第12話 怠惰の木曜日

 木曜日の昼下がり、皆様いかがお過ごしでしょうか。私は絶賛机に突っ伏しています。一見寝ているように見えますが、その実テストの時より集中して頭を動かしています。元より、私は机に突っ伏して居眠りすることができない。腕が痛いし背中も痛い、何より周りがうるさい。元来、明るい部屋で寝ることが大の苦手である。自室で寝る時も必ず部屋は真っ暗にして寝る。常夜灯で寝ている人もいると思うが私にはそれも明るい。文字通り真っ暗にしなければ寝ることができない。ちなみにアイマスクも私にとっては不十分だ。アイマスクをしてもしマスク越しの明るい世界をなんとなく目蓋の裏で感じ取ってしまう。ここでひとつ、人体の構造に文句を言いたい。目蓋を閉じたとしても明るさはバッチリ感じ取ってしまうじゃないか。なぜ神様はもっとまぶたを厚くしてくれなかったのだ。明るさを感じ取る能力があるとすれば私のそれはもうすでにレベルマックスに達していると言っても過言ではない。そんなものはなんの自慢にもならない。そんな苦手な体制をとってまで何を考えているかだが、無論掃除についてである。昨日無様に負けてしまったから今日こそは勝ちに行きたい。昨日の敗戦で1つ分かった事がある。この戦の相手は掃除ではなく、今前の席で必死に次の古典の授業のために現代語訳を書き写している小柳である、ということだ。今まで特にこれと言って感情を抱いていなかったが今回のことで苦手な存在になっている。奴を攻略するにはどうすればいいのか、正攻法でかかってもこの男には通用しないだろう。もはや無理ゲーだ。まず掃き掃除を奴から奪うことはできない。どうしてホウキが教室に4本もあるのだ、どう足掻いても不可能ではないか。それならどうするか、奴が急いで掃除をするように仕向けるにはどうすればいよいか。掃除がなければ小柳は一目散に教室を後にする。掃除があると諦めてゆっくり掃除をしやがる。まるで別人のように。別人・・・?そうか、別にあいつに掃除をさせなくてもいいのか、遅い奴1人を排除して私が2人分掃除した方が早い。なるほど、よしその作戦でいこう。身代わり作戦だ。

 そのままいつも通りの午後の授業を適当にやり過ごし、ホームルームを迎えた。いつもならボーッと聞いているだけの担任の話がいっそう聞こえてこない、全く頭に入ってこない。緊張しているのだ。これほど何かに緊張した事が今までにあっただろうか。だが、挑戦しないわけにはいかない。勝負だ、小柳。

「ありがとうございましたー」

 例によって皆一斉に机を後ろへ追いやる。私も誰よりも早く後ろに持っていき小柳の元へと向かった。今回の作戦はこれで決着がつくと言っても過言ではない。

「こ、小柳君」

「あん?なんだよ」

「今日の掃除なんだけど」

「あー、かったるいよなあ、今日もかよ、あれのせいで早く部活行けないんだよな、今週は」

「そ、そうだね、その掃除なんだけど、よかったら、代わりにやっておくから、部活行っていいよ」

「あ?何言ってんだよお前、代わりって言ってもお前も同じ掃除班だろ?代わりにならねえじゃん」

 こいつ、地味に鋭い奴だな。もっと単純スポーツ馬鹿だと思っていた。しかしここでめげるわけにはいかない。

「そ、そうなんだけど、いつも部活早く行きたがってたみたいだし、1人いなくても自分が代わりに2人分やっておくからさ」

「あー・・・」

 考えているのか、何を迷ってるんだ、こいつなら迷わず「お、じゃあ頼むわ」と踵を返して教室を飛び出していくと思ったのに。

「いや、いいよ、掃除は掃除、部活は部活だろ、俺は掃除をする」

 なんだと・・・。この瞬間、私の戦意は急降下しておおよそ0になってしまった。まさかこの作戦が失敗するとは。小柳はそう言うとホウキを取りに教室のロッカーへと向かってしまった。負けたのか、私は、奴に。もういいや、あれこれ頭を使っても結局何も達成できないじゃないか。馬鹿みたいじゃないか。やはり私には無理なのか・・・。

 それからの私は酷い有り様だった。頭が真っ白になって抜け殻と化した。掃除もままならず、ボケーっと突っ立っていた時間の方が長かったのではないか。自分でもよく覚えていないが、あんなのはサボっていたのと同義だ。しまいには小柳に「お前、遅くねえか、早く机運べよ」と言われる始末。ははは、何をしているんだ私は。乾いた笑いが冷たい風にさらわれていく。彼女にどんな顔をして逢えばいいのだ。もはや逢いたくないとさえ思えてきた。あの逢瀬をどうにかして回避できないか、もっと時間を遅らせてやろうか。そう無意識に思ってしまっていたのか足取りはどんどん遅くなり、駅に到着したのは月曜日よりも遅い時間になってしまった。信号は相変わらず変わるのが遅い、変わらないな、こいつは、しかし今の私には好都合に思えた。陽が落ちれば落ちるほど自分の影が細く長くなっていく。そのまま消えてなくなってしまえばいいのに。気づけばずっと下を向いていた。空を眺めることが好きな私は比較的上を向く事が多かったのだ。自分の影の長さの変化に気がつくほど下を向いていた。なるほど、下を向いて歩くのは楽だな。自分がひどくちっぽけに感じる。いや、自分の世界がちっぽけに感じる。この世の中に私以外には誰もいない、と言うより自分が今意識できる世界が極端に小さくなっているのを感じる。でももしかたらこうやって生きていく方が楽なのかもしれない。見たくないものに蓋を置けそうだ。聞きたくないものに栓を出来そうだ。そんな世界にいてもいつもの癖でパッと信号を見てしまった。タイミングよく青くなりやがった。なんだ、お前は前に進めと言うのか、酷い奴だ。今日は会いたくなかったです、駅員さん、あなたに今の自分を晒したくはなかった。でも、あなたはいつもと変わらず言ってくれるんですね、ありがとうございます、と。連絡橋にたどり着くまで、そして階段を上り橋を渡っている間、ずっと下を向いて彼女がいるかどうかは確認しなかった。いなければいいのに、そう思っていた。あんなに楽しみにしていた時間なのに、今は1番来て欲しくない時間だった。

「遅かったね」

「・・・」

「その調子だと、またダメだったみたいね」

「すみません」

「謝って欲しいわけじゃない、今日もあれこれ考えて、実践してみたんでしょ」

「えぇ、まあ」

「じゃあ」

「でも!でも、何にもならなかったです、自分が考えることなんて、何もうまくいきませんでした」

「そっか」

「それで、掃除中ほとんど何もせずに、サボってました」

「そ、っか」

 もう彼女にも見限られたか。それはそうだろう。たった2週間の付き合いで、こんな残念な人間を励ます道理なんてどこにある。「あっそ。じゃあね」で終わりだ。もうこの関係にも終止符が打たれる。そんな大袈裟なものではないか。元から私と彼女はこの場所、時間だけの関係だ。考えてみれば名前すら知らない。そんな希薄な関係にすがるものなんて何もない。潔く彼女との関係を終わらせよう。短かったな、だが、楽しいこともあった。こんなに真っ直ぐに自分の感情を伝えてくれる人は初めてだった。こんな私に積極的に関わってくれた。話を聞いてくれた。分け与えてくれた。嬉しかったのだ、私は。今ならこの素直な気持ちを正直に彼女に伝えられるだろうか、どうせ最後だし、言うだけ無駄かもしれないが、それでも伝えずにはいられない。

「あの、」

「なんで?」

「え・・・?」

「なんで、1人で解決しようとするの?なんで、そんな悲しそうな目をしているの?なんで、もう終わりだから最後に伝えておこう、みたいな顔しているの?」

「そ、そんなことは」

「私さ、確かにあんたに頑張って欲しかったし待っててって言われた時、すごく嬉しかった。私のために頑張ってくれてるんだって思えたから」

「・・・」

「でも、そのせいで、そんな悲しい顔はして欲しくない。いつもみたいに少し冷めた口調でそうですねって言って欲しい、ぎこちない笑顔を見せて欲しい。私の発言にちょっとムッとした顔をして欲しい。それだけでいいの、私は」

「なら、どうすれば良かったのでしょう、あなたに背中を押されて、私は頑張らなきゃって思えました。でも何も出来ませんでした」

「確かに私は背中を押した、でもそれはあなた1人で頑張ってってことじゃない」

「自分1人に、ですか、ではあとは誰がいると言うのです・・・か」

 その時私は駅に着いて初めて顔を上げた。自分の醜い影から視線を上げた。彼女はいつもと何も変わらない綺麗な瞳で私の目をしっかりと見つめていた。目が微かに潤んでいるように見えた。そうか、目の前にいたんだ。すぐそばにいたんだ。挫けそうなときに手を差し伸べてもいい人が。知らないうちに、ずっと自分の世界に入り込んでいたんだ。今日に始まったことではなかったのだ。彼女に背中を押されたあの時から、私は間違っていた。自分1人でなんて思いあがって、視野が狭くなっていた。彼女はずっと待ってくれていたんだ。私が彼女に手を伸ばすのを。「手伝って」の一言を。彼女はずっと私を見てくれていたのに私は彼女を見ているようで見ていなかった。彼女に悲しい思いをさせてしまった。謝らなきゃならない。ようやく分かった。この人のために1人で頑張るんじゃない。この人のために共に頑張るんだ。

「気づくのが遅いんだよ、バカ」

「いや、あの、でも、あ、すみま」

「もう謝るの禁止」

「は、はい」

「その代わり、私をもっと頼って、いい?」

「わかり、ました」

「よろしい」

 戦隊ヒーローものやスポーツ漫画など、何かと敵対する主人公たちにはいつも頼れる仲間がいた。そんなことは子供でも知っている。その仲間たちと協力してことを成し遂げる様を見ることで友情や仲間意識というもを知っていくのだ。情操教育の段階からずっと見てきたものじゃないか。しかし、理解していなかった。仲間に、友達に頼ると言うことを。誰かのために頑張ることは決して間違いではないはずだ。その方が力も発揮できるしここぞって時に踏ん張る事ができる。今回の私もそうだ。これほど1つのことを考えて挑んだことはなかった。しかしそのせいでその誰かを悲しませては本末転倒なのだ。困ったものだ、義務教育を終えて、毎日毎日何教科も授業を受けているのにこんなことすら理解していなかったなんて。

「あの、手伝ってもらっても、いいですか」

「もちろん!聞かせて、あんたの頑張りを」

 知っていることと理解していることは違う。実際に経験してみないとわからないということだろう。夕陽を知らない人がどれだけ本で夕日を調べても実際に見てみないと、その美しさは理解できないのだ。私もようやく、彼女の美しさを、優しさを、強さを、理解した。

 出逢って2週間、私は大切なことを彼女に教えてもらった。とても同じ高校生とは思えない。いったい彼女は何者なんだろうか。ふと、そう思ったが私の頭は最終日の掃除大戦に向けた作戦のことでまもなく一杯になった。到着メロディはさながら開戦の合図だった。ようやく始まったのだ、《私たち》の戦が。

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