第15話 告白

「いらっしゃーい!」


 現れたミサキが腕を広げる。僕は息を呑んだ。

 風呂上りなのか髪は濡れ、肌がほんのりと上気している。服装はキャミソールとホットパンツのみ。夏の部屋着だとしても、ちょっと露出が多すぎるんじゃないか。剥き出しの腕や脚、普段は主張の控えめな胸元にも目が行ってしまう。

 が、僕が一番驚いたのはミサキがカチューシャをつけていないことだった。いつも上げられている前髪が、今は輪郭を隠すように垂れている。どうしてだろう。それだけで、ミサキが別人のように見えた。


「ほら、持ってきたよ」


 努めて動揺を隠し、僕はノートを差し出す。


「ありがと」


 ミサキの笑みは、やはりミサキだった。夜空の下でも、太陽のような笑顔は健在だ。ノートを抱くミサキをじっと見つめる。今のミサキは、滅多に見られる姿じゃないだろう。今のうちに網膜に焼きつけておこう。

 僕の視線に気付いたミサキが、焦った様子で自分の姿を見下ろす。それから、顔を上げて僕を見る。


「なによ」


「なんでも」


 ミサキの肌は紅潮している。風呂上りにそんな格好じゃ夏でも湯冷めするかも。


「じゃ、僕はこれで。また明日」


「あ……ちょっとちょっと」


 体を反転させた僕の腕を掴み、ミサキは家のドアを指す。


「せっかく来たんだし、お茶でも飲んで言ったら?」


 予想外だったミサキのお誘いに、不覚にも素っ頓狂な声を上げてしまう。いま何時だと思ってるんだろう。こんな時間にお邪魔するのは家の人にも迷惑だし、早く帰らないと僕の家族も心配する。

 あー、でも。いや、どうしよう。

 正直なところ、せっかく誘ってくれているのにこのまま帰るのは少しもったいないと思う。深夜に女の子の部屋を訪れるという背徳感溢れる行為は実に魅力的だ。ミサキの部屋がどんなものなのかも興味がある。

 ミサキの意外にもひんやりとした手。意志の強そうな瞳は、僕をじっと見つめている。


「じゃあ、ちょっとだけ。お邪魔しようかな」


「そうこなくちゃ!」


 というわけでミサキの部屋に通してもらった僕は、まず冷房が効いていることに歓喜し、次に初めて入る女の子の部屋というものに感嘆した。まず最初に想ったのは、色々パステルカラーだということ。意表を突かれたのは、本棚に並んだ少女漫画の蔵書と、ベッドの上に群がる動物のぬいぐるみ。本当にミサキの部屋だろうか。一言で表すなら、らしくない。


「なんか失礼なこと考えてない?」


 ティーカップをちゃきちゃきと鳴らして部屋に入ってきたミサキ。


「考えてた」


「内容は?」


 ミサキのジトっとした視線は、実は嫌いじゃない。


「意外に女の子な部屋だなぁ」


「どんな部屋を想像してたのよ」


「性に関する本がたくさんあるものかと」


「あるわよ。見る?」


 あるのかよ。ベッドの下を指差したミサキに、僕はやれやれと首を振った。

 ミサキの淹れた紅茶から湯気が立ち上る。しみじみ、冷房の効いた部屋でよかった。

 両手で包むようにしてカップを口へ運ぶミサキ。

 うーん。なんだろうこの違和感。目の前の少女は間違いなく僕の知っているミサキなのに、でもミサキでないような。


「なによ。さっきからじろじろ見て」


「なんか、いつもと雰囲気違うなって」


「そ? カチューシャが無いからかしら」


 ミサキはにへらと笑う。


「具体的にどう違う?」


「そう聞かれると言葉にしづらいなぁ」


 しようと思えば出来るけど、したくない。初対面ぶりにミサキに女を感じました。流石にひどい物言いだろう。


「そういえば」


 僕は紅茶で喉を潤して、


「ミサキ、生徒会に目つけられてるみたいだけど」


「ああ」


 ミサキの溜息。


「まったく迷惑な話よね。あたしは潔白だってのに。あ、処女って意味じゃないわよ。いやまあ、あたしは処女だけど」


 そうなんだ。


「大体、校内恋愛厳禁ってのが間違ってるわよ。性欲を抑圧するほうがよっぽど不健全だわ」


 またそうやって恋愛と性欲を直結させたがる。欲望に正直なのはいいけど、節操はもっと大切に。


「風紀は保てても、それで生徒がストレス溜めちゃったら元も子もないっての。そう思わない?」


「同意できなくもないよ」


 この場合のストレスというのは性欲のことなんだろうな。

 カチャリ。ミサキがカップを置く。抱えた膝に顎を乗せて、紅茶を見つめる。

 無表情になったミサキ。時折眉がぴくぴく動く。沈黙。ミサキが何も言わないので、僕も言うことが無くなった。


「あたしね、好きな人がいるんだ」


 そんな言葉が、ミサキの口がら飛び出した。

 カップを置いていた自分に感謝する。もしこの手にカップがあれば、服とカーペットを汚していたに違いない。


「入試の日、あたし消しゴム忘れちゃってね。しかも気付いたのが試験が始まる直前よ。あれは柄にもなく焦ったわ」


 弱々しく、けどどこか楽しそうに笑う。


「よほど取り乱してたんでしょうね。隣にいた男の子が、見るに見かねてって感じで消しゴムをくれたの。自分のやつを半分にちぎって、大きい方をあたしに。あれは嬉しかったなー。このあたしをキュンとさせるなんて、やるなって思ったもんよ。彼のおかげで無事合格できたし」


 ミサキは目を閉じて、思い出を手繰っている。


「それだけ、それだけよ? 自分でもびっくりだった。消しゴムをくれた、たったそれだけで、あたしはその人を好きになってたんだから。だから、あたしは決めた。入学したら真っ先にその人を探して、絶対お近づきになってやるって。校内恋愛禁止なんて、そんなの関係ない。あたしはその人が好き。その人の彼女になりたいって思ってる」


 ミサキのぱっちりとした瞳が、何か強い意志を孕んで、僕を捉えた。


「マサアキ。この話を聞いて、どう思う?」


 絶句する、という言葉の意味を僕は身をもって思い知った。

 どうって言われても。高校生なら誰しも好きな異性くらいいるだろう。別におかしいことじゃないし、校内恋愛禁止の高校でも隠れて交際しているカップルは多からずいると聞く。

 ミサキが告白すべきか否かを僕に尋ねているのなら、相談する相手を間違っている。恋愛に疎い僕からは、拙いアドバイスすらできる自信が無い。

 僕に出来るのは、友人としてミサキを応援することだけだ。


「やめときなよ」


 内心、ぎょっとした。


「うちの学校厳しいし、ばれたら成績に響くかもしれないし。ミサキに負担がかかるだけなんじゃないかな。そこまでしてまで、恋人をつくるメリットがあるとは思えない」


 違う。僕が言いたいのはこんなことじゃなくて。


「だから、やめときなよ」


 自分の口が勝手に動いている。誰かが、僕に思ってもないことを喋らせている。そうとしか考えられない。


「そっか」


 ミサキはぎゅっと膝を抱きしめる。


「ダメ……なのね」


 俯いて黙り込むミサキ。

 何も言えなかった。

 冷房の音がやけに大きい。ミサキの押し殺した息遣いが、それに混じる。

 黙り込むミサキを見ないように、僕は時計を眺めていた。まさか僕の言葉がこんなにもミサキを落ち込ませるとは思わなかった。

 しかも、あんな嘘で。

 言い直したい。けど、今更何を言えばいいんだ。こんな空気の中で前言を撤回するのは、僕には荷が重すぎる。

 カップの湯気はいつの間にか消えていた。温くなった紅茶を、一気に喉に流し込む。


「帰るよ」


 部屋を出て行こうとした僕の背中に、


「待って」


 ミサキのか細い声が突き刺さった。


「さっき言ったこと。本当に、マサアキの本音なのよね」


「それは……」


 本音じゃない、と思う。僕は友人として、ミサキの恋が成就することを願ってる。


「ごめん。やっぱり今のナシ」


 ミサキが言った。


「忘れて。未練がましかった」


「僕は」


 ミサキに背を向けたまま。


「じゃあ僕も、さっきのはナシにする」


「……え?」


「本当は、ミサキの恋が上手くいけばいいと思ってる。応援したいと思ってる」


「マサアキ」


「だからさっきのはナシで。僕は、ミサキの恋を応援するよ。力になれるとは思えないけどね」


「ちょ、ちょっと待って」


 ミサキの声が跳ねる。


「マサアキ、もしかしてあんた。憶えてないの?」


 憶えてないとは。


「あたしに消しゴムくれたの、マサアキなのよ?」


 僕が? ミサキに消しゴムをあげた?

 時計の音が、いやに大きく響く。一定のリズムで聞こえる秒針の音が、僕の頭を回転させる。

 なるほど、合点がいった。そういうことだったのか。だからミサキは、僕にこんなことを話したのか。

 振り向くと、唖然としたミサキと目が合った。僕はミサキより一足早く、状況を把握できたようだった。


「僕じゃない」


 否定するのは、心が痛いけど。


「ミサキに消しゴムをあげたのは、僕じゃないよ」


 けれど否定しないといけない。ミサキは誤解している。


「うそ」


 本当だ。


「うそよ。あたしが間違えるはずない。あれは絶対、マサアキだった」


 人の記憶は曖昧だ。入試で一度見ただけの顔を、入学時にはっきり憶えている方が不思議だ。ミサキは、似た顔を僕と勘違いしただけだろう。

 それは僕じゃない。僕のはずがない。


「ミサキ。僕はその場にいなかったんだ。僕は推薦入学で、一般入試とは試験日が違う。だから、ミサキと同じ会場には行ってないんだ」


 ミサキの肩が大きく震えた。ゆるゆると立ち上がり、危うい足取りのまま、僕のTシャツを掴む。


「ほんと? ウソついてたら、承知しないわよ」


 僕は頷く。

 震えるか細い声。ミサキのこんな声は聞いたことがなかった。そして、そうさせているのは僕だ。それが、辛い。


「そっか」


 気丈で活発なはずのミサキが、今は見る影もない。力無く俯く彼女の口だけが、小さく開いている。

 彼女を傷付けた。そんな僕に何が出来るだろうか。彼女を慰めることも、触れることすら許されない。


「引き留めちゃって、ごめん」


 シャツから白い手が離れる。


「うん」


 これ以上ここにはいられない。ミサキに背を向けて、僕は部屋を出た。

 ミサキの誤解から、僕達の関係は始まった。想い人を僕だと勘違いして、だから話しかけてくれた。友達にもなれた。

 それも今日で終わりかな。終わりだろう。

 これでいい。偽りの恋を長引かせるよりかはずっと。



 視力が落ちたのかしれない。

 玄関口がぼやけていた。

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