夢屋
鏡乃
ノア・クラークは夢を見る
第1話 或る男の夢
夢を見なければ
男は走っていた。どこへ向かっているのか男自身も分かっていなかった。胸元まで伸びたボサボサの髪、あばらが浮き出た身体で必死に地を蹴った。路地裏へ逃げ込み周りに誰もいないことを確認する。男は今しがた盗んできた物を見つめる。10センチメートル四方の黒いケース…… 中身を取り出そうとするが手が震えてしまって上手くいかない。
一旦落ち着こう
ポケットから煙草を取り出す。路頭に迷うことになってから大事に大事に吸っていたが、それももう最後の一本だ。火をつけようとして、小さな絶望。タバコより先にマッチが底を尽きていた。もういい、そもそも悠長に一服している暇もない。見つかるのも時間の問題だ。
再度ケースに目を向ける。ラベルは褪せて読むことができない。選り好みをしている余裕など男にはなかったので、内容はどうでも良かった。慎重に蓋を開け、中から指の爪ほどの大きさのチップ取り出す。それを右耳に付けたスキャナに挿入し、ゆっくりと目を閉じた。
あぁ、やっと夢を見られる
◆ ◆ ◆
ノア・クラークは微笑んだ。
「また随分とやつれた顔をしているね、エマ」
「上がり直前に滑り込んできたのさ。路地裏でホームレスが一人」
「ロッドかい?」
「それがさ、ショック死だったんだよ。盗んだチップを読み込んで、脳が耐えられなかったみたいなんだ。耳から脳漿飛び出しててさあ。臭うし汚えし、処理する身にもなれってんだ」
「ああ、それでご機嫌斜めなわけだ」
カフェの店員が訝しげに注文をとりに来る。オーダーメイドのスーツに身を包み、ブロンドの髪を綺麗に整えたノアと、鼠色の作業着に赤毛を引っ詰めただけのエマが一緒にお茶をする仲に見えないのは仕方がない。ここは会員制の高級カフェであるからして尚更だ。彼女は新人のようだからエマのことを知らないのだろう。
「お嬢さん、彼女は間違いなく私の友人なのでご安心を。冷たいレモンティーを頂けるかな」
「し、失礼しました!すぐにお持ちいたします」
女性店員は顔を赤らめ、そそくさとオーダーを通しに戻っていった。エマが気に食わないという顔でこちらを見る。
「お嬢さん、だって! 紳士ぶっちゃって! あたしにはそんな優しい顔しないのに。アンタの友人なんて願い下げだよ」
「それは困る。ただでさえ友と呼べる人間は少ないから、エマとはこれからも仲良くしたいんだけどね。あと、僕はいつだって紳士だよ」
そう言って紅茶を嗜む彼は、悔しいが美しいと言わざるを得ない。長いまつげから覗く愁いを帯びたアッシュグレーの瞳は、左目だけ陽の光を浴びると緑がかって見えた。垂れた前髪をそっと白い指で掬い取り、耳にかける。彼の仕草一つ一つから下品さを感じさせない妖艶な雰囲気が漂っていた。これでは店員が訝しがっても仕方がない。エマがふんっと鼻を鳴らす。
「心にもないこと言っちゃってさ。そういうところが嫌いなんだよ。さっさと済ませようぜ、午後にも仕事入れてんだ」
そう言ってエマはリュックの中からファイルを取り出し、運ばれたレモンティーをゴクゴクと飲んだ。ファイルには男女の写真が1枚ずつと書類が挟まっていた。ノアは一通り書類に目を通し、少しの思考を巡らしてから頷いた。
「うん、いけるね。紹介してくれ」
「あいよ。本当、上に立つ方々ってのは馬鹿なことに金を使うよなあ。少しくらい分けて欲しいよ」
「分け合ったことがないのさ。パンも快楽も、全部独り占めしてきた奴らなんだから」
楽しそうに言い放った彼の目は、微塵も笑っていなかった。受け取ったファイルを自分の鞄へ仕舞い、彼は席を立った。それだけの動作なのに、どうしようもなく優雅である。お茶会中のご婦人達が彼の後ろ姿を横目で追っている。エマは眉間にしわを寄せた。
「そんなに殺気立った紳士がいるかってんだ」
聞こえないように呟いて、氷が溶けて薄まってしまったレモンティーをぐいっと一気に飲み干した。
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