「先輩朝ごはん食べましたか?」

 隣に家入いえいりが住んでいる。そんな状況が受け入れられなくて、俺はあまり眠れないまま気づけば朝を迎えていた。

 とりあえず朝食でもとろうと、お湯を沸かし、食パンを焼く。程よくパンか焼けたところでインスタントコーヒーを入れたカップにお湯を注いだ。最後にトーストにバターを塗って、朝食の出来上がりだ。

 トーストとコーヒーをリビングまで運び、いざ食べようというところで玄関のチャイムが鳴った。

 こんな朝っぱらから誰だろうか。なんだか嫌な予感がしつつも、俺はまたしても確認もなく玄関のドアを開けてしまった。


「先輩、おはようございます」


 昨日と同じような光景がそこにあった。ドアを開けた先にいたのは家入。朝早くからご苦労、と言いたいが部屋を出てから徒歩数秒で来れるんだから苦労も何もあったもんじゃない。

 俺は再びドアを閉めようとしたが、またしても足を入れられてしまう。昨日と同じ展開だ。

 仕方がないのでドアを開けて、用件を訊ねてみた。


「遊びに来ただけですよ」

「朝っぱらからお前な……。寝不足なんだよ俺は」

「それはヤバいですね。大丈夫ですか?」

「誰の所為だと……」


 そこまで言いかけて止めた。いかんいかん、家入のことが気になって眠れないだなんて言ったら何を言われるか判ったもんじゃない。

 しかし無情にも家入は俺の言いたかったことを理解したようで、にやりと悪戯げな笑みを浮かべた。


「もしかして、私のことが気になって眠れなかったんですか? ヤバいですね」

「そういうんじゃねえよ」


 大嘘で説得力ゼロの言葉しか出てこない。これじゃあ家入の追及は待ったなし。と思っていたけれど、意外にもこれ以上揶揄からかってくることはなかった。


「まあいいじゃないですか。遊びましょうよ。あ、先輩朝ごはん食べましたか?」

「今から食べるところだ」

「そうですか。じゃあ、お邪魔しますね」


 今日もまた家入は俺の横をスッとすり抜けて家に入っていく。

 何が『じゃあ』なのか。前後の文脈が繋がっていないことに疑問を持ちつつも、なんだかんだで彼女を受け入れてしまう。


「あ、手洗いうがいしろよ」

「またですか。隣の部屋だから別によくないですか?」

「最低限のマナーだ」

「仕方がないですね」


 またも渋々と言った感じで家入は手洗いとうがいを済ませた。


「そういえば、コップは消毒しました?」

「消毒? あー、気になるか?」


 確かに来客にだけマナーを押しつけるのもフェアじゃない。昨日今日は急だったから無理だけど、来客用に家の中を消毒する準備くらいはした方がいいのかもしれないな。


「いや、先輩昨日言ってたじゃないですか。それとも、私との間接キスを堪能してましたか? ヤバいですね」

「しとらんわ」


 そういえばそんな事を言ったのを思い出した。

 結局消毒するなんてのは売り言葉に買い言葉みたいなもので、実際には何もしてない。家入は今、右手にコップを持っている。俺は普段どっちの手でコップを持っていただろうか。


「さてさて、そんなことより朝ごはんは何でしょうか?」


 結局家入のことを意識してしまったものの、家入はまたしても言うことだけ言ってそれ以上掘り下げてくることはしなかった。それはそれで面倒くさいので、ひとまず話題が変わったことにホッとする。


「あ、トーストとコーヒーですか。良いですね、いただきまーす」

「おい待て。俺の朝食だ」

「良いじゃないですか、減るものでもないですし」

「どう考えても減るだろ」


 俺は深いため息をいてから、お湯を沸かし直して、食パンをトースターにセットした。


「もしかして私の分ですか? なんだかんだ用意してくれるなんて、先輩のそういう所……ヤバいですね」

「この状況で一人食べてる方が嫌だからな」


 程なくして家入の分が準備出来た。テーブルの上には二人分の朝食が並ぶ。見慣れない光景に違和感しかなかった。


「マーガリンじゃなくてバターですか。ヤバいですね」

「バターの風味が大事だからな」

「ところで、ミルクと砂糖は無いんですか?」

「無い」

「先輩、加藤なのに無糖なんですね」

「やかましいわ」


 加藤という家に生まれてきた以上、避けては通れない鉄板ネタがここでも飛んできた。散々言われてきて聞き飽きたこのネタは、本人たちは面白いと思ってるのだろうが、俺にとってあまり面白くもない。


「食パンは消化されたら糖になるし、バターは乳製品。コーヒーにミルクと砂糖入れなくても実質同じだから良いだろ」

「むむ、それもそうですね。……って、そんなこじつけで納得出来るわけないじゃないですか!」

「文句言わずに黙って食え」


 そう言って俺はトーストをかじる。当然だがとっくに冷めていた。冷めたトーストは堅くなって食感が良くない。それでもバターの風味が弱々しくも口の中に広がってそれなりの満足感は得られた。

 家入もそれに倣うようにトーストを口にして、コーヒーをすする。当然バタートーストがミルクと砂糖の代わりになる訳がなく、家入は渋い表情を見せた。


「んで、訊きたいんだが」

「何ですか?」

「お前、隣に住んでんの?」

「そうですよ。昨日はそのご挨拶に伺ったんですが。ほら、引っ越し蕎麦食べましたよね?」


 いやいや、そんな話一言もなかっただろ。そう突っ込むと「そうでしたっけ?」ととぼけたような答えが返ってきた。

 まあいきなり出てくる蕎麦に対して疑問を持たなかったし、そもそも家入が訊ねてきた理由を訊いてもいなかったんだから、俺も悪いっちゃ悪い。一パーセントくらい。


「てか何で隣なんだよ」

「ちょうど空室だったんですよね。それになかなか家賃もお値打ちでヤバいなと思いまして」


 たまたま、という言葉と使わず答えることから、家入は知ってて隣の部屋を選んだんだと解った。去年家入には住所を教えたから、俺の部屋を知ってることは不思議じゃない。しかも俺の部屋の両隣はたまたまどっちも空き部屋になったところだった。なんとも運が良い奴だ。

 まあそれはそれとして、確かに彼女と言うとおりここはそこまで家賃が高くない。ただ、値段相応というか、女子が一人暮らしするには少し心許ない物件とも言える。


「いくらお値打ちって言っても、少し高くても女性向けのマンションとかの方が良かったんじゃないか?」

「いえいえ、ここなら先輩っていう専属コンシェルジュまで付いてるんですよ? ヤバくないですか?」

「誰がコンシェルジュだ!」


 ガードマンではなくコンシェルジュというあたり、便利に使い倒す気でいると感じ取れる。現に今もこうして朝食をたかられているんだから、完全に家入のペースに乗せられてるわけで。


「まあまあ先輩。私だって厚顔無恥ってわけじゃないんで」

「嘘だろお前、厚顔無恥ってお前のためにある言葉だろ」

「ちょ、先輩流石に失礼すぎですよ」


 二日続けて人の家に押しかけてきて、二日目にして朝食をたかってる奴が厚顔無恥じゃないって考えの方がヤバいだろうに。

 そんな俺の考えをよそに家入は「ですから」と続ける。


「このお礼は身体で払いますんで、期待してくださいね」

「ほう身体」


 身体で払う。なんとも扇情的で甘美な言葉。まあこの手合いはそういう意味じゃないって相場が決まっているけど。


「じゃあよろしく」

「任されました!」


 家入は元気よく返事をすると、大方の予想通り、食器を重ねて台所へと運んで洗い物を始めるのであった。

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