5.ビースト

 妻が、戦地のど真ん中に立つ。


「何言ってるんだ! それはダメだ!」


 ヴァンは当然否定する。しかしユウノは既に腹を括っていた。


「アタシたちがきっかけなんだろ? じゃあお前だけに頼ってられるかよ。アタシにも何かやらせろ」

「いや、君を巻き込むわけには────」

「巻き込めって言ってんだよ。それに、別に危なくねぇだろ? ヴァンが守ってくれんだからさ」

「……」


 全世界の総攻撃を防げるような超硬度巨大バリアを構築できるヴァンである。ユウノ一人守るサイズであればこの場にある全ての兵器を食らってもビクともしない。彼女の生命は絶対に保障できる。


「ま、……誰も撃たねぇよ。勘だけど」


 ユウノの勘は、よく当たる。


「ヴァン、迷ってる場合じゃねえぞ。他に手がないならもうやるしかねえ」


 確かに一秒でも早く動き出さなければ。有効策であることは事実。そして夫婦として共に責任を負いたいという彼女の気持ちは尊重してあげたい。────ヴァンは苦渋の決断をする。


「……少しでも危なくなったらすぐ避難させるからな」

「細かいことは任せる。信じてるぜ?」

「ああ」


 ヴァンは魔法で姿を隠し、全力のバリアを展開しながら彼女を連れてテレポートする。国境に沿うように設けられた高さ三メートルほどの柵の上に、彼女を立たせた。ヴァン[ユウノ]は四人に分身し、盾として彼女を囲う。


「おーい!」


 ユウノは声を張り上げて存在をアピールする。


 兵たちは徐々にユウノの存在に気づき、驚きと困惑が軍の中に広がっていった。一体彼女は誰でいつの間にどうやってなぜ現れたのか。疑問は無数にあることだろう。しかし意味不明故に誰も彼女を攻撃しようという発想にはならないようだ。


「もうやめとけー! 帰って飯食って寝ろー!」


 ユウノはまずネイルド共和国側に語りかけ、


「そっちもだぞー! もうやめようぜこんなことー!」


 続いてギリザナ軍にも叫んだ。その間にヴァンは二十八万の分身を生み出し、透明になり、両軍の兵士一人につき二人がそばで待機する。ヴァン[ユウノ]は彼女の猫耳に向けて指示を出す。


「できるだけ多くの兵の目をこっちに向けたい。もう少し続けてくれるか」

「オッケー。……でも疲れんなぁコレ。腹減ってきたぜ」


 この状況で随分余裕があるものだ。それは彼女自身の胆力の賜物であるのと同時に、ヴァンのことを全面的に信頼してくれているからでもあるのだろう。


 ユウノは声を上げ続ける。その成果あって両軍の半分ほどがユウノに注目していた。だがまだ足りない。可能であれば全員がユウノに気を取られて硬直しているという状況まで持ち込みたい。


「う、うぅ……。まだやんのか?」

「頼む。もう少しだ」


 ユウノに疲労が見え始める。可哀想だがもうひと頑張りしてもらわねば。ヴァン[ユウノ]は二十八万のヴァンからの決行の合図を今か今かと待っていた。あと少し。あと少しだ。祈るように呟き、集中してその時を待つ。そして作戦に没入するあまり、────ヴァンは一つのリスクを失念していた。


「腹減った……し、死ぬぅ……!」


 ユウノは心細そうに声を震わせる。その様子を見て、ヴァンの全身に悪寒が走った。


「⁉︎ ま、マズい! ビーストモードか⁉︎」


 ────通称・ビーストモード。ユウノは空腹が極限に達すると錯乱状態に陥るという悪癖があった。この状態の彼女はアンコントローラブルで、ヴァンの力を持ってしても手を焼く。


「メシ……どこかに……メシは……?」

「お、落ち着けユウノ……! もう少ししたらすぐに!」

「ま、待てない……っ!」


 次の瞬間ユウノは高く飛び上がる。彼女を囲っていた分身たちを悠々と飛び越え、空中で一回転してネイルド共和国側に着地した。


「ユ、ユウノ⁉︎ どこに行く気だ⁉︎」


 もはや彼女に理性はない。ヴァンの問いかけも虚しく、ユウノは共和国の兵たちの元へと猛ダッシュしていた。おそらく誰かが食料を持っているのではと踏んだのだろう。そして問答無用で奪い取るつもりだ。……それは流石に撃たれる! 洒落にならない!


「こんな時に……! くそっ、なんて速さだ!」


 この状態の彼女には走っても追いつけない。ヴァンは慌ててテレポートで先回りする。さっさと自宅へ連れて帰りたいところだが、彼女の姿が消えてしまったらせっかく注目を集めたことが無駄になってしまう。どうにかこの場で押さえつけるしかない。


 猛烈な勢いで迫り来るユウノに、ヴァンは必死で語りかけた。こちらは透明化を解除できないので武器は声だけだ。


「ユウノ! 俺がわかるか⁉︎ 君の夫のヴァンだ!」


 まずは意識確認から。ビーストモードの彼女とはそんなコミュニケーションになる。まさか妻に対して今更自己紹介をすることになるとは思わなかった。


「ヴァン……⁉︎ アタシ……ヴァン……好き……」

「お、おお……っ!」


 こんな錯乱状態でも彼女の心の中にはまだヴァンがいるようだ。しかも愛されているらしい。ヴァンもヴァンで妻をありのままを愛している。心優しきゴーレムのような喋り方に成り果てていたとしてもだ。


「頼むから止まってくれ!」

「うぅ……だって……食べなきゃ……死ぬぅ……!」

「な、泣いてるのか……⁉︎ すまん、ユウノ! 許してくれ……!」


 猛然とダッシュするユウノ。この食いしん坊っぷりは愛しいが愛でるのは後。今はどうにか優しく抱き止めねば。ヴァンは飛行魔法で少しだけ浮遊し、後ろに下がって衝撃を受け流しながら彼女を捕まえようとした。


「邪魔……するな……っ!」

「……⁉︎」


 気づけばヴァンは空を向いていた。ユウノにぶん投げられたのだ。こちらの姿は見えていないはずなのに完璧なタイミングで。恐るべき野生の勘。細身の身体からは想像もつかない素早さとパワー。猫科の猛獣が如くしなやかで引き締まった肉体。


「くっ……⁉︎」


 ヴァンは背中を地面に打ち付ける寸前にテレポートして難を逃れる。世界最強の男を軽々と投げるとは恐ろしい妻だ。これはもはや怪我をさせずに腕力で対抗するのは不可能な気がする。もっと根本的な対策を取らねば。


(こちらヴァン[ユウノ]! 誰か食料を持ってないか⁉︎)


 ヴァンは他の分身たちに要請する。すると、


(こちらヴァン[ヒューネット]。パンで良ければあるが……、どうした?)

(取りに行く!)


 ヴァン[ユウノ]は分身を増やしてヴァン[ヒューネット]の元へと飛んでいった。ヴァン[ヒューネット]とヒューネットは海辺に設置された木製のテーブルの上に大量のパンを並べている。こんな時にのんびりデートとは良い気なもんである。……だが助かった。


「ビーストモードだ!」


 ヴァン[ユウノ]が告げると二人は途端に血相を変えた。緊急事態であることは一発で伝わったようだ。


「これとこれとこれはいいな⁉︎」


 ヴァン[ユウノ]はヒューネットが食べそうにないものを適当にチョイスする。多分どっちがどれを食べるかドラフト大会でも開いていたのだろう。いい気なもんだ。


「す、すごいっ! ヒューが選んでないやつを的確にっ!」

「まあな!」


 妻の好みは熟知している。それが愛妻家のヴァン・スナキアである。


「ヴァンっ! これもいいよっ!」


 ヒューネットはメロンパンを差し出した。ヴァン[ヒューネット]が心配そうに問いかける。


「そ、それ一番食べたいやつだろ?」

「いいのいいのっ。美味しいからユウノにも食べてもらおっ!」

「「天使!」」

「ふふ〜んっ! でも、また連れてってねっ!」


 ヴァン[ユウノ]はパンを受け取り、即座に戦地へと舞い戻った。確かこのパンはギリザナの店で売っているものだ。ヒューネットをまた連れて行くためにも、ギリザナの戦争は絶対に止めねばならない。


「ユウノ! これを食べてくれ!」

「!」


 ユウノの眼前にパンを差し出すと、彼女は途端に足を止めてかぶりついた。気をつけないと指まで食べられそうな勢いだ。少しでも何かお腹に入れたという安心感からか、ユウノは徐々に意識を取り戻していった。


「あ、ありがとな……! 死ぬとこだったぜ……!」

「色んな意味でな……!」


 ひとまず危機は乗り越えた。そして、


「お陰で制圧完了だ」

「え⁉︎ いつの間に⁉︎」


 結果的にビーストモードは非常に効果的だった。一連の騒動は兵たちの注目を一気に集めていたのだ。二十八万のヴァンたちは兵隊たちを背後から押さえ込み、武器を奪い、この場にいる全員を戦闘不能状態に陥らせた。暴れ回ったユウノと、そのユウノを落ち着かせてくれたヒューネットの合わせ技だ。


「帰ろう……」

「おお。な、なんかごめんな……」


 ヴァンはユウノを連れて別荘にテレポートする。ひとまず開戦は阻止できた。だがいつまで保つか。時間が経てば他の場所でも戦闘が始まってしまうかもしれない。これだけの大規模分身をする余力は流石にもう残っていない。


 ヴァンが邪魔をすれば戦おうとしても戦えない。この実績があるうちに両国の首脳に会い、再び停戦の交渉をしなければ。ヴァンは分身を増やし、先ほど首脳と会った施設へと飛んでいく。


「……⁉︎」


 そこには誰もいなかった。ヴァンに居場所を特定されたことを受け、別の隠れ家に移動してしまったのだ。こうなったらまた大量の分身で街中を探すしかない。せいぜい十五分しか経っていないしそう遠くには行っていないはず。数万人がかりで全部の建物に侵入すれば────。


(だ、誰か応援を……)


 しかし、ヴァンの魔力はついに枯渇しつつあった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る