第4話

 ビュン、ビュン。


早朝の庭で、母に買って貰った金属バットで素振りを繰り返す。


以前と違い、どう振れば良いかは分っているから、何百回振っても苦にならない。


腕の力だけではなく、ちゃんと腰も使って振る。


手の皮が破れて痛くならないように、危ない場所にはバンドエイドを予め貼ってある。


それが終わると、鶏と犬の世話をして、洗濯をし、学校に行く支度をする。


給食までにお腹が空かないよう、朝からしっかり食べるため、平日の朝はパンではなくご飯にしている。


大きなどんぶり茶碗で山盛りにしたご飯に、自分で作った卵焼きや、レトルト(イシイ)のハンバーグなどをおかずにする。


歯を磨いて、うちの班の集合場所に行くと、既に西本が来ている。


「おはよう」


「おはよう。

今日から部活が始まるから、これからは中々一緒に帰れないね」


「そうだね。

残念だけど、家が隣だし、クラスも同じだからそれで我慢するよ」


「私と帰れなくて寂しいんだ?」


以前の俺なら、ここで絶対に肯定しなかった。


「うん。

他に親しい人いないし」


『それはあなたが壁を作ってるからでしょ?

女子の中にも、あなたに関心がある人いるよ?』


「・・それなら、偶にお昼休みに何処かで会う?」


西本が嬉しい提案をしてくれる。


「良いの?」


「うん。

会長と副会長だし、普段から意思疎通いしそつうをしておかないとね」


「難しい言葉を知ってるね」


「最近、国語の勉強が大変だから・・」


「国語だけで、ノートが別に3冊(漢字、意味調べ、短文作り)あるしね」


「そう。

毎日の勉強が大変。

お母さんに、新しい国語辞典も買って貰ったし」


確かに、小学生用のは、もう使えないね。


「透君は毎日どのくらい勉強してるの?」


班員が全員揃ったので、歩き出しながら会話を続ける。


「うーん、平日は大体3時間くらいかな」


今の俺は、前回と違ってテレビをほとんど見ないから(懐かしくて涙が出る名作だけ)、本当は4、5時間はしているし、その内容も難関大学受験用かそれ以上だけど、現時点では内緒にしておく。


「凄い!

家のお手伝いもしてるのに・・。

やっぱり私もそのくらいしないと駄目かな。

お母さんも、『今のままだと高校生で苦労するよ』って、言うし」


この時代、人口3万の俺の町には、小学生用の学習塾なんてなかったし、皆当たり前のように公立中学に通っていた。


中学になり、折角せっかく開成中学に合格したのに、父親の転勤で引っ越して来た奴がいて、親の学歴が高い家庭の間で、かなり噂になったくらいだ。


ちなみに、中学教師を含めて、この町の教師の大半は、地元の二流国立大学(共通一次試験で、1000点満点中、650点取れば入れる)が、早慶よりも上だと思っている。


以前、中学の同窓会に一度だけ出席して、聴かれたので大学名を答えたら、偏差値表の上から3番目くらいにあるのに、ほとんど誰もその大学を知らなかった。


東大と京大だけは無理だったから、共通一次試験を受けもしなかったけど、きっと『代ゼミや駿台の模試では、北大文Ⅲで15位でしたよ』とでも言った方が良かったのだろう。


「やって悪いという事はないけど、まだそれ程しなくても大丈夫だと思うよ?

勉強が好きでしてるならともかく、今からそんなに頑張ってると、大学受験辺りで疲れてくるんじゃないかな。

今は国語と算数だけやって、他は読書でもした方が良いと思う」


実際、都会で小学生から塾に通ってた人の大半よりも、高校卒業まで塾にすら行かなかった俺の高校の同級生達の方が、ずっと成績が良かったし(京大や自治医科大にストレートで受かってたから)。


社会や理科なんて、俺だけかもしれないが、小学校で何をしたかなんて全く覚えていなかった(但し、熱心な先生の授業はきちんと聞きましょう)。


けれど、前回の高校入試では、そのどちらも50点満点中49点だった。


中学からでも余裕で挽回できるのだ。


「透君がそう言うならそうする。

国語は、漢字の練習以外は楽しいし」


「書ける漢字まで20回も書き写すのは面倒だよね」


「ほんとそう。

あれだけは苦痛だよ」


お互いに苦笑いしながら、校門をくぐった。



 学校給食。


当時の地元のこの制度には、2つほど異を唱えたい。


先ず1つ目は、配給係は外科医の衣装の出来損ないのような白衣と帽子を身に着けるのに、肝心のマスクをしなかった点だ。


勿論、俺が当番の時は、コ○ナなんてまだ存在しなくても、前回同様、必ず付けたよ?


誰も見習ってはくれなかったけど。


なので、トレーを持って並ぶ自分の番が来ると、毎回彼らが言葉を発しないかをチェックせねばならなかった。


牛乳も、びんやパックではなくプラスチックの器に注がれたので、彼らの唾が入らないかとても心配だった。


唯一平気でいられたのは、西本が配給係の時だけだった。


酷い時は、おかずと牛乳は放棄ほうきして、パンとデザート(市販もの)しか食べられなかったし。


2つ目は、週に1回、飯盒はんごうでのご飯の際に、給食になんと納豆が出された事だ。


その確率は月に一度くらいだったが、この時ばかりは机を廊下に出して、1人で食べていた。


それが好きな人をどうこう言うつもりはないが、あの見た目と臭いだけは、耐えられなかった。


自分にとって幸いな事に、西本も好きではないらしく、いつも残している(手をつけない)と言っていた。


彼女の両親共に嫌いで、食卓に上る事もないそうだ。


さすがに、廊下に机を出していた俺を、呆れた目で見てはいたが・・。



 部活が始まり、それまで放課後は大体1人で過ごしていた俺に、多少の人間関係が生まれる。


6年生に混ざって練習をし、本来ならつかわなくても良い気を遣う。


たとえ自分の方が優れていても、それを態度として表に出してはいけない。


子供の内は特に、自己を客観的には評価できない者が多いからだ。


2人いた指導者達も、他の保護者の手前、リトルリーグほど勝ちにこだわらないから、上手下手よりも学年を重視して試合に出した。


それでも俺は5年生で時々代打として起用され、その度に四球を含めて塁に出ていた。


以前やっていた時も、ある時から異様に出塁率が高くなった。


ホームラン率は約3割。


後は四球かヒット、偶に外野フライ。


敬遠も多かったが、打率は6割以上あっただろう。


小学生の軟式野球で、投手が投げる球種はストレートのみ。


親が毎週連れていってくれたバッティングセンターで、常々時速120㎞の球を打っていた俺には、県大会レベルまでの投手に、打てない人はいなかった。


しかも、スイングにぶれが生じないよう、始めたばかりのように、全力でバットを振ったりはしない。


ただ軽く芯に当てて振り切るだけで、80mくらいは飛んでいった。


『軽く振ってそれなら、思い切り振れば何処まで飛ぶんだ?』


6年生で4番に就いた時、指導者からそう驚かれたが、愚かな俺は、当時全く努力をしなかった。


テレビや漫画を見て、後は国語の勉強をして終わりだった。


投手としても、あんなに期待してくれたのに・・。


6年生で172㎝あった自分の投げる球は、何処かのアトラクションのスピードガンで測った時、最大124kmあった。


肩が強い者は、投げる球も速いのだろうか。


ただ、オーバースローで投げる時、首がぶれてキャッチャーミットを見なかったので、あまりコントロールが良くなかった。


後に、初めからサイドスローで投げれば良いと気付くのだが、その時は既にファーストが固定位置だった。


試行錯誤や努力を怠り、持って生まれた身体機能だけで渡ってきた前回の俺。


身長にさえ恵まれなかった人達から、一体どんな思いで見られていたかと考えると、忸怩じくじたる思いで下を向きたくなる。


だから今回は、徹底的にひたすら努力する。


どうせ短い命だ。


思い切り走り抜けて、倒れるように死のう。



 「夏休み、何か予定ある?」


7月中旬のお昼休み、共に過ごす音楽室で、西本がそう尋ねてくる。


週に2、3回、給食を食べた後に2人で来て、誰もいないこの場所で、20分くらいの時間を共に過ごす。


「今の所、部活と剣道の合宿だけだね。

そっちは?」


「家族で旅行に行くのと、海にも行く」


「何処に行くの?」


「旅行は北海道の札幌と函館、小樽。

海は千葉の館山っていう所で2泊」


「楽しそうだね。

部活は大丈夫なの?」


「5年生は試合に出して貰えないし、練習もそこまで厳しくないから」


「子供会のソフトボール大会には出られる?」


「それは大丈夫。

透君の勇姿を見たいし」


町内を十数個の地区で分け、其々のチームが優勝を争うこの大会は、何年生でも参加でき、毎年結構盛り上がる。


「僕も西本のユニホーム姿好きだよ。

結構様になってる」


「本当?

嬉しいな。

透君も凄くカッコ良いよ?

練習で打席に立つ時、とても貫禄かんろく有るし、打球がかなり飛ぶもんね」


「今年初めて参加するけど、優勝は厳しいかな。

6年生の女子に、ソフト部のエースがいるチームがあるし」


前回の経験では、大会で優勝したその女子は、部の郡大会でも準優勝した投手で、2回戦で当たった俺との対戦成績は、3打数2安打、1四球だった。


それも、外野が異様に後ろに下がっていたからホームランは打てず(学校の校庭に柵はない)、2打席目はチェンジアップでタイミングを狂わされ、ボテボテのヒットだった。


ただ、野球部を含め、その大会で5年生ながら彼女からヒットを打ったのは俺だけで、6年生でも2人しかいなかったようだから、溜飲りゅういんが下がったが。


「・・あの先輩からヒットを打つのは、かなり難しいね。

私じゃバットに当たらない」


「それはそうと、西本は泳ぎが得意なのか?」


前回も5年生から同じクラスだったが、プールの授業はずる休みして、教室で自習していた俺にはよく分らない。


「得意という程でもないけど、ちゃんと泳げるよ?

・・透君、今年もプールに入らないの?」


小中学はプールの授業も男女一緒だったので、彼女の水着姿を見るなら参加すべきなのだが、やはり気が向かない。


「入らないだろうね。

顔を水中に入れない銭湯とかならともかく、大勢で小さなプール(25m)に入るのは嫌かな」


「透君の話を聴いてると、私もプールが嫌になりそう。

何か想像しちゃう」


「突然水温が生暖かくなるとか?」


「やめてよもう!

入れなくなったらあなたのせいだからね」


西本が嫌そうに笑う。


「・・お土産、何が良い?」


「ん、何の?」


「だから旅行の」


「・・物は要らないから、西本が写っている写真が欲しいな。

どんな場所に行ったのか見てみたい」


本当は風景など必要ないのだが、コンビニで避妊具を買う時に、一緒にお菓子を混ぜるのと同じだ。


「水着姿も?」


窓から校庭を見ながら、西本がさらりとそう口にする。


「それは君の判断に任せるよ」


その表情からは彼女の意図が読みづらかったので、無難にそう逃げる。


「まだセパレートの水着は着ないけど、それでも良い?」


「だからそれは必須じゃないから・・」


動揺を顔に出さないよう、何とか持ちこたえた。

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