自戒

時津彼方

本編

 『謙虚と卑屈の違いは何だ』


 私は自粛期間の受験勉強の合間、体のストレッチをしながらそのようなことを考えていた。誰かに実際に問われたわけではない。ふと、だ。

 受験生のみならず、現代人は態度をよく見られる。そしてそれを、本人の意思とは関係なく評価されることが多い。その評価が『謙虚』なら良く、『卑屈』なら悪い、らしい。

 しかし、はたしてその二つの評価の態度は異なるものだろうか。

 本質的には変わらないと思う。その二つは、相手の立場を優位にするための態度だ。しかし、評価は違う。


 『利己と利他の違いって、わかるか』


 この二つは、一見違いが明らかなように思われる。もはや対極。

 しかし、この質問の末尾が『わかるか』となると、全くわからないだろう。

 例えば、相手のためを思った行動をした人が、『相手のために尽くすことが自分の生きがいだから、自分のために人を救うんだ』と言ったら、どうだろうか。

 要は、傍から見てその人が自分のために動いているのか、他人のために動いているのかが、正確に把握しえないということだ。


 さらに極端かつ本質に迫る話をしよう。


 『誠実と不誠実の違いは何だ』


 無論、誠実の裏返しが不誠実だ。『不』という言葉の意味は、そういうことだ。

 しかし、傍から見て誠実と思える行動が、本人としては不誠実な場合がある。

 例えば、ある人が被災地への募金をしたとする。傍から見ると、自分も見習わなければならない、誠実な行動に思える。しかし、本人は現地に赴くことができない自分を、不誠実と思うかもしれない。

 逆に、傍から見て不誠実と思える行動が、本人としては誠実な場合がある。

 例えば、前科持ちの人が公共スペースの掃除をしているとする。本人からすると、社会に貢献することで自分の罪を償う行動であり、少なくとも、全く不誠実とは思わないだろう。しかし、傍から見ると、周囲に認められたいから行っている、きわめて不誠実な行動だと思うかもしれないし、そもそも行動ではなくその人の前科に目を向け、何をしても不誠実だと言う人がいるかもしれない。


 以上の例から、私は一つの結論を打ち出した。


『二つの関連する言葉は、気持ち次第で意味が変わるものであり、その本質に意味はない』


 要は人の気持ちの持ちように依る、ということだ。本人のみならず、他人の気持ちにも依る。初めの疑問を例にとると、どれほど本人が『謙虚』な行動をしたと思っても、他人がそれを『卑屈』と捉えれば、それを『謙虚』にすることは不可能だ。

 そして最後の例にもあるように、どれほど人が評価を変えようにも、その人の前からの評価や他人の偏見が邪魔をしてしまうことも多々ある。


 評価を気にするから他人に振り回される。

 ならばどうすべきか。

 単刀直入にその答えを述べるなら、そのような評価を気にせずに生きればよい。

 しかし、社会の中で生きるなら他人の評価からは免れられず、多少は気にしてしまうだろう。


 私は一つの―――あくまで一つの―――答えを出した。

 ポジティブに生きよう。周りに幸せを与えるように生きよう。

 たとえそれが『利己』であっても。


 でももちろん、それだけでは納得ができない。人の気持ちの持ちようが、そう簡単に変わることはない。


 私はこの先の答えを、さらなる『おうち時間』で突き詰めていくことにしよう。

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自戒 時津彼方 @g2-kurupan

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