⑸未来の約束

 背を丸めていた少女は地面に伏して啜り泣いている。

 駅からは通行人が顔を覗かせては白い目を向け、何かをひそひそと囁き合っていた。携帯電話を向けて撮影する不届き者もいる。


 翔太は側に膝を突いた。

 彼女が何者なのかは分からないし、どういう人間なのかも知らない。だが、泣いている少女を放っておける程、図太くもなかった。立花は兎も角、ミナが冷ややかに見下ろしているのが意外だった。その反応で、気付くべきだった。


 少女は地を這うような低姿勢で、翔太の脇を擦り抜けた。咄嗟に手を掴まなかったのは、立花の行為が記憶に新しかったからだった。翔太が躊躇ちゅうちょした一瞬の内に、少女は人混みを掻き分け、夜の街に消えてしまった。


 桜田達、警官が呆気に取られる中、立花は懐から煙草を取り出して火を点けた。




「帰っていいか?」




 何事も無かったかのように煙草を吹かし、立花が言う。


 誰かを気遣う立花というのも想像出来なかったが、薄情な男である。桜田は気力もやる気も失せたらしく、放逐するように手を振った。立花に呼ばれ、ミナが子犬みたいに付いて行く。親しい友達みたいに別れの言葉を告げ、後は振り返りもしなかった。


 三人で歩くのは久しぶりだった。

 人もまばらな夜道をオレンジ色の街灯がぽつぽつと照らす。眠らない街の喧騒は遠去かり、冷たく澄んだ風が頬を撫でる。


 おでんを煮てある、とミナが言った。

 それで白米が食えるのか、と立花が鼻を鳴らす。

 ミナは白米だけでも三杯は軽く平らげる子供だが、立花は料理に関して口煩くちうるさいのだ。




筑前煮ちくぜんにもある」




 ミナが得意げに言った。すかさず立花が指摘する。




「なんで煮物ばかり作るんだ」

「面倒だったんだ」

「最低な理由だな」




 立花は溜息を吐いた。

 翔太としては何でも良かったが、立花がこの状況について詮索したり咎めたりしないのが気に掛かった。夕飯について滔々とうとうと語る二人の背中を眺めながら、翔太は隠し事をされているかのような疎外感を抱いていた。











 12.星に願いを

 ⑸未来の約束











 煮物ばかりが並んだ食卓は、全体的に茶色かった。

 立花が文句を言うのも分かる気がする。翔太は箸を並べながら、白米をよそうミナの隣に立った。

 鼻歌なんて歌って白々しい。隠し事をされていると実感しているせいなのか、彼等のやり取り全てが怪しく見えた。


 事務所のコーヒーテーブルに夕食を並べ、三人で手を合わせる。それぞれに取り分けるのも面倒だったのか、鍋が二つと白米と味噌汁。立花は筑前煮の鍋を覗き込んで、顔をしかめた。




「里芋が溶けてて汚く見える」

「お腹に入れば全部一緒だろ」

「せめて、皿に取り分けろ」

「じゃあ、スプーンを用意するよ。食べたい人がそれで取り分ければ良いね」




 ミナはわざとらしく溜息を吐いて、床を鳴らしながら給湯室に歩いて行った。そして、戻って来た時に握られていたのはスプーンではなくお玉だった。流石に立花も面倒になったらしく、それ以上は何も言わずに食事を始めた。


 手鍋に煮込まれた筑前煮をお玉ですくい取る。立花の言う通り、全体的に同色で形が崩れているので、固体なのか液体なのかすら分からない有様だった。味は良かったが、兎に角、見た目が悪い。白米に乗せるとカレーのようで、視覚と味覚が混乱した。


 立花は白米と味噌汁を早々に食べ終えると、後はおでんを摘んでいた。結局、液体の筑前煮は殆どミナの腹の中である。美少女のような容貌を指して性別を間違えたんじゃないかと言われていたが、こんないい加減な料理を作る奴は男で良かったと思う。




「あの子、大丈夫かな」




 ふと思い出して口にすると、はんぺんを咥えた立花が目を上げた。とても凄腕の殺し屋とは思えない姿だ。

 竹輪麩ちくわぶの穴を見詰めながら、ミナが答えた。




「まだこの街にいるだろうね」

「警察に目ェ付けられてんのに?」

「薬物売買や売春みたいな裏業界にはそれぞれの支配者がいて、縄張りがある。誰でも好きな時に出来る訳じゃない」




 ミナは竹輪麩を一口で頬張った。

 博識な子供である。笹森にでも聞いたのだろうか。翔太が空になった茶碗を見下ろしていると、立花が言った。




「買春なんざ今時珍しくもねぇ。何処にでもいる底辺の人間だ」




 だけど、可哀想だろう。

 翔太はその言葉を呑み込んだ。安い同情だ。自分が救える訳でも無い。


 社会の受け皿という言葉が脳裏を過ぎる。

 桜田は、受け皿が足りないのだと言った。ミナは、被害者意識を変えていかなければならないと言った。どちらも正しいと思う。


 鍋の底に、形の崩れた里芋が焦げ付いている。それを見ていると何故だか虚しくて、遣る瀬無かった。




「力を貸そうか?」




 隣から腕がすっと伸びる。お玉を持ったミナが、焦げ付いた煮汁ごと里芋をすくい上げる。最後の一滴まで腹の中に収め、ミナは笑っていた。しかし、立花が苦言を呈する。




「いつも言ってんだろ。何でもかんでも救える訳じゃねえってよ。飢死しそうな野良猫に餌をやったとして、明日はどうする。きりが無ぇ」

「でも、それを続けていれば、いつか野良猫は居なくなるかも知れないよ?」

「保健所の出番だな」

「レンジ」




 箸を揃えて置き、ミナは微笑んだ。




「俺は、釣りをすることにしたんだ」

「釣り?」

「そう。Fishing!!」




 ミナは釣りの真似をした。




「何でもかんでも救えるとは思わない。でもね、もうどうしようもなくて、辛くて苦しくて、心の底から助けを求めた時に、その手を取ってくれる誰かがいるってのは、良いことだと思わないかい?」

「理想論だな」

「I’d just be the catcher in the rye and all. I know it’s crazy, but that’s the only thing I’d really like to be」




 立花が舌打ちをする。ミナは白い歯を見せて笑った。

 何を言ったのだろう。




「エンジェル・リードもそういう理由か?」

「そうだよ。楽しいだろ?」

「悪趣味だ」

「ロマンチストだと言ってくれよ」




 どちらかが説明してくれないと、翔太には理解出来ない。

 立花は鍋の底から大根を拾い、空の茶碗に移した。半透明の大根は味が染みていて美味しそうだった。




「釣り糸の先に何がいるのか、きちんと見極めることだな」

「Shark?」

「かもな」




 ミナがさめの真似をすると、立花が笑った。


 夕食を終え、翔太は給湯室で皿を洗った。食器洗い洗剤のライムの匂いが辺りを満たし、泡が流れ落ちて行く様を見ていると、不思議と心が軽くなった。ぴかぴかの茶碗を乾燥機に乗せ、壁に下げられた朽葉色くちばいろのタオルで手を拭う。柔軟剤の香りが優しく包み込む。


 腕捲うでまくりをしたミナがやって来た時には既に洗い物は片付いていた。ミナは肩透かたすかしを食らったみたいに目を丸くしていたが、その厚意に礼を言うとミナは笑った。


 皿洗いの為に包帯は濡れていた。

 シャワーを浴びたら替えてくれると、ミナが言った。当たり前のように与えられる厚意がくすぐったくて、心地良かった。

 救急箱は事務所の棚に上げられていた。ミナが背伸びをしようとすると、立花が何も言わずに取ってやった。テレビの音声がBGMに聞こえる穏やかな時間だった。




「さっきの英語、何て言ってたんだ?」




 翔太が訊くと、ミナが「The Catcher in the Rye」と言った。何のことかと思ったら、海外の小説らしかった。


 青春小説の金字塔と名高いらしいが、翔太には覚えが無かった。読書というものが、翔太の生活には無縁だったのだ。反対に、ミナは大変な読書家であるらしく、幼い頃から詩や小説を読んで過ごしたそうだ。


 だから、頭でっかちなんだろうな。

 翔太がそんなことを考えていると、ミナが本を貸してくれると言った。読むかは正直分からないが、一応、借りることにした。


 その時、立花が言った。




「野の百合は如何にして育つかを思え」




 ぽつりと零れ落ちた言葉は、まるで独り言みたいだった。

 救急箱を抱えたミナが、不思議そうに見詰めている。立花は苦笑した。




「……頭の中に、残ってんだ。意味は知らねぇ」




 まるで自嘲みたいに、懺悔ざんげのように、立花が言う。

 何だか、今日の立花は変だ。いつもなら怒りそうなことも受け流し、らしくもない親切をして、どうしてしまったのだろう。


 ミナは救急箱を抱え直した。




「聖書だよ」




 濃褐色の瞳は、不思議に透き通っていた。




「野の百合は如何にして育つかを思え。ろうせず、つむがざるなり。されど我、汝等なんじらに告ぐ。栄華えいがを極めたるソロモンだに、その服装この花の一つにもかざりき」




 淀みなく、ミナが語った。

 ミナはキリスト教徒ではないはずだが、まさか全文暗記しているのだろうか。立花は静かだった。




「……どういう意味なんだ」

「野に咲く百合は、人間のように働かなくても美しい。栄華を極めたソロモンでさえ、この花には及ばなかった」




 立花は、途方に暮れた迷子みたいだった。茫洋とした金色の瞳には、ミナすら映っていないように見えた。ミナは救急箱をテーブルに置き、ゆっくりと言った。




「神は凡ゆるものを創り出し、そして、愛している。神は貴方に必要なものを分かっていて、必要な分だけ与えてくれている。だから、明日のことまで思い悩むなって感じかな」

「思考停止だな」

「でも、美しいと俺は思うよ」




 ミナの澄んだ声が、静かな室内に鈴の音のように優しく響く。




「俺はキリスト教徒でもなければ、専門家でもない。ただの読書好きな子供だ。でも、受け継がれて来た歴史が、俺は尊いと思う。聖書に限らず、本は先人の知恵で、灯火なんだよ」




 すごいな、と翔太は素直に感心してしまった。

 横で話を聞いているだけなのに、素晴らしい教えを得たみたいな全能感に満ちていた。ミナは聖職者にもなれそうだ。


 立花は目を閉じていた。こんなに無防備な姿を見るのは初めてだった。風に吹かれているみたいに、春の日差しを浴びているみたいに、細波さざなみの音に耳を澄ませているみたいに、立花はただ静かにミナの言葉を聞いている。


 そして、目を開けた時には微睡まどろんだライオンみたいな目付きで、少しだけ笑った。




「釣りか……」




 やったことねぇな。

 立花はそう呟いて、ミナを見詰めた。睨むのでもなく、見下すのでもなく、対等な存在として認めている。




「車が直ったら、行くか。お前、やったことあるか?」

「River fishing ――川釣りなら、ワタルとよく行ったよ」




 ワタルは下手なんだよ、とミナが笑う。馬鹿にするような嫌悪感は無く、まるで愛おしむように語る。いつも思うのだが、ミナの話は血が通っていて、温かい。相手を包み込むように、穏やかに話すのだ。


 ブラインドの外を覗き、立花は煙草を灰皿に押し付ける。翔太には、その背中が紫煙の中に消えてしまいそうに見えた。

 ミナは救急箱から新しい包帯を取り出してテーブルに置いた。




「楽しみだねぇ、ショータ」




 早く車が直れば良いのにねぇ。

 休日を心待ちにする子供みたいに、ミナがうっとりと言った。翔太は頷き、少しだけ笑った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る