尻目

鏡りへい

深夜の路上

「あのう……すいません」

 そんな声が聞こえた気がして、ボクは思わず足を止めた。

 はい、という返事を飲み込んだのは、それが終電もなくなった深夜の路上で、気のせいかもしれないと疑うほど微かな音量だったからだ。

 ただの空耳かもしれないし、あるいは……聞こえなかったふりをしたほうがいい場合もある。

 恐る恐る振り返ったそこに、ソレはいた。ごく平凡な会社帰りの男性のように、黒っぽいスーツを着ている。

 平凡な会社帰りの男性でないのは、一目でわかった。ネクタイを締めた襟元から出ているのが、のっぺらぼうだったからだ。

 頭髪も凹凸もない、つるんとした頭部が外灯に照らされている。ボクの視界では逆光になるはずなのに、鼻や額を示すわずかな陰影もない。

 ――のっぺらぼうだ。

 唾を飲み込みながら、ボクは自分に呟いた。

 人がお面を被っているだけだろうか? それにしては、やけに頭蓋骨が細い。

「すいません」

 と、ソレが言ったような気がした。

 口がないから声が小さいのかもしれない、と思い至ったのはだいぶ後だ。

 冷静に考えれば、口のない顔から声がするのはおかしい。でもそのときのボクは、そんなことに驚いていられるほど冷静ではなかった。

 ソレは突然、自分のネクタイに手をかけてほどき始めた。同時に上着のボタンも外し始める。慣れた手つきで迷いがない。ネクタイが平たい蛇のようにするりと地面に落ちたときには、ワイシャツの下の胸も半分ほど露になっていた。

 顔同様に凹凸と体毛の乏しい上半身が外灯に浮かび上がる。流れる動作でさらにベルトを外し、スラックスと靴下と革靴を一気に脱ぐ。

 ――痴漢か。

 ボクは背後に隠し持っていたトンカチを持つ手に力を込める。

 ソレは最後の一枚、下腹部を覆う衣類の腰部分に両手の親指をかけた。

 と、不意に半回転して背中を向けた。

 そしてもったいをつけるように、そこだけやけにゆっくりと、布地を下した。

 薄い腰からなだらかに盛り上がる臀部のラインが外灯に照らされていく。マネキンのような、リアルだけど体温を感じさせない肌。

 布地が腿まで下がり、つるんとした双丘がこちらに向き直る。まるで「見ろ」と言わんばかりに。

 ソレは上体を折って尻を突き出すと、左右から伸ばした両手で膨らみを引っ張った。

 眉を顰める。それ以外の抵抗はできなかった。おそらくソイツが見せようとしているものから、目が離せない。

 尻の割れ目に隠れていたもの――それはボクを見据える、一つの大きな目玉だった。

 その目が一回、瞬きをした。

 ボクは急激なめまいを覚えた。


 はっと気がついたとき、外灯が照らす景色に奇妙なものは何もなかった。アレがいた場所には、脱ぎ捨てたはずの衣類もない。

 ボクはおかしなものを見たショックで茫然自失としていたのだろうか? それとも――最初から幻だったのか。

 どれほど立ち尽くしていたのかもわからない。焦って辺りを見回す。幸い、人影はなかった。

 スマホを取り出して時刻を確認しようかと考え、それも時間の無駄だと、さっさと歩き出す。まだ夜は明けていない。それだけでいい。

 ボクはトンカチを汚れたシャツの内側に移動させた。そして生きた人に会わないことを願いながら、静かな通りを急いだ。

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