第2話

 気が付くと、俺は別の部屋に居た。


遠い昔、親が同じ町内に土地を買って家を建てる前まで住んでいた、平屋の借家。


古い木造で、松の木が生えた40坪ほどの庭があり、そこに鶏と犬を飼っていた。


その4畳半の畳敷きの部屋が、当時の俺の城であり、ベッドなんて気の利いた物はないから、新居に引っ越すまでは布団で寝ていた。


慌てて飛び起きて、今の状況を再確認する。


先ずは自分の容姿。


人の手は年齢をごまかせないので、顔の前で何度も見比べる。


部屋を見回し、おぼろげな記憶の彼方にある、当時の様子と比べてみる。


最後に、恐る恐るふすまを開け、台所まで歩いて、その隣にある風呂場の鏡を覗いてみる。


・・良かった。


本当に良かった。


奴の言っていた事は、本当だったのだ。


鏡には、どう見ても小学低学年にしか見えない、幼い自分の顔が映っている。


念のため、あちこち触って感触を確かめたが、頬を両手で叩いた時は、ちゃんと痛かった。


俺は嬉しくて、思わず泣きそうになる。


あの後悔の連続だった日々から、やっと解放されたのだ。


しかも、その後悔の元をやり直せる。


寿命はあと11年弱しかないが、それを短いと感じるか、長いと考えるかは今後の自分の生き方次第。


少なくとも、その間は身体と健康には不安がないのだから、可能な限り、やりたい事をやれる。


「今日は珍しく早いね」


突然後ろから声をかけられて、びっくりして振り向く。


そこには、若かりし頃の、母の姿があった。


俺が考えなしに生きていたせいで、大分だいぶ苦労をかけた母。


亡くなる時も、警備員の仕事が休めなくて、今はのきわに駆けつけてやる事さえできなかった。


『おふくろ』と呼びそうになり、どうにか思い止まる。


「・・母さん、おはよう」


「おはよう。

朝ご飯にはもう少し時間がかかるから、鶏小屋から玉子を取ってきて」


「分った」


えさを持って小屋まで行き、いた餌を鶏がつついている間に、産みたての玉子を貰う。


水を取り替え、軽く掃除をする。


それから、自分を見て嬉しそうに尻尾を振る犬にも、バケツに新しい水をみ、頭を撫でてやる。


うちは、犬には家族が残したご飯とおかずを餌として与えていたので(タマネギ除く)、とりあえずそれだけで家に入る。


手を洗い、ポストから新聞を取って日付を確認する。


19○✕年(昭和△□年)、6月4日。


あの時から、60年と3か月をさかのぼった、俺の8歳の誕生日。


改めて過去に戻れた事を実感し、新聞を持つ手が震える。


以前、新聞を取っていた時期もあったが、その時は、夕方から翌朝にかけてのバイトから帰って寝るだけの生活だったので、株式などの経済欄以外、ろくに読みもせずに捨てていた。


これからは毎朝読もう。


それから、学校に行くまでの時間、家中を見て回り、身支度を整える。


顔を洗い、歯を磨き、髪に櫛を入れ、爪を切って服を選ぶ。


こんな基本的な事さえ、当時の俺はきちんとしていなかった気がする。


歯なんて、毎朝磨き始めたのは、確か小学4年生くらいからだ。


ランドセルを背負って学校に行く。


身長が伸びるのが人一倍早かった俺は、5年生の時には既にランドセルが小さくなり過ぎて背負えなかったので、以後は布製の手提げ鞄で通していた。


その扱いも雑だったから、お下がりを欲しいと言った母の知人とその息子さんも、購入費用が浮くこと以外では、あまり嬉しくなかったかもしれない。


そう考えて、それからはランドセルも大事に扱った。


元々、何万円もする物だしな。


2年1組。


確かここが俺の教室。


小学校は、4年生以外は全て1組だったはず。


1クラス40人以上で、其々それぞれ4クラスもあったのにな。


さすがに席順までは覚えていないから、大人しそうな女子に、俺の席は何処どこか尋ねてみる。


少し不思議な顔をされたが、『あそこ』と指で教えてくれる。


座って机の中を見ると、やはり教科書が全て突っ込まれている。


道理で家で探しても見当たらない訳だ。


当時の俺が、自主的に勉強というものに手を出したのは、小学5年生の時。


それまでは、計算問題こそ得意だったが、それ以外はてんで駄目だった。


勉強しない、授業もろくに聴いていないのだから当たり前だ。


親が余計なお金を払ってまで毎月取ってくれていたポ○ー(今で言う、進研ゼミのようなもの)も、ただ答えを写すだけだった。


なのに、何故5年生で目覚めたのか。


それは、ある1人の女性担任による。


どういう訳か、その先生は俺に期待をかけてくれた。


俺を見込んでくれた。


そんな事はこれまでで初めてで(どちらかというと問題児扱い)、嬉しくて非常に頑張った。


その先生が勧める国語の学習(単語の意味調べ、漢字の練習、短文作り)だけで、毎日2時間、社会の教科書要約を入れると1日3時間も勉強していた。


6年生も同じ担任だったので、その2年間で国語と社会、算数が異様に伸び(理科はやらなかった)、同じく俺を褒めてくれた先生の受け持つ家庭科も、成績は5(5段階評価)だった。


その先生に気に入られるよう、素行や言動が次第に良くなり、6年生ではクラス会長や委員会長、生徒会書記、クラブ長など、1人で5つの役職に就いて、卒業時は模範児童の賞状まで得る。


だが同時に、教科書以外の読書はせず、テレビばかり見てろくに思考力を育てなかったばかりに、歳を取ってから散々後悔したり、己に対して『馬鹿じゃないの?』と毒づくような愚行も何度か繰り返した。


中学に入り、当時人気だった作家の中高生用の小説を暇潰しに読んだ事がきっかけとなり、以後は月に数冊もの様々な作家の本を読んでいくのだが、はっきり言って、これもあまり思考力の育成には役立たなかった。


知識は増え、文章力は養えたが、それだけだった。


相変わらず、人前では上手く振る舞えず、言動や行動にも活きなかった。


結局のところ、俺がその思考力育成に最も役立ったと思えるのは、30代後半になってからやり始めた、ゲームソフトだった気がする。


アクションゲームはやらず、もっぱらRPGやシュミレーションものばかりをやり、そこで何度も何度も疑似ぎじ恋愛を繰り返しながら、思考力を磨いたのだ。


有効な選択肢を選ぶというだけではなく、パソコンのアダルトゲームを含めたゲーム全体のシナリオを数百も全て読み込む中で、他者の考え、気持ち、どういう時にどう振る舞うかなどを自然と学んでいった。


社会常識を得るための観察眼も、ここで磨かれたのだ。


人並に振る舞える、人格者の行動を取れると自信がついた時には、既に40代。


時既に遅しだった。


幸いな事に、俺には以前の記憶がある。


知識もある。


なので、この日は授業そっちのけで、ただ静かに今後の計画を立てていた。



 俺が何故8歳からやり直すことにしたのか?


それは、ある1人の少女のせいだった。


名を西本若菜にしもとわかなといい、何を隠そう、俺の初恋の相手だ。


彼女は、俺が小学2年生の時、家の隣に引っ越してきて、学校も学年も同じで、クラスは5年生から一緒だった。


当時の俺は本当に子供で、好きな相手には威嚇いかくするなどの突飛とっぴな行動しか取れず、多少落ち着いた6年生の時でさえ、外で出会うと何故か来た道を逆戻りして離れていた。


今でも、何故そんな行動をしたのかが分らない。


親が土地を買って建てた100坪の家が、その町の学区では別の中学校になる場所だったため、中学からは家も離れ、学校も別々になり、自然と会えなくなった。


高校は、この県は男女共上位3校が別学で、頭の良い生徒は必然的に男子校か女子校に通うことになる。


其々にパートナー的な存在があるのだが(例えば、A高校ならA女子高校という風に)、自由にお互いの高校に出入りできないので、せいぜい文化祭くらいしか交流がない。


公立の共学校は学力レベルがぐっと落ち、私立はもっと酷い。


なので、県でトップ3に入る男子校に入学した俺は、以後彼女に会う事はなかった。


高校生という多感な時期を、形式的にすら異性と触れ合うことなく過ごしてきたせいか、大学に入ってからもほぼ女子と接触する機会を作れなかった。


サークルにすら入らなかった自分が悪いのだが、折角相手から話しかけてくれたのに、ろくな会話もできなくて、直ぐ疎遠そえんになる。


バイト先でもそんな感じで、結局、ずっと彼女はできなかった。


俺の頭の片隅には、ずっと西本の事が残っていて、小説を読んでいる時も、大人になった彼女の姿さえ知らないのに、イラストの無いヒロイン像はいつも彼女だった。


そんな淡い想いを抱き続けた相手と、またやり直せる。


たとえ彼氏としては付き合えなくても、仲良くなるくらいならできるかもしれない。


そう思って、この年齢からやり直したのだ。


なまじ15や20からやり直しても、11年弱で死ぬ以上、どうせ誰とも結婚などできない。


無責任に、子供など残せない。


だから、この歳で良い。


女性の奇麗な側面だけを見ていられる、この歳で。



 西本が9月に越してくるまでの約3か月間、俺はそれまでの自分をリセットし、自己変革に取り掛かると共に、やり直す以前の俺のせいで、長いこと無駄にお金を使わせ続けた親に対する贖罪しょくざいのため、家事を手伝い、家計の無駄を省き、自己資金も貯め始めた。


具体的には、先ず言葉遣いと態度を改め、何事にも考える癖をつけ、必要な事はきちんと話すことにする。


俺が当時問題児扱いされたのだって、何かトラブルになってもろくに教師に事情を説明せず、相手側が嘘を交えた適当な事を言って、俺を悪者のように教師に信じさせたからだ。


4年生まで担任だった中年の女性教師は、ろくに生徒を理解しようともせず、ただ印象と外見だけで判断していたから、一度悪者認定されてしまうと、その偏見が付きまとい、何をしてもそういう目で見られる。


それは5年生になり、新たな担任の先生が、『いいえ、久住君はそんな子じゃありません』とかばってくれるようになるまでずっと続いたのだ。


こういう単純な人物には、普段から問題を起こさず、良い成績と態度を保つだけで済む。


別にこちらから積極的に関わるまでもない。


西本が来てからいきなり変わっても不審がられるので、これは直ぐに始めた。


家の中では、共働きで忙しい両親、主に母親のため、掃除に洗濯、皿洗い、料理や買い物まで手伝った。


外見上(背だけは高かったが)も、両親の主観の上でもまだ8歳だから、初めは自主的な掃除や洗濯(洗った後、それを干して畳むまで全て)から始め、徐々に信頼を得て、ご飯を炊き、カレーやシチューなどを作って喜ばれ、到頭とうとうお金を渡されての買い物まで手伝えた。


その際は、なるべく夕方以降に出向いて値引き品を買い、それがなくとも以前のバイトで鍛えた目で、質の良い肉や魚を見分けてお得な物を仕入れた。


自分が着たり履いたりする衣類や靴も、新聞のチラシで安価でもセンスと質の両方に優れた良い物を探し出し、こちらが指定した以外の余分な物は買わないで貰う。


毎月のお小遣いを貰い始め、銀行に口座を開いて貰って、その通帳と印鑑を自分で管理する。


子供といえども、親類や親の知人から時々貰えるお小遣いをも貯め続ければ、その額は決して馬鹿にできない。


実際、以前は俺をかわいがってくれた人達の中に、1回に2、3000円くれる人も何人かいて、それをつまらない事に無駄に使っていたのだ。


お年玉の額も、小中学生の間は毎年全部で3万円くらいにはなったし、今の俺は、当時熱を入れていた物や飲食物に、全く興味がない。


喉も乾いていないのに、王冠の裏の当たり目当てにジュースを日に何本も飲んだり、大きくてカッコ良い(スーパーカーの絵が描かれた)メンコが欲しくて、買えば200円くらいの品のくじに、何千円もつぎ込んだりしない。


物の価値、その損得がはっきりと認識できる。


お年玉は、以前、自分が貰った分の何割か(くれた人の中には、子供がいなかったり、既に成人していたりするから)を、親が相手の子供達に同じようにして返しているのだと後に気が付いたので、今の時点からその総額の半分を返すことにする。


それでも、年間を通してほぼ使わないから、小学校を卒業する頃には、預金は20万円を超えているはずだ。


お年玉と言えば、もう1つ、嫌な思い出がある。


無神経なある教師が、新年の授業前、クラスの子供達に全部で幾らお年玉を貰ったのか、何と公然と手を挙げさせていた。


大体の子は1、2万円台で、お金持ちの子は自慢げに5万円以上の所で手を挙げたが、中には500円という子も1人いた。


正直に手を挙げたその生徒は、以後、皆から貧乏と認識されてしまった。


まだ小さかったし、本人があまり気にしていないようだったのが、せめてもの救いだったが。


老いて年金だけが頼りの生活では、幾ら住む家があるとはいえ、父は自営で厚生年金がないし、母も看護師とはいえ数年から十年くらいで勤務先を変えていたから、生前、両親は老後の生活に支障をきたしていた。


2人なら何とか国民年金だけで暮らせるが、一方が亡くなると途端に暮らしが立ち行かなくなる。


それを知っていた俺は、経済には暖気のんきな父親ではなく、母親の方に株式投資を勧める。


給料が出ると、いつも俺を連れて、2人だけで美味しい物を食べに行った母。


子供時代に母親を亡くしたせいで、その幼少時は親戚に預けられたり、父親から厳しく育てられたらしく、大人になって自分でお金を稼ぐようになったら、美味しい物を沢山食べるのが夢だったらしい。


お陰で俺も、大分良い思いをさせて貰った。


その母に僅かでも恩返しするために、小学2年生の身ながら、不労所得の重要性を熱心に説いた。


今後15年くらい、毎月少しずつでも良いから、ある銘柄の株を買い続けてくれとお願いする。


その際、たとえ途中で証券会社の人間から別の銘柄を勧められても、執拗しつようにこれだけを買い続けて欲しいとも。


そして19○✕年直前に、一旦全部売ってくださいと教える。


2人で食事に行った際、その待ち時間を利用して何度も話した結果、最近の俺の豹変ひょうへんぶりに何かを感じていたらしい母は、やっとうなずいてくれた。


当時の株取引は、今のようにネットで簡単にできるようなものではなかった。


いちいち証券会社の支店まで出向き、懇意こんいの担当者ができた後なら電話で、注文を出す必要があったのだ。


面倒だし、小口の個人取引は軽く見られる傾向にもあったから、お金持ち以外はあまり利用しない場所だった。


だが俺は、その株が、15年後には十数倍にまで上がるだろう事を知っている。


年に20万円弱しか買わなくても、15年後、それが4000万円にはなるのだ。


バブルが弾けた後、それを基に底値状態の株を買えば、更に儲かる。


やり直す以前、新聞の株欄や金の時価に時折目を通しては、『何故買っておかなかったのか』と、毎回溜息をいていた俺の記憶を頼りに、それをメモに残しておく。


母がこれを売る頃には、自分は既にこの世にいない。


彼女が忘れないように、封書に入れて、『決して他人に見せず、大切に保管してください』と言って渡した。


それから間も無く、到頭着工中だった西本邸が完成する。


俺の第2の人生とも言うべき11年弱が、今、真に始まった。

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