⑶飛車角落ち

 褐色の肌をした黒髪の美女が襲って来た。

 翔太からの連絡を受けて、立花は溜息が止まらなかった。


 今回の依頼は、或る資産家の暗殺だった。

 立花としては受けても良かったが、何となく、嫌な予感はしていた。しかし、依頼内容自体はそれ程に困難なものではなかったし、報酬に不服も無い。そもそも、立花はターゲットが何者なのかなんて気にしたことも無かった。


 依頼があって、適切な報酬が支払われるのであれば受ける。

 立花はこれまでそうして来た。ターゲットが何処の誰で、善人でも悪人でも、家族がいても、社会的立場があっても、大した問題ではない。


 資産家ならば護衛くらいいるだろう。

 ターゲットの名前は赤津敬人あかつ よしと、日本名である。アジア系の顔をした壮年の優男で、どういう仕事をしているのか知らないが、兎に角、儲けているらしい。


 だから、都心に近い天を突くような高層ビルに住まい、護衛という名目で若い女を侍らせ、呑気にワイングラスなんか傾けている。


 立花はターゲットの住居を狙える商業ビルの屋上で、スムラクを構えていた。大きな窓からは夜景がさぞ美しく見えることだろう。部屋の中にはターゲット一人。グレーの髪を後頭部で緩く纏め、バスローブを着て優雅な一時を楽しんでいる。――それが最期の一杯になるとも知らずに。


 打ち付けるような風の中、立花の指は引き金に掛かっていた。さあ、ゲームセットだ。立花は引き金を絞った。

 スムラク――SVLK-14Sは、四キロ以上離れた場所からでも正確にターゲットを撃ち抜ける。無駄撃ちはしない。ターゲットに警戒されるし、何より銃弾は高いのだ。


 立花が放った二発の弾丸は、僅か数秒で夜空を駆け抜け、硝子越しのターゲットの脳天を撃ち抜く。そのはずだった。

 初弾が硝子に着弾した時、立花は既に次の弾を撃っていた。そして、その時にはもう立花は撤退の準備をしていた。


 帯状に広がる大きな窓に、亀裂が走る。ターゲットが身を起こし、ワイングラスが落下する。立花の撃った二発の14.5x114mm弾は、硬化鋼芯を採用した徹甲焼夷被甲弾だった。戦車も撃ち抜く。だが、それは硝子一枚貫けず、蜘蛛の巣状の亀裂を残しただけだった。これは、どういうことか。


 答えは、簡単なことだった。

 ターゲットは狙撃されることを想定していた玄人だったということだ。平和呆けしたこの国の閣僚やただの資産家ではない。最悪の可能性を想定する。


 赤津敬人は恐らく偽名だ。

 もしかすると、日本人ですら無いかも知れない。翔太の言っていた褐色の肌をした女の姿も無い。


 ターゲットの行動を観察する間も無く、立花は遁走した。

 失敗したなら仕切り直す。悪足掻きはしない。ライフルをケースに入れて肩に担ぎ、立花は素知らぬ顔をして商業ビルの出口に向かった。


 閉店間際のビルには、別れのワルツが厳かに流れている。出口に向かう客に混じってビルを抜け出し、駐車場に向かった。廃車状態から復活した黒のBMWは、立体駐車場のオレンジ色の明かりに照らされていた。


 ポケットに入れていたリモコンキーで、ドアロックを解除する。立花が運転席の扉に手を掛けた、その時だった。


 静電気のような違和感が走った。立花が振り向いたその瞬間、稲妻のように長刀が振り下ろされていた。

 ズシンと、刃物では大凡聞かないような物騒な音を立て、運転席のドアは破壊されていた。硝子が飛び散る中、追撃を寸前で躱す。


 スムラクを担いでいるせいで、懐の銃に手が伸ばせなかった。立花は殆ど転がるようにして距離を取り、襲撃者を睨んだ。


 オレンジ色の明かりに照らされた襲撃者は、二本の長刀を構えた女だった。褐色の肌、黒い長髪、青い瞳。翔太の言っていた護衛の女。しかし、血に飢えた野獣のようなその眼光は、護衛と呼ぶよりも。




「คุณเป็นมือปืนหรือไม่」




 女が、言った。

 知らない言語だった。少なくとも、立花は理解出来ない。ただ一つ分かるのは、この女が自分にとって敵であるということだった。


 女は余計な問答はせず、片刃の長刀を踊るように振り回した。担いだスムラクを置く間も無く、銃を取り出す余裕も無い。嵐のような苛烈な連撃に追い詰められて行く。


 人気の無い立体駐車場に風切り音が木霊こだまする。横薙ぎの斬撃を躱した時、背中にフェンスがぶつかった。

 地上二十メートル。立花にとっては、落下して死ぬ高さではない。しかし、立花の逃走を悟ったのか、女の長刀が鋭く振り抜かれた。


 咄嗟にスムラクを盾にしていた。

 ガキンと嫌な音がして、黒いケースが斬り裂かれる。女が妖艶に笑った。


 頭の中で何かの千切れるような音がした。

 初撃をスムラクで受け止め、懐から銃弾を放った。女の長刀が銃弾を弾くと同時に、立花は既に引き金を引いていた。


 銃弾は女を撃ち抜くはずだった。だが、それはしなむちのように振りかざされた長刀によって一刀両断に断ち斬られていた。女は炎のように侵略し、息吐く間も無く、立花の眼前には刃が迫った。


 走馬灯に似た記憶の奔流。

 その中で、立花は或る女の話を思い出していた。


 中東のテロ組織、民族解放戦線。通称、赤い牙。

 組織に忠誠を誓い、赤い猛犬と恐れられた国際指名手配犯。ゲリラ戦を得意とする暗殺者が、組織を離脱し、消息を絶った。

 見た目は美しい女であるが、その内面は砂漠のように乾き切り、血を求めて彷徨う虐殺者である。


 それを語ったのは、師匠である近江だった。

 いつか、嵐を連れてこの国にやって来るかも知れない。だから、その時は――。


 


 近江の声が脳裏を過ぎる。

 立花は引き金に指を掛けていた。袈裟懸けさがけに斬り掛かろうとする長刀を受け止めるつもりだった。この場で命を落としても、この女だけは殺す。


 立花が発砲する寸前、空気を切り裂く音が聞こえた。

 それは立花と女の間にくさびの如く突き刺さった。


 黒い刃のサバイバルナイフ。

 それを見た瞬間、立花はまるで冷水を浴びせられたかのように思考を取り戻した。


 貴方が望むのなら、俺が何度でも死なせてあげる。

 だから、その時まで生きていて。


 此処はまだ俺の死に場所じゃない。

 立花の放った銃弾は女の肩を撃ち抜いていた。同時に銃弾は底を突き、立花はスムラクを拾って駆け出した。背中に長刀の気配を感じながら、立花は勢いよくフェンスを飛び越した。


 路上に停められた車の天井に飛び降りると、硝子が勢いよく弾けた。立花は構わず走り出した。追撃の気配は無い。


 赤い猛犬、研がれた牙。

 ゲリラ出身の元テロリスト、プリシラ・チハマド。

 どうしてこんな極東の島国にいるのか知らないが、野放しにしておくことは出来なかった。













 16.繋いだ手

 ⑶飛車角落ひしゃかくお












 駅前まで逃走した時、既に終電は出た後だった。

 車を置いて来てしまったので移動手段が無い。駅にはシャッターが下され、ホームレス達がカップ酒を片手に宴のように騒いでいる。


 立花はスムラクを担いだまま、その場にしゃがみ込んだ。

 疲労感が背中にどっと伸し掛かり、脳がニコチンを求めて叫ぶ。懐を探った時、陳腐なベルの音がした。振り向くと真っ赤なママチャリにまたがった翔太がいた。




「……なんだよ、そのチャリ」

「幸村さんに借りた」




 そう言って翔太が顎をしゃくったので、立花は何もかもがどうでも良くなって荷台に座った。

 趣味の悪い真っ赤なママチャリに乗って、二人で深夜のオフィス街を走った。事務所に帰り着く頃には朝になっているだろう。スムラクの損傷が気掛かりだったが、それを調べる気力も無かった。




「ターゲットは何者なんだ」




 ペダルを漕ぎながら、振り向きもせずに翔太が訊ねる。

 過去最大に無防備で間抜けな姿だ。立花は自分に嫌気が差して、自暴自棄に答えた。




「知るかよ」




 前方の歩道が赤信号だった。車は一台も走っていないが、翔太は律儀に停まると振り返った。




「あの女は何者なの」




 先程の戦闘で、横槍を入れて来たのは翔太だった。

 近江の元でナイフ術を学んでいると聞いているが、この男も何を目指しているのかよく分からない。




「中東テロ組織のゲリラ部隊出身の国際指名手配犯」

「濃過ぎだろ」




 信号が青に変わると、自転車は緩やかに走り出した。


 プリシラがこの国にいるのは何故だ。亡命だろうか。そんな厄介者を護衛にしているターゲットは何者だ。

 分からないし、それを調べる手立ても無い。考えることが億劫で、あの時、射殺出来なかった自分に酷く腹が立った。彼処で成功していればスムラクも傷付かなかったし、こんなダサいママチャリに乗ることも無かった。




「……俺はさ」




 滑らかに自転車を漕ぎながら、翔太が言った。

 自転車には電動機が付いている。モーターの音は静かで、まるで静寂に聞こえる耳鳴りみたいだった。




「今回の件は、相当やばいと思ってる。それなのに、ターゲットが何者なのかも分からないんじゃ、何の対策も立てられない」




 翔太の言いたいことは、よく分かる。

 情報面で自分達は出遅れている。立花が暗殺をしくじったのもそのせいだ。今までは有能な事務員が正確な情報を無償で提供してくれていたが、今は違う。

 失くして初めて気付く価値というものがある。立花は溜息を呑み込んだ。




「湊に調べさせろ」




 渋谷や品川のような情報屋に依頼出来る程、金銭的な余裕は無い。駄目元で立花が言うと、翔太は分かり易く口篭くちごもった。




「でも、向こうは忙しそうだったぞ。三回も襲撃されてるらしいし、そんな余裕なんて……」

「無理ならそう言うだろ」

「そうか……?」




 翔太は懐疑的だったが渋々と頷き、自転車を停めた。

 携帯電話を操作し、耳に当てる。その姿を見ながら、立花は疑問だった。翔太はその携帯電話にどのくらいの価値があるのか分かっているのだろうか。

 殺し屋、フィクサーの孫、情報屋。裏社会で生きて行く為の術が其処にはある。


 残せるものは、残して行ったという訳だ。

 立花は海の向こうにいるだろう子供を思い浮かべ、苦く笑った。


 通話は程無くして繋がった。

 翔太が言うには、珍しいことらしい。大抵は留守電か電源が切られていて、着信が残れば向こうから折り返してくれるそうだ。


 翔太を挟んで話すのが面倒だったので、立花は携帯電話を取り上げた。久しぶりに聞く湊の声は変わりなく穏やかだった。


 此方の状況を伝えると、苦言や忠告は無く、調べてみると言った。スピーカーの向こうから微かにノワールの声が聞こえた。今、何処にいて、どんな状況なのだろう。立花は、それを尋ねる言葉を持っていなかった。




『赤津敬人は、偽名だね。報道界のお偉いさんみたいだよ』




 まるで魔法みたいに、湊は欲しい情報を齎してくれる。これで対価を求めないのだから、死んだ訳ではないけれど、惜しい奴を失くしたものだ。


 ちょっと調べてみる、と言い置いて、湊は暫し黙った。スピーカーの向こうでキーボードを叩く音がする。湊が言った。




『写真を見たけど……。この人、青龍会の杜梓宸ト ズーチェンじゃない?』




 あまりのことに、声が出なかった。

 杜梓宸ト ズーチェンとは、中国マフィア青龍会の幹部で、薬物売買や武器密輸で中国に利益誘導して来た国家の敵である。黒社会の闇そのものだ。


 青龍会は、先代総帥が逝去し、若頭であった息子の李嚠亮リ リュウリョウが後を継ぐと言われている。けれど、先代の右腕であった杜梓宸が暗躍し、青龍会は苛烈な派閥争いの真っ只中にある。それは中国の治安悪化の最大の要因で、その煽りを受けているのがこの国の現状だった。


 今からでも依頼を断れるだろうか。

 やったことは無いけれど、暗殺するにはあまりにもリスクが高い。資産家の暗殺として前金は支払われているが、中国マフィアの幹部とは聞いていない。契約違反だろう。




『もう一つ、嫌な情報をあげる』




 もう満腹で胸焼けがするけれど、聞かない訳にはいかない。




『杜梓宸は、戦争推進派フィクサーの一角だ』




 俺の敵だね。

 何でもないみたいに、湊が言った。

 恐ろしいことに、この子供はフィクサーのリストと呼ばれる黄金のカードを持っているのである。


 嘘だろ。

 退路が塞がれて行くのが分かる。杜梓宸も、プリシラも始末しなければならない人間だ。立花にはその理由と責任がある。


 報道界に通じた中国マフィアの重鎮で、戦争推進派のフィクサー。恐らく、今の自分たちには最も相性の悪い敵である。情報戦に強いカードが無いと勝てない。プリシラだけでも厄介なのに、相手がフィクサーとなると飛車角落ちの竜王戦である。


 その時、スピーカーの向こうで破裂音が響き渡った。ノワールの怒声がする。湊は小さく舌打ちすると、早口に言った。




『俺に出来ることがあれば協力はする。でも、こっちも立て込んでるから、いつでもとは言えない』




 電話を切れと、ノワールが叫んでいる。

 紛争の激戦区みたいな銃撃戦である。湊は立花の返答も聞かず、一方的に言った。




『健闘を祈る』




 そうして、通話は切れてしまった。

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