。監督とジャスティンが先に立って歩き出した。

 セシリアがあとを追おうとすると、皇太子が背後からそっと耳にささやきかけた。「その工具は、今も身に着けているのか? 錠前を鮮やかにあけるところを、ぜひ見てみたい。やはり君を別室に閉じこめるべきかな?」

 セシリアはぎょっとしたが、冷静なふりをして応じた。「工具は胸もとに隠してあります」嘘だけど。「閉じこめられる前に、レンチを効果的に使いますわ」

「おやおや。今すぐ身体検査をすべきかもしれないな」皇太子が視線をすばやくセシリアの胸もとにすべらせてから言った。

 びくりとして思わず身をそらすと、皇太子は笑い声をあげてウインクし、ジャスティンのほうへ行ってしまった。

 セシリアの全身がかっと熱くなった。なんて軽薄な人! あれで皇太子が務まるのかしら。セシリアは胸もとに手を当てて、早鐘を打つ心臓をなだめようとしながら、大広間に足を踏み入れた。

 宮殿の大広間は、まぶしいほどにきらびやかで豪華だった。いくつもの巨大なシャンデリアで煌々こうこうと照らされた室内には、どっしりとした柱と大きな窓が並び、数々の彫刻が飾られていた。みごとなアラベスクが施された壁は、金色と緋色で美しく彩色されている。子爵家の娘として何度も貴族の屋敷を訪ねたことがあるセシリアでさえ、気後れするほどだった。

 歓迎会は、形式張らない和やかな雰囲気で進んだ。皇太子みずから挨拶に立って、選手を激励した。スタッフが紹介され、コースが説明されたあと、歓談の時間となった。皇太子は各国のチームの監督や選手から挨拶を受け、にこやかに応対していた。セシリアはレモンミントジュースのグラスを手に、皇太子の姿をぼんやり眺めた。

「皇太子は、ずいぶん気さくなかたなのね」となりにいるジャスティンに話しかける。

「ああ」ジャスティンが答えた。「あれでもずいぶん落ち着いたんじゃないかな。皇太子としての威厳も身についてきたようだし。トライアスロンをやっていた十代のころは、もっと血の気が多くて危なっかしくて、外国メディアに〝腕白皇太子〟なんて書かれていたよ」

「女性についても、ずいぶん進んだ考えをお持ちみたいね」セシリアは、少しばかり皮肉をこめて言った。

「おかげで別室に閉じこめられなくて済んだだろう」

「でも、初対面であんな軽々しいことを言うなんて、信じられないわ。あれでよく、きびしいイスラム教国家の皇太子が務まるわね」セシリアは先ほどの会話を思い出し、顔を赤らめながら怒った口調で言ったが、実際にはそれほど腹を立てているわけではなかった。

「あれは、おまえの緊張をほぐすための冗談だよ。そういう男なんだ。過激で大胆なことを口にするときも、常に先を見通している。周囲を驚かせつつ、少しずつ物事をよい方向に変えていこうという志があるんだ。バドゥルが副首相と外務大臣を兼任してるのは、この国にとってすごくいいことだと思う」

 そうなのかもしれない。セシリアはふと、大広間の奥に目を向けた。先ほどの内務大臣補佐官ジャファルが、きびしい顔をしてこちらをにらみながら、となりに立つ男性と何か話していた。となりの男性は、青いビシュトで盛装している。確か、内務大臣でバドゥルの弟と紹介された人だ。バドゥルよりやや小柄で、繊細な顔立ちをしている。腕組みをして、やはりきびしい顔でこちらを見ていた。

 女の私が歓迎会に交じっていることが、そんなに気に入らないのかしら。皇太子は進歩的な考えの持ち主かもしれないけれど、宮殿のなかには、それをおもしろく思わない人もいるのかも。

 セシリアはどういうわけか、かすかな不安を感じた。

 歓迎会は二時間ほどでお開きになった。監督も選手も、あしたのレースのために準備しなければならないことが山ほどあるからだ。

 私も、とにかくチームの勝利のためにできることをするだけだわ。

 セシリアは心に決めて、宮殿をあとにした。


 バドゥルが自室へ戻ってしばらくすると、側近のナジがやってきた。「失礼いたします。国王陛下がお呼びです」

 やれやれ。さっそく来たか。

「すぐに行く」バドゥルは応じ、数分後、ラシード・カラフ・アル=マジャーリ国王の書斎兼応接室の扉をたたいた。「何かご用ですか、父上」

 ラシード国王が、みごとな金細工が施された大きな椅子に背中を預けたまま、目を上げた。「座りなさい」どっしりとした机の前に備えられた応接セットを示す。

 バドゥルが腰を下ろすと、ラシード国王は机の上で両手を組んだ。立派な口ひげとあごひげをたくわえた顔は無表情だったが、眉間には小さなしわが寄っている。「ロードレース選手たちの歓迎会は盛況だったようだな」

「はい」バドゥルは答えた。「どのチームも並々ならぬ意欲を持って、全力で取り組んでくれています。あしたの成功は確実ですよ」

「歓迎会に、女性が紛れこんでいたと聞いたが」

 やはり、ジャファルが告げ口したのか。別にかまいはしないが。

「私が昔から親しくしている選手の妹で、チームのアシスタントを務めているんですよ。会場にはメディアの者たちも来ていましたから、よい宣伝になるでしょう。あしたはヨーロッパ各国からもマスコミが押し寄せます。わが国の進歩的なイメージをアピールするチャンスですよ」

「対外的にはそれでよいが、宮殿内には規則というものがある」国王が落ち着いた声で言った。

 バドゥルはため息をついた。「わかっています。ですが、大広間にほんの二時間ほど、たったひとり女性が紛れこんだくらいで、何がどうなるというんです? 宮殿の秩序が大きく乱されたとでも?」

「そうは言っていない。ただ、それを快く思わない者もいるということだ」

「ジャファルですか?」

「王妃もだ」

 母か。そして弟もだ。あのふたりはなぜか、バドゥルの考えにことごとく反対する。中東の小さな国ナビールから一歩も外へ出たことがないのだから、無理もないが。

 ナビールは国土の大半が砂漠だが、海岸地域の平野や山岳地帯もあり、地形と気候は思いのほか多様だ。人口はおもに、首都近辺の平野に住む部族、山の部族、砂漠の部族の三つに分かれ、それを取りまとめているのが平野の部族長、つまりバドゥルの父であるマジャーリ家のラシード国王だった。

 国の経済は油田のおかげで豊かだが、大国に比べれば石油の生産量は少ない。目を引く観光施設もない今、いつまでも石油に頼っていては、いずれ世界から取り残されてしまう。皇太子であり、副首相兼外務大臣でもあるバドゥルは、国の経済発展と国際化の進展のためにさまざまな提案をしてきた。そのひとつとして今回ようやく実現にこぎつけたのが、このロードレース〈ナビール・カップ〉なのだ。

「私もあすのレースの成功を祈っている。だからこそ、慎重にならねばな。身内の問題ばかりではない。議会でも、山の部族、砂漠の部族のなかに、レース開催に反対した者が少なからずいたことを忘れるなよ」

 バドゥルは口もとを引き締めた。「わかっています。必ず成功させて、長老たちを納得させてみせますよ」

 今後の計画のためにも……。バドゥルは国王に一礼して、部屋を出ていった。


 翌日の午前十一時。海岸沿いの広い道路に、百人余りの選手たちがロードバイクにまたがって、ずらりと並んだ。ゆっくりとパレード走行が始まる。先導車からスタートフラッグが振られ、いよいよ第一回〈ナビール・カップ〉の勝負が始まった。

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