21.ヴァン、覚醒の時
***
二人が入籍した翌朝。
七時にセットしたアラームが鳴る三十秒前にヴァンは目を覚ました。狙い通りだ。できるできると念じれば案外できるものだ。ヴァンは目覚まし時計を操作してもう音を出さないように設定を変える。そして秒針の動きを観察。やがて七時きっかりを迎える。
「ジル、朝だよ」
ヴァンは隣で眠るジルーナの頭を撫でる。機械に騒音で乱暴に起こされるのではなくそっと起こす。妻をうんざりするほど大事にする計画はすでに始動しているのだ。
「……ん、んん……」
ジルーナは少しずつ目を開いていく。ヴァンがその瞳を覗き込むと、ある瞬間ジルーナはギョッと体を凝らせて掛け布団を掴み、顔の大部分を覆い隠した。
「ど、どうした?」
彼女はジトっとした視線をヴァンに送りながら息混じりのか細い声を漏らした。
「ヴァンは……えっちだ」
「……ん?」
「ヴァンはえっちな人だったんだ……」
熱を出して寝込んでいる子どものように顔を紅潮させて、ヴァンを咎めるような目を向ける。昨夜のことを思い出しているらしい。冷静に振り返ると少し恥ずかしくなるのはヴァンも少し分かる。
「あれじゃ尻尾も耳も削れて無くなっちゃうよ……」
「そ、それは困る……!」
ヴァンは思う存分猫耳と尻尾を触るという夢をついに叶えたのだった。どうやらやり過ぎてしまったのかもしれない。ヴァンは恐る恐る問いかける。
「ひ、引いたか?」
「ううん。……ハハ、やっぱりヴァンもただの男の子なんだなって、嬉しかったよ」
「な、何て寛大な妻なんだ……!」
ヴァンは頭を抱え、新妻の偉大さに打ち震える。
「私がどれだけヴァンを好きか分かった?」
追い討ちとばかりにジルーナはドヤ顔を見せつけた。可愛すぎる。
起きて一分足らず。もうヴァンは胸一杯だ。起きたら隣に好きな人がいるなんて、実に素晴らしい朝だ。しかもそれが毎日続くなんて結婚とはこれほど幸福なものなのかと心の底から震える思いだ。
ベッドサイドに落ちていたTシャツを拾い上げさっと袖を通す。意気揚々と大きな窓に向かってカーテンを開けた。気持ちの良い晴れ模様だ。ついでに朝の爽やかな風でも浴びようと窓を開けてみる。
「…………ん?」
遠くから微かに声が聞こえる。大勢の人が集まって叫んでいるような、ものものしい声。
「何、これ?」
ジルーナの耳にも届いたようで、彼女はベッドの上に座りながら小首を傾げた。
「見てくるよ」
ヴァンはそう言い残し、自宅の上空五十メートル地点にテレポートした。付近を見渡す。どこかに人の群れがあるはずだ。おそらくは路上。
すぐに見つかった。────スナキア邸の正門前だ。
数百名。いや、千人を超えるだろうか。TV局のクルーも複数見受けられる。ヴァンは一応魔法で透明になって姿を消し、彼らの付近にテレポートする。
「……こ、ここまでやるか……!」
ヴァンは唖然とする。
人々は抗議していた。
ヴァンのビースティアとの結婚に。
老若男女が集い、皆不安と怒りを顔に浮かべている。「結婚反対」と書かれたプラカードを掲げて声を上げる。
「ビースティアとの無益な結婚は止めろ!」
「俺たち全員を殺す気か⁉︎」
「スナキア家当主の責任を果たせ!」
国民たちはヴァンの結婚を受け入れなかった。昨日の今日でこれだけ集まったということは、きっともっと多くの人々が同じ気持ちなのだろう。おそらく旧経済・新経済どちらを支持しているかに関わらない。これは国民全員の声だ。
「……あれは!」
ヴァンはその集団の中に、兄のように慕うドレイクの姿を見た。彼もまたヴァンの結婚を承知できないようだ。幼い頃からヴァンを気にかけ、優しくしてくれた彼ですらヴァンの味方にはなってくれないらしい。もちろんヴァンがそう仕向けただけなのだが、心の奥が暗く滲むような思いだ。
だが動揺している場合ではない。この様子ではいずれテレポートで侵入してくる輩も現れるかもしれない。ジルーナが危険だ。ヴァンなら何があっても制圧できるが、顔を見られるだけで厄介だ。ヴァンはテレポートで自室に舞い戻る。
「!」
ジルーナはテレビの前に居た。寝巻きと乱れた頭のまま、生中継されている自宅前の様子を見てじっと立ちすくんでいた。
ヴァンはその背中に声をかける。
「ジル、別荘に避難しよう」
ここにいては何があるかわからない。何よりこのままじゃ目に毒、耳に毒だ。
「……イヤ」
「ジル?」
ジルーナは振り返らず、画面に視線を送ったまま静かに首を横に振った。
「どうして逃げ隠れしなきゃいけないの……? 私はヴァンの妻だもん。堂々とこの本宅に居る」
震える声。
握られた拳。
強い意志。
「……だがいつまで続くか分からないぞ? これじゃ外出もできない」
「ヴァンが魔法で連れてってくれる」
「俺がいつもついていないといけなくなる」
「いつも一緒でいいもん! 新婚だよこっちは!」
テレビに映し出された群衆の姿を目に焼き付けるように、ジルーナはテレビから顔を背けなかった。彼女にとって辛いはずの光景を前に決して揺らがずに。華奢なはずの背中が不思議と大きく見えた。
「……ジル、済まない。とにかくここは危ないんだ。国民たちは怒ってる。俺がスナキア家当主の使命に背いたから……」
彼らは自分たちの死を予感しているのだ。しかも死因はヴァンの性癖である。納得がいかないのも仕方あるまい。自分がちゃんと後継を残せる当主であったならと、彼らの期待に応えられる男であったらなと、ヴァンは下唇を噛む。
彼らには申し訳ないことをしている。ヴァンはそう感じながらジルーナの肩に手を乗せた。しかし、彼女はテレポートなんてさせてたまるかとばかりにその手を払い除け、振り返ってまっすぐにヴァンを見据えた。
「怒るのはこっちでしょ……! 私はあったま来た……っ!」
「……!」
────その目には激しい怒りが激っていた。
「みんな勝手すぎるよ! 何もかも全部ヴァンに任せっきりで、ヴァンに守ってもらってるくせに! あんなにチヤホヤしてたのに思い通りにいかなくなったらこれ⁉︎ ヴァンは全員の代わりに一番大変な思いしてるんだよ⁉︎ そのヴァンに結婚も自由にさせないなんて何様のつもりなの⁉︎」
喉が張り裂けそうな叫び。起き抜きでボサボサの髪を振り乱す。
「か、彼らも命がかかっているんだ……」
あまりの剣幕にヴァンは思わず彼らの思いを代弁する。国の守護者として。スナキア家当主として。
しかしそんな言葉ではジルーナは引き下がらない。
「そんなの全部自分の責任じゃん! 外国の人に恨まれてるのも、自分たちじゃ生きられないのも、全部今までの自分が悪いんじゃん! だから変えようとしてるところなんでしょ⁉︎ みんなも頑張るって決めたんでしょ⁉︎ なのにこれだよ⁉︎」
ジルーナは画面を指さす。無数の群衆がけたたましく怒号を上げ、ヴァンの結婚を激しく非難していた。自分たちのためならヴァンはなんだってしてくれるという甘えが、骨の髄まで染み込んでいるようだった。
ジルーナは細い肩を大きく揺らして息をする。掠れた声で切々と、届いてほしいと懇願するように、ヴァンに言葉を向け続ける。
「私何か引っかかってたんだ。それがやっと分かった……!」
怒りのあまりに滲んだ涙を袖で拭う。
「ヴァンは国のことを気にしながら結婚する必要なんてない!」
「……!」
国のためには、国民のためなら。いつだってヴァンの行動の起点にあったそれを、ジルーナはへし折った。
「ヴァンはただ自分がしたい結婚をしただけ! それでいいの! 誰にも文句を言う権利なんてないでしょ⁉︎ こんなことされたらヴァンは怒っていいんだよ⁉︎」
「だ、だが、俺は……」
曖昧に口籠るヴァンを、ジルーナが一喝する。
「ヴァン! あなたには感じなきゃいけない気持ちも、感じちゃいけない気持ちもないの! あなたはスナキア家の当主である前に一人の人間なんだよ!」
「…………!」
────すっと、ヴァンの憑き物が落ちた。
いつも自分に言い聞かせてきたのは真逆。自分は一人の人間である前にスナキア家の当主。
幼い頃から自分には使命があるのだと妄信していた。病床に伏せる父を見て、それはより強固になった。自分が代わりに守護者にならねばと、自分で自分に呪いをかけた。
だが、当主というレンズを外して見るこの国はどうだ?
ヴァンは誰よりこの国に尽くしてきた。雨のように降るミサイルを命を落としてまで防ぎ、自分同士で殺し合うという恐ろしい修行をこなし、数万年をかけて勉学に励み、巨額の富を振り撒き、政治体制までひっくり返した。そんな自分が結婚相手も好きに選べない? なんて、理不尽な国なのだ。
誰にも口を出される筋合いもない。どんな結婚であろうと国を挙げて祝福されたっていいはずだ。堂々とそう言えるだけことをヴァンはしてきた。「彼らを救うために」、「国を滅ぼさないために」、そんなことを考えて思い悩む意味などまるでなかった。国民のご機嫌を伺いながら結婚する必要がどこにある。スナキア家に依存した国を変えるつもりなら、まずは自分が変わるべきだった。
仮に自分の結婚のせいで国民の命が危ぶまれようと、それは国民が解決すればいい。彼らの生存権は彼らの手で掴むべきものだ。ヴァンにねだれば貰えると思っているのなら大間違いだ。ヴァンは国お抱えの都合の良い兵器なんかじゃない。
ジルーナだけはずっと自分をただの人間として見てくれていた。だから大好きなんだ。自分にかけた強力な呪詛を突き破るほどに、心の底にいる本当の自分が「大好きなんだ」と叫ぶんだ。じゃあなぜ自分は自分をただの人間として扱えない。これでは彼女にも自分にも合わせる顔がない。
本当は気づいていたんだ。国を救うためだなんて理由をつけて無理矢理自分を納得させただけで、きっとただジルーナと結婚したかっただけなんだ。それが後ろめたかった。でもそれで良かったんだ。彼女と結婚する理由なんてそれだけで良かった。
ヴァンはただ、愛を貫きたいだけの男でいい。
怒涛の勢いで押し寄せる思考にヴァンは硬直していた。気が焦れたジルーナが迫る。
「はい! ヴァンのご意見ご感想は⁉︎」
「……ないよ」
「何だとぉ⁉︎ 夫婦喧嘩する⁉︎ 二日目から!」
ジルーナは猫耳をツンと尖らせる。尻尾は威嚇するように膨らんでいた。甘く握った両手を掲げて爪を見せつける。
「ハハ、違うよ。……君が全部言ってくれた」
「!」
いつもそうだった。ヴァンが自分でも気づいていない気持ちに気づき、代わりに喜んだり泣いたり怒ったりしてくれるのだ。
「……ジル。そのポーズ、猫みたいで可愛いから後でまた見せてくれ」
「ま、真面目な話してんの! 性癖は隠しなさい!」
「隠さない。それが今日からの俺だ……!」
ジルーナは目を丸くする。
「にゃっ……⁉︎」
ヴァンはそんな彼女を力一杯抱きしめた。最愛の妻を。依然として使命に縛られていた自分を救ってくれた恩人を。
「ありがとう、ジル。君のおかげで俺は俺になれそうだ」
この結婚はヴァンの意思だ。誰に何を言われようが逃げ隠れせず貫いてやる。そうしていればついでにこの国も救われていくらしい。その程度の認識で充分だ。
「プロポーズでグダグダ言ったこと、全部なしにしてくれ。やり直させてほしい」
「……うん」
「君を愛してる。結婚してほしい。……それだけだ」
「ハハ、さっぱりしたね」
彼女はヴァンの腕の中で苦しそうにもがきながら、それでも懸命にヴァンの背中に手を回した。
「私も愛してるよ。…………あーあ、やっぱり耳も尻尾も削れてなくなっちゃうんだね」
「フフ、覚悟しとくんだな」
彼女への愛も性癖も全開だ。もう誰にも文句は言わせない。
「ここで堂々と待っていてくれ。全員黙らせてくる」
ヴァンは回していた腕を解き、彼女の頭を撫でる。ついでに猫耳の手触りも頂戴する。最愛の妻を怒らせ傷つけた無礼な連中が居る。このまま野放しにできない。
ヴァンがかつて見せたことがない極悪人の笑みを浮かべているのに気づき、ジルーナは途端に慌て始めた。
「な、何する気……? あ、あの、私怒ってるけどみんな死んじゃえとまでは思ってないからね? 自分たちで頑張ればいいじゃんってだけで……、その、文句言われたらガツンと言い返そうよくらいの話なんだけど……!」
「ハハ、分かってるよ。皆殺しになんてしないさ。……ただ、二度とナメた態度を取らないように死ぬほど追い詰める」
「え……?」
「俺はもうお堅い真面目な当主様じゃない。品行方正な英雄でもない。異常性癖を持つ変態の暴君だ。それを見せつけてやる」
ヴァンにはアイディアがあった。ヴァンの意思が固いことを表明し、同時にジルーナの安全を完璧に確保し、彼らを恐怖のどん底に陥れる悪魔のような作戦だ。ジルーナの頭に顔を寄せて、そっと耳打ちする。
一通り聞き終えたジルーナは、唖然とした表情をヴァンに向けた。
「め、めちゃくちゃだよそんなの……!」
ヴァンはもう一度猫耳を触らせていただきながらドヤ顔を見せつけた。
「俺がどれだけジルを好きか分かったか?」
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