4.彼のご帰宅
***
「……こんなもんかな」
ジルーナはテーブルに並べた手料理を眺めて頷いた。今日も我ながら中々の出来だ。
まもなく時刻は十八時半。夫のヴァンが狙い澄ましたかのように帰ってくる時間である。分身とテレポートを駆使する彼に遅刻という概念はない。こちらもその時間に合わせてしっかりと主婦の勤めを果たしておかねばならない。
ジルーナは帰り際の夫の顔が好きだった。「会えて嬉しい」とばかりに細めた目と、やっと安心できると緩めた頬。好意を剥き出しにしてやってくる様は良く懐いた大型犬のようで、ついこちらもよしよしと撫でてしまいたくなる。
────しかし、本日は様子がおかしかった。
「た、ただいま……」
顔面蒼白で現れた彼は干からびたゾンビみたいな声を出して壁にもたれかかる。やがて頭を抱えてその場にしゃがみ込んだ。
「ど、どうしたの⁉︎」
一目で異常事態だと分かった。ジルーナは大慌てで駆け寄って彼の隣に膝をついた。大怪我でもしているのではないかと心配になり彼を観察する。しかし見たところ傷らしきものはなく、ただただ生きることに絶望したかのように暗澹とした表情を浮かべている。
やがて彼はゆっくりと重そうな口を開いた。
「とんでもないアンチに会ってな……。ボロクソに言われた……」
「そ、そりゃ大変だ……」
彼は常に国内で批判の的である。妻である自分の分まで彼が矢面に立ってくれている状況だ。しかし心身ともにタフな彼がこれほど憔悴するのは珍しい。きっとよっぽど悪辣非道な化け物に出会ったのだろう。
「私が引っ叩いてこようか?」
「い、いい。ややこしくなる」
結構本気で提案してみたもののあっさり制された。まあそんなことしたら自分が妻であることがバレてしまうかもしれないし、諸事情を抜きにしても普通に犯罪だ。
であれば他の方法だ。彼の励まし方なんてこれに決まっている。
「かわいそうに……。尻尾触る?」
「い、今はいい……」
「うわっ! こりゃ相当だね……!」
普段の彼なら「尻尾」のPの音が聞こえたあたりで尻尾に手が伸びているところだ。間違いなく、ジルーナが見てきた中で今の彼が最も凹んでいると見ていい。近頃ミオの遺伝子データの件で落胆していたことも重なり、普段なら刺さらないような棘も心の奥まで貫いてしまったのだろう。
ジルーナは妻としてそっと彼に寄り添うと決めた。どこで何を言われてきたのかも聞くまい。今はただ、彼が一番安らげるような環境を整えてあげよう。
「立てる? ご飯食べよっか?」
「すまん、食欲がない……」
「そ、そっか」
「悪いな……せっかく作ってくれたのに」
「いいのいいの! ぜーんぶヴァンがしたいようにしようね」
ジルーナは彼が気に病まないように精一杯笑顔で答える。食欲がないというのも実に珍しい。彼は日頃人の何倍もの量を食べるのに。
「ジル、本当に申し訳ないんだが……、しばらく一人になってもいいか? ご飯は明日いただこう。あ、いや、全部食べてもらってもいい。本当にすまない……」
「分かった! 何も気にしないでいいし、気が変わったらいつでも呼んでね。何でもしてあげるからさ」
「……ありがとう」
彼は掠れた声でそう言い残し、書斎に足を向けた。……どうにか元気付けてあげられないものだろうか。今はただそっとしておくしかできなさそうだ。
そして先ほどせっせと作った料理はどうしようか。食べていいと言われても大半は彼の分だ。ラップしてしまっておくにしても、日持ちしないお魚系はできるだけ今日のうちに処理してしまいたい。
「……あ」
ふと、アイディアが浮かぶ。それは少し、躊躇いを伴うものだったが、こんな機会だからこそ実行しておくべきことのように思えた。
ジルーナは自室のドアを出て廊下を進む。目指すのは数ヶ月前にこの家にやってきた後輩妻・ミオの部屋だ。あちらに帰ったヴァンの分身も既に書斎に向かっただろう。
ノックをして数秒後、スラリと背の高い彼女が少し開いたドアの隙間から顔を覗かせた。
「ジル……? どうしたの?」
彼女は不思議そうに尋ねる。普段はそれぞれ自室で過ごしている時間だ。
「ヴァン辛そうだったね」
「そうねぇ。ヴァンさんをあそこまで追い詰めるなんて大したものだわぁ……。何かできればいいんだけどぉ……」
二人の間には少し重い空気が漂っていた。それは単に夫が緊急事態だからではない。
二人は二週間ほど前に、初めての大喧嘩を経験した。ミオがヴァンにきのこを食べさせていた件を巡って、互いに譲れぬ言い争いに発展してしまったのだ。双方相手の言い分を理解し、どちらも間違ってはいなかったと確認している。相手の考えを尊重し、片方が悪者になるような形にはせず、互いに自分の立場を貫こうと二人で決めた。その結末にはジルーナも、おそらくミオも満足している。
しかしまだ二人はどこかギクシャクしていた。行動を共にする機会は減り、あまり会話もできていない。────だからこそ、この状況はある意味好機だとジルーナは踏んだ。
「……ねぇ、ご飯余っちゃったから一緒に食べない?」
「!」
ミオはハッと目を見開いたあと、深い息の混ざった声を漏らす。
「……そうねぇ。せっかくならテラスでどう?♡」
彼女は蠱惑的に微笑んだ。意図は伝わったようだ。ジルーナは、今一度彼女との仲を作り直したかった。あの一件までは夫が寂しがるくらい仲良く過ごしていたのだ。妻同士でそんな関係に至るのは奇妙なのかもしれないが、それが心地良かった。きっと彼女も同じことを考えてくれているとも思う。
「準備してくるね」
「うん♡ あ、お姉さん今日のお料理はあんまり自信ないの。ジルのを二人で食べる感じでいーい?」
「いいよ。それでも余るくらいあるし」
「私はテラスのテーブル綺麗にしとくわねぇ」
「はーい」
役割分担を決め、ジルーナは自室へと引き返す。その背中に向けて、
「ジル」
切実に熱のこもった彼女の声が飛ぶ。ジルーナは思わず足を止めて振り返る。普段は人を喰ったように含み笑いを浮かべている彼女が、訴えかけるような真剣な瞳でジルーナを見つめていた。
「……二人でヴァンさんを支えましょ?」
彼女は自分で告げた言葉を噛み締めるように、小さく一つ頷いた。
「……うん」
ジルーナは決意を込めて彼女の言葉を正面から受け止めた。ホッとしたのか、二人ともやがて同時に微笑んだ。共に彼の支えとなり、この苦難を乗り越えるという意思だけは共有できている。それさえあれば、もうきっと大丈夫だ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます