2.ヴァンの奥義魔法

 ***


 スナキア邸。ヴァンの書斎。

 ヴァンが軍で演習の準備をしているのと全く同時刻────にも関わらず、ヴァンは自宅にも居た。


「ヴァン。いい?」


 デスクで書類仕事と格闘していたヴァンの耳にノックの音と妻の声が届く。


「どうぞ」


 ヴァンが入り口のドア目掛けて応答すると、第一夫人のジルーナが遠慮がちに入室した。


 白い肌に映える朱色の唇。清廉さと華やかさを兼ね揃えたアマリリスのような美しい顔立ち。いつものようにゆるく巻いた長い髪を頭の右後ろで一つに括っている。今日も今日とて可愛いが過ぎる。


「ノックなんてしなくていいよジル。いつでも入ってきてくれ」


 ヴァンは書類を置き、椅子を回してジルーナの方に体を向ける。ジルーナは背中を丸め、足音を立てないようにそろそろとデスクに歩み寄った。


「だってお仕事中なんでしょ? 邪魔したくないもん。ノックは礼儀。そして返事をもらうまでがノックだよ」

「……いい言葉だな。早速他の分身にも共有しておこう」


 ────分身魔法。ヴァンの奥義とも呼べる魔法である。


 この魔法を活用し、ヴァンはそこら中に何人も存在していた。全員が独立した思考と実体を持つ本物のヴァンである。


 分身同士は随時魔法で情報を送り合い、記憶を同期している。ちょうどこちらのヴァンに、軍のヴァンからドレイク大将の侵入が報告された。ズカズカとテントに踏み込んできた彼に「返事をもらうまでがノック」というジルーナの名言を放ってやったらしい。


 この分身魔法は、八人の妻がいるという複雑な生活を何とか成立させている要因でもある。妻が八人いるならヴァンも八人になればいいのだ。


「ジル、何か困りごとか? 分身増やすぞ」

「ううん。そういう訳じゃないんだけど。そろそろコーヒーがないんじゃないかと思ったんだ。……やっぱりだったね」


 ジルーナは空になったコーヒーポットに視線を送った。


「何でもお見通しだな」

「まあね。ちょっと待っててね」


 ジルーナは満足げに微笑を浮かべる。八人の妻の中で最も付き合い長い第一夫人ジルーナはヴァンの生態を熟知していた。よく気づき、甲斐甲斐しい頼れる妻である。彼女はケトルを手に取って蛇口に向かい、水を注いだ。


「今日は何のお仕事してるの?」

「こっちの俺は書類仕事を色々とな。軍の方は────あー……」

「ん? ……まさかあのリンチ? 全員対ヴァンってやつ」

「あ、ああ。よくわかったな」

「だって今隠そうとしたもん。……ちゃんと言ってよね。心配なんだからさ」


 ジルーナは不満そうにこめかみに垂れる縦巻きの毛束を指でくるくるとねじった。……こうなるから隠しておきたかったのに。察しの良い彼女には少し言い淀んだだけでバレてしまう。


「いつも何ともないだろ?」

「そうだけどさ! 心配なものは心配なんだよ!」


 ジルーナは唇をキュッと結んで怒りを表明する。しかし、


(え……? 怒っても可愛いだけだぞ……?)


 ヴァンには全く響かなかった。ヴァンは極度の愛妻家なのである。


「……ジル、ここ来てくれ」


 ヴァンは自分の脚を指差す。ジルーナは「何急に?」と不思議そうな表情を見せたものの、素直にトコトコ歩み寄って来た。彼女は足を開き、ヴァンと対面するように太ももに座る。ヴァンは彼女の背中に腕を回して上半身を支えた。


「ちゃんと無事に帰るよ。安心してくれ」

「ほんとに? 傷一つなく元気で帰ってきてね?」


 ジルーナは人差し指を立てる。傷一つなく。ヴァンは演習地にいる自分から報告のあった賭けを思い出し、苦笑いした。


「約束する。こんなに可愛い妻が待っててくれるんだからな」


 ヴァンはジルーナを強く抱きしめた。彼女は嬉しそうなホッとしたような笑い声を漏らし、ヴァンの首に腕を巻き付ける。無事で帰るも何もすでに家にも居て妻とイチャイチャしているのだから、分身とは実に便利なものである。


 ────せっかくの機会だ。ヴァンはここぞとばかりに、彼女の身体の中で一番好きな部分に触れた。


「……ちょっとヴァン。尻尾」

「いいだろ?」


 ヴァンは彼女を宥めるように頭を撫で、ついでにさりげなく猫耳にも触れた。


 猫耳と尻尾。────これがビースティアと呼ばれる種族の特徴である。そしてヴァンは、異常なまでの猫耳・尻尾フェチだ。だって愛し過ぎる。


 猫耳は恥ずかしがるとしゅんと垂れ、怒るとツンと立つ。話しかければ一言も漏らすまいと懸命にこちらに向けてくる。一つ一つの動きが暴力的に愛らしい。


 尻尾も尻尾で脅威的である。すまし顔をしているのに尻尾が嬉しそうに揺れているところなんて見たら発狂する。根元に近づくほど刺激に敏感らしく、生え際を触らせてもらえた時なんて達成感で爆死しそうになる。


 ヴァンのフェチは凄まじい。偏愛が極まり過ぎて、もはや猫耳や尻尾を持たないただの人間やファクターの顔はよく分からないという異次元に達していた。美醜の判断もつかなければ性別すら判断できないことまである。ビースティア以外の人類は別の生き物のように感じるのだ。仮にメスたちが全裸で群れをなして走ってこようとインパラの群れを見たときと同じ気持ちになるだけだ。


「み、耳食べないでよ。くすぐったいじゃんか……」

「じゃあもっと抵抗したらどうだ?」


 ヴァンは挑発気味に笑ってみる。しかしジルーナはただヴァンの鎖骨のあたりに顔を埋めるのみ。ヴァンは「触り方が上手過ぎるのでつい身を預けてしまう」との評価を頂いていた。今まで散々撫でさせてもらった成果である。勢いに乗り、ヴァンは果敢に尻尾も攻めることにした。人差し指の腹でそっと、根元に向けて優しく撫で上げる。


「ん……♡ も、もうっ。始まっちゃうでしょ」

「そのつもりだ……!」

「夜まで我慢しなさい。お仕事中なんだからさ」


 ジルーナはヴァンの体から顔を離し、咎めるように唇を尖らせた。


「仕事なんて分身がやればいいんだ」

「無駄に分身しないの。お腹空くんでしょそれ?」

「うっ」


 分身にはやたらと空腹になるという欠点がある。利益に比べれば些細なものではあるが、ヴァンのために料理をしてくれる妻たちの負担を増やしてしまうのは忍びない。ヴァンは断腸の思いで昂った気持ちを抑え込むことにした。


「……もう。昨日のじゃ物足りなかった? いつもすごく頑張ってると思うのですが」


 ジルーナは心配そうにヴァンの顔を覗き込んだ。健気で尽くすタイプの彼女としてはこのタイミングで張り切られるのは若干不本意らしい。


「そ、そういうわけじゃ……。ただ俺がジルを好き過ぎるだけだ」

「そっか。じゃあ仕方ないね」


 ジルーナは目を細めてクシャッと笑った。その笑顔はヴァンが今まで一万回は見たものであり、一万一回目を求めてやまないものだ。ヴァンはカロリーとは別にこれを摂取しなければ死ぬ体質である。


 仕方ないのであれば続行も許されるだろうと鼻息を荒くしたその時、


「……!」


 軍の演習地にいる自分から不可解な連絡が届いた。思わず眉を顰めてしまい、


「どうしたの?」


 ジルーナにも異変を悟られる。……この会話の流れで告げるのは若干申し訳ない事実をお伝えしなければならない。


「大量に分身することになった」

「え?」


 平和な家庭とはうってかわって、軍では異常事態が起きていた。

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