七夕の夜に
鈴木怜
七夕の夜に
地元を出て就職して数年と三ヶ月経った今、思うことがある。それは、一人暮らしが想像以上にやることがないということだ。
いっそのことどこか友人か仲の良い同僚の家にでも向かい、くだらない話を肴にだらだらと飲み交わしたいのだが、世紀が変わって二十年、世間はすっかり自宅に籠ることが推奨されるようになり、どうも出ることが憚られるようになった。
そうなるとどうしてもやることがなくなってしまう。テレビではおうち時間を活かそうなどといった音声が流れてくるが、梅雨の蒸し暑さのなかでは新しいことなど何も始める気分にならなかった。
いつしか私は夜に一人、ベランダで煙草を吸うようになっていた。アパートによくある各部屋の仕切りと仕切りの間、距離にして数メートルもないような、そんな空間で煙草の火と会話するようになっていった。
「……いかんね、どうも今日は気分がのらない」
こんなことを考えながら吸うようになったのはいつだったろうか。考えるのも億劫なほど前だったことだけは分かる。しかしそれ以上は記憶が曖昧だ。
心まで、だんだんと死んでいっているのかもしれない。
そんなことを思いながら火を眺めた。
そんなときだった。
隣のベランダからもぞもぞと音がした。
咄嗟に火を消す。煙草が禁止だったかどうかはあまりよく覚えていないが、もし他人がいるのならそれは色々とトラブルになるかもしれないという思いがあった。
「うんしょ……。う、んしょ」
幼い声だった。日付が変わるまで残り二時間ほど。別に起きていても不思議はないが、隣に子供がいること自体知らなかった私は、息を飲むことしかできなかった。
そうして、声のする方に頭を向ける。
白い筒のようなものがベランダの仕切りから顔を出した。
「坊主、一体なんだそれは」
「うわっ」
思わず聞く声が出た。何日も声を出していなかったからか、ひどく低い声だった。筒の主は驚いたらしく、尻餅をつく音がした。そんな気がした。
「いるなら先に言っといてよおじさん」
「おじさッ、……」
否定できるような気がしなかった。外見がどうなっているかも分からないのだろう。
それを抜きにしても、自分の声の低さにすら驚いたのだ。そう思われても仕方がなかった。
「……ま、いいわ。坊主、今からなにしようとしてるのかおっちゃんに教えてくれ」
「これのこと言ってるの?」
白い筒がほんの少しだけ揺れた。
「そうだ」
「これは望遠鏡だよ、おっちゃん」
楽しそうな声がした。
「望遠鏡?」
「おじさん、望遠鏡も知らないの?」
「んなこたぁねぇ! あれだろ、星を見るやつだろ」
「あったりぃ」
おもちゃを前にしてわくわくしているような声だった。
なぜかそれがとてもまぶしく聞こえた。
「星ねぇ……」
「今日は七夕なんだよ! 織姫と彦星がホントに出会ってるのか確かめるんだ」
「織姫と彦星?」
頭を天へと向ける。彼らは今年は出会っているのだろうかと考えながら。
「……おお」
今まで、空を眺めながら煙草を吸ってきたことがあったか思い出せない自分にとって、その空はあまりにも眩しすぎた。
梅雨の合間だというのに空は見事に晴れ、天の川が空に寝そべっている。星々は思い思いに輝き、闇夜とのコントラストはやけにくっきりしているように見えた。
煙草の煙は、こんなものも隠していたのだろうか。いや、曇っていたのは己の目だったのだろう。煙草はそのサインにすぎなかったのかもしれない。
なんだか笑えてきた。
「ああ、いい眺めだ」
いつしかそんな言葉が口から出ていた。
「坊主、二人は見えたか」
その声は先ほどよりもいくらか弾んでいるような気がした。
「うーん、星座盤見ながら探してるけど全然わっかんないや。おじさんは?」
「残念ながら織姫も彦星も見えねぇ。でもな、なんかこの眺めは嫌いじゃない」
星座盤などという懐かしい響きも混じるが、隣の声の主はそれからしばらくうんうん唸っていた。
「ダメだ。全然わかんない。なんか残念」
諦めたのか、望遠鏡が揺れる。どうやら失敗に終わったらしい。思わず呼び止めた。
「坊主、来年なら分かるかも知れねぇぜ?」
「……そうかな?」
「おうとも。ただ、それまでに星を探せるようになってなきゃいけねぇだろ」
「それは、そうかも」
「来月。来月だ。ペルセウス座流星群がやってくる。とびきりすげぇ流星群だ。それを見てみな」
「流星群!?」
「おうよ」
「かっこいい?」
「そりゃそうとも」
じゃそうする。ありがと、と幼い声は望遠鏡を片付けて戻っていった。
一人残される。忘れないうちに携帯を取り出した。
目的は通販サイト。望遠鏡のページだ。
躊躇うことなく、購入のボタンを押した。
七夕の夜に 鈴木怜 @Day_of_Pleasure
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