黄地時間
華川とうふ
扉と黄色の砂
「市民のみなさま、今日も充実したおうち時間をすごしましょう。次は花粉予報です……」
花粉と聞いて窓の外を覗くと、黄色の粒子がふわーっと俟っていた。
こりゃ酷い。花粉じゃなくても外に出られないと苦笑いする。
昔の人は酷い天気でも仕事や学校の為に外に出ていたなんていうけれど、信じられない。
無駄の極みじゃないか。
暴風で傘が壊れたり、行くだけで疲れたり、資源も労力も無駄遣いしている。
俺は習慣通りに、きちんとおうち時間を過ごすことにする。
まず朝は一杯のコーヒーを淹れることから始まる。
ボタンを押すとコーヒー豆が粉砕される音がする。けたたましくて音楽なんかと比べると体は不快感を示すが、なんとなくこの暴力的な音を聞くのは楽しい。
そのまま、目の前でコーヒーは抽出されていく。
全部自動化されているから、最初のボタン一つで、今日の俺の体調にぴったりな濃さのコーヒーを飲むことができるのだ。
コーヒーの香りがあたりに漂う。
一口含む。
苦い。
俺は顔をしかめながらも、なんとかコーヒーを飲み干す。
コレを飲まなきゃ朝が始まらないから。
コーヒーを飲むとだんだん体が温まってくる。カフェインの効果なのおか落ち着くしだんだんまともに考えることができるようになってくる。
俺は手早く朝の支度(洗顔や排泄、そして筋肉が退化しすぎないように電極を貼り付けるetc.)を済ませると、やっとVRゴーグルをセットする。
VR空間なんてゲームくらいしか昔は使われていなかったなんて意外だ。こんなに便利なのに。これこそ、俺にとっては現実だと思うくらい。ずっと
ただ一つ問題は、ちゃんと頭が冴えていないと、VR機器との反応が悪いことだ。
だから、毎朝きちんと起きてコーヒーを飲んで日課をこなさないといけない。コーヒーが苦いこと以外はまあ、だいたい許容できる。少なくとも花粉だらけの外を歩いたり、土砂降りの中で暴風に傘を壊されるよりはずっとマシなはずだ。
今日は仕事は休みなのでカフェに行くことにする。
最近、お洒落なカフェを見つけたけれど、みんなが休みの日は混みがちで動作が重くなるので、こういう平日の休みの早い時間に行く方が楽しめるのだ。
カフェに入ると、そこはすごく不思議な感じだった。
なんでも昔の喫茶店をモチーフにしているらしい。
名曲喫茶というもので、レコードをかけてくれるそんな場所。
愛想のあまりない、女性が注文を聞きに来る。
でも、すごい凝っていることに手元にはわざわざメニューを渡してきた。イマドキ、メニューなんて手元のデバイスから簡単に表示させることもできるというのに、すごい。人気な理由も分かる。
ざらざらとした紙の感触を楽しんだり、ラミネート加工されたメニューをペタペタさせて、つい遊んでしまう。
注文する物は決まっているというのに。
「コーヒーを一杯」
しばらくしてから俺はあまり愛想のない女性に声をかける。
気づいてもらうのが大変だった。普通なら注文したいと思った瞬間に勝手に脳内からデータを抜き出して注文確定画面が表示されるのだから。このシステムは本当に楽しい。
コーヒーがやってくる。
砂糖とミルクがついてくるので、山のように放り込む。
甘い。
現実と違って、このコーヒーはとても良い香りがするし、美味しい。まあ、味なんて砂糖の入れすぎで変質した扱いになっているだろうけれど。
このコーヒーはとても香りがいいのだ。
香ばしくて人の心を落ち着かせる。現実のコーヒーとは別物だ。
そんな素晴らしいものが作れるのがVRの良いところなんだけれど。
「おいしいですね」
たぶん、誰も返事をしないだろうと思ってつぶやくと、周りの客が口の前に指を立てて「静かに」とジェスチャーをする。
そうか、ここは名曲喫茶だったか。
だけれど、さっきの愛想のない女性がやってきて、嬉しそうに頷いた。
「いいんですよ。名曲喫茶なんて名前ですけれど、昔からここはそこまでうるさい店じゃないんです」
愛想がないと思っていた女性はどうやらこの店の店主らしい。
そして、この店は彼女の先祖が以前、開いていた店をデータで再現したということだ。
「コーヒーがね、特に大変でそっくりな味になかなかできなかったんですよ」
そんな苦労話をしてくれる。最終的にはものすごい古い口コミデータの中にあった、当時の客が感じた味覚情報を見つけて再現にこぎ着けたということだった。
つまり、このコーヒーが大昔は現実世界にあったということか。昔の人はこんな美味しいものを味わっていたなんて……もしかしたら、コーヒーのためだけに雨の日でも外にでたかもしれない。一瞬だけ、そんな風に考える。
有り得ないことだけど。
店主の女性とおしゃべりをしているとあっという間に時間がすぎていく。
鐘がなる。
もう時間だ。
現実のコーヒーが作用してVR空間にいられるのには時間制限があるのだ。
おうちに帰って、また眠るかコーヒーを飲まないと上手くVR空間で活動することができない。
店主にお礼をいって、俺はVR空間をログアウトした。
もどってきて、「ふうっ」と一息つく。
小窓から外をみると真っ暗だった。
さて、夜用のコーヒーを飲まなければいけない。
ボタンを押すと、目の前のタンクの中から
それにお湯がそそがれ攪拌すると青くなる。
カップに熱々のコーヒーが注がれる。
苦い。
今日、VR空間で味わったコーヒーとは香りも味もえらい違いだ。
眠る前に俺は我が家を見渡す。
二メートル四方の清潔な空間。
ここは俺のおうちだけれど、俺のものは何一つない。
すべて支給されたもの。
国が決めた規格通りのもの。
あるのは目の前のコーヒーを飲むためのボタンと外につながる扉だけ。
俺はこの扉をあけたことがない。
生まれてから一度も。
いつだって外にでられるけれど、おうちにいたほうが安全だ。
外は危険だ。
外にでる人間なんてイマドキ聞いたこともない。
外に出て帰ってきたなんて人間、VR空間でもであったことがない。
おうちで時間を過ごす。
おうちで一生を過ごす。
これが今のスタンダードなのだ。
「おうち時間は充実してましたか?」
スピーカーからそんな言葉をささやかれたような気がした。
目を閉じようとしたとき、銀色の扉がギィーと音を立てた気がした。
黄地時間 華川とうふ @hayakawa5
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