在宅していたら猫耳生えた件について

香月読

在宅していたら猫耳生えた件について

 勤労という単語は、大切な文字を入れ忘れている。仕事とは戦場であり、そこで生き残る為に色々なものを犠牲にするものなのだ。

 通勤一つにしたって満員電車にすし詰めにされたりするし、会社に行けば嫌味な上司に頭を下げたりする。そもそもメイクも髪の毛も服装もバッチリにしているのが当然みたいな考え方そのものにHPを削られまくっている。社会人って理不尽。


 女とはかくあるべきという社会の荒波(こんな波サーファーだってお断りだ)に揉まれて一年、尽きそうになったHPを回復できそうなチャンスが訪れた。切っ掛けはあるウイルスだ。大流行を重く見た企業側は、感染のリスクを抑える為にリモートワークや在宅勤務を選び始めたのだ。私の働く出版社も同じで、営業活動は直行直帰でいいし、原稿はデータ送信でもいいし、会社に出勤するのは週に一、二回で済む。今までの満員電車と書いて地獄とルビを振る場所からはおさらばだ! 嫌味上司とも時間がずれるなら顔を合わせなくて済むぜ、グッバイ無駄な説教!


 というわけで、代わりに自宅のパソコン前に座り込む時間が増えた。リモートワークになる前は「なんだ天国かな?」とか思ったものだが、現実はそんなに甘くない。家にいるからって寝坊していたら原稿が片付かないし、取材しないと資料が少ない。会議なんかあったらカメラの前に出る為のメイクや髪のセットは必要だ。ちくしょうステイホーム。

 どこまで行っても社会の荒波から逃れられない悲しみを背負いながら、今日も働くしかない。石油王と友達になりたい、そんな呟きを空気に霧散させながら、キーボードを叩いている。



 だらだら話し続けちゃったけど、なんとこれって前提なのですよ。

 今の私は鏡に向き合って、映り込んだ自分を凝視しているところだけど……見慣れないそれにどんな反応をしていいのか困っている。

 夢でしょ。夢じゃないなら誰のいたずらだ?

「朝起きたら自分の頭に猫みたいな耳が生えている」だなんて、夢じゃないなら何だって言うのだろうか。おい何だよラノベかよ。

頬を抓る。痛い。目を擦る。開ける。変わらない。

何これ。意味わからないんですけど!


「……ええええ…………っ」


 何をしてもその耳は変わらなかった。軽く茶色を入れた髪の毛に紛れるような、焦げ茶色の耳だ。一体全体どうしてこんなことになっているのだろう。頭の中をクエスチョンマークでいっぱいにしながら数分考えたけど、まったく答えは出なかった。


「……考えてもわからないなら仕方ない!」


 そして私は考えることを放棄した。

実際どうしてこうなったのかに頭を悩ませるよりも、これからのことを考えるべきである。今日は運良く会議も取材もなかったはず、とカレンダーを見たら何と。お休みの日に付けている赤い花のマークが見えた。


 休み。つまり今日はおうち時間をたっぷり使える! 行き詰っていた原稿は昨日かなり進められたし、本当にゆっくりして何も問題ない日だった。生えている耳さえ見なかったことにすれば。

 出掛けなければいいのだ。家でゆっくり過ごそう。そう思っては見たものの、仕事との線引きが曖昧になってしまったせいかなかなかしたいことが思いつかない。奇妙な声を上げながら部屋の中をぐるぐる歩き回っていたところで、バスルームが目に留まった。そういえば最近シャワーで適当に済ませていたな。たまには朝からゆっくり入っちゃおうかなぁ。


 思い付いたら実行に移してみることが大事だ。早速お風呂の洗剤で浴槽をピカピカに掃除して、お湯を溜め始める。することがないので蛇口から落ちるお湯を眺めていたけど、そこで数ヶ月前先輩に貰った入浴剤があったことを思い出した。せっかくだし入れよう。先輩に感想言わないといい加減失礼だし。

 洗面台の下に入れっ放しだった透明な瓶の中には、ピンク色の綺麗な液体が入っていた。入っていた説明によると、これをお湯が落ちる中に入れれば泡風呂になるらしい。一緒に入っていた花びらは石鹸で作られたもので、浮かべてみても可愛いとか。うーん、ロマンチックだな……。

 蛇口の横から液体を落としてみれば、落ちるお湯と跳ねるようにしてから泡が立って来た。空を覆う雲のようにもふもふと、きめ細かくて気持ちが良さそう。わくわくしながら広がる泡を見て、この豪勢なお風呂に入れるなんてとても贅沢だなと思う。そわそわする気持ちが抑えられず、お湯が八分目になったところで蛇口を止めた。


 着たままだったパジャマを脱ぎ捨てて、スキップするようにバスルームへ入った。目の前には豪華な泡風呂があり、それだけでここが宮殿の浴場にも見える。でもこれ半分くらい妄想が入っていると思う。

 同梱されていた花びら型の石鹸をはらはらと舞わせたら、もう気分は王族だ。マリー・アントワネットもこんなお風呂に入っていたのだろうか。実際どうかはともかく、そんなことを想像するくらい気分が上がっている。

 簡単に身体を洗ってから湯船に飛び込めば、泡は綿のようにふわふわと身体を包み込んだ。勢いでお湯と一緒に少し排水溝に流れたが、それを差し引いてもたっぷり残っている。


「くぁあ~……うわ、これやっばい」


 普段のお風呂よりもリッチで気持ち良くて、お湯と泡が優しく包み込んでくれる。泡があるだけでここまで変わるものなのか! もうテンションが全然変わっちゃう魅惑の泡だ。流石王族、侮れない。

 泡をしっかり堪能してから、一度出て髪の毛を洗うことにする。今日は時間もあるし、ゆっくり時間を掛けて洗おう……と、思ったが。耳にお湯がかかったところで、私は奇声を発して仰け反る羽目になった。


「んぐえっ……」


 耳にお湯が掛かった瞬間、背筋にぞわぞわっと悪寒が走る。足腰から力が抜ける感覚と悲鳴を上げたくなる気持ち悪さが同時にやってくる。壁に掛けられた鏡を見ると、耳は元気を失くしたのか威嚇に入ろうとしているのか、やけに横へ倒れていた。

 もうこれ猫で確定ではないですかね。猫はお風呂が苦手なんて話も聞くし、お湯に反応したのは納得かもしれない。

 私は凍り付く背筋に鞭を打ちつつ、何とか髪を洗い終える。時間を掛けてとは幻想だったのだ。さようならおうち時間での美容……。耳に掛からなければ何とかなりそうだし、湯船に浸かる方向にしよう。シャワーばっかりだと身体に悪いという天のお告げかもしれない。多分そんなことはない。

 諦めて再びお湯に浸かってみる。猫耳が邪魔でやりにくかったが、何とか髪の毛をタオルで纏めた。そうしたら首まで深くお湯に浸かることができて、泡風呂をじっくりと体験できる。


 どうしてだろう。休みがなかったわけじゃないのに、こんなにゆっくりすることが懐かしいくらい。気が抜けたとたんずるずると身体が沈んで、顔が半分程お湯に入ってしまう。泡が自分の耳に付いたが大して気にすることでもない。猫耳に付かない限り不快感はないようで、そのまま空気をぶくぶくと出して遊んでみる。


「あー……お風呂っていいなあ」


 毎日毎日満員電車や上司に嫌な気持ちになって、女に生まれたことを面倒に思って。リモートになったところで仕事がなくなるわけでもないし、むしろ別の大変さが増えたり。

 あーあ、人間って面倒臭いな。耳が生えるだけじゃなくて、本当に猫になってしまえたらいいのに。

 浴槽の縁に腕と身体を乗せてそんなことを考えていたら、次第に頭がぼんやりとしてきた。冬の朝に味わう布団の心地好さのように、この豪華なお風呂は罠だったようだ。その感覚に逆らえず、私はゆっくりと目を閉じた。



 本当に急に、目が覚めた。ぱちり、と両目を開けたら部屋の天井が目に入る。外からは小鳥が囀る声が聞こえて、朝だと自然にわかった。

 思わず手を伸ばして頭を触るが、どんなに触っても何もなかった。猫耳が生えた気がしたのだが、やはり夢だったのだろうか。首を傾げながらベッドから起き上がり、牛乳でも飲もうかとキッチンへ向かう。するとシンクの足元に、暗い豹のような模様をした毛玉が見えた。私の足音に気が付いたのか、毛玉は振り返ってくりくりとした二つの目でこちらを見て、にゃあ、と鳴いた。


 猫だ。全く記憶にないが、いつ家に入って来たのだろう。しかしよく見れば、猫の模様は覚えがある。あの猫耳と同じだ。

 やはりあれは夢だったのだろうか。どちらにしてもこの覚えがない猫をどうしよう。ぐるぐると考える私の足に、猫は高く鳴いてすり寄ってくる。丸くなっていた場所には水が入った皿があり、それを飲んでいたのだろう。これを用意したのは誰なのか考えるまでもなかった。


「仕事し過ぎで疲れたのかなあ」


 実際がどうなのかはわからないけど、猫の揺らした尻尾を見ていたらどうでも良い気がしてくる。疲れた私が癒しを求めて見た夢なのかもしれないし、調べたら入浴剤は減っているかもしれない。

 けれど今はそれよりも、リモートワークの合間にどうおうち時間を過ごすか、この猫と相談することが先だった。

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