⑵啓蟄

「集中には深度がある」




 春の日差しの下で、ミナは胡座あぐらを掻いていた。

 室内は秒針の音を意識する程の静寂に包まれ、目の前に座る少年は今にもろうの如く溶けてしまいそうだった。翔太は彼に倣って胡座を掻き、操り糸を外すような感覚で肩の力を抜いた。


 ゲルニカが逮捕されたのは、二月の終わり頃だった。

 那賀川なかがわ議員の自宅が何者かに爆破され、息子であるゲルニカは追い詰められた。逃げ場を無くしたゲルニカは近くにいた子供を人質にとって抵抗したが、偶然その場に立ち会った男によって捕らえられた。

 ゲルニカを捕らえたのは、彼が過去に起こした残酷な殺人事件の被害者遺族だった。因果を感じさせるドラマ染みた騒動を、マスコミはこぞって報道した。


 しかし、これはお膳立ぜんだてされた勧善懲悪である。

 実際は、国家公認の殺し屋が暗躍し、人質となった子供が策略を巡らせ、ハヤブサと呼ばれる裏社会の抑止力が行動を起こした。だが、それは世間には知らされない。


 事件の報道をテレビで眺めていたら、ミナが用件も告げずに三階へ誘った。其処はミナと立花の居住区である。付いて行くと、ミナは床に胡座を掻いて「瞑想をしよう」と言ったのである。




「深く息を吸って、ゆっくりと吐き出す。自分の脈に意識を向けて」




 ミナの声を聞いていると、不思議と心が静かになる。

 脈動はまるで地平線の彼方の地響きに似ていた。どうどうと、ごうごうと、だんだんと遠去かる。厚い膜が掛かったみたいに意識がぼんやりとして、腹の奥がじわりと熱くなる。投げ出した指先まで血が通うのが分かる。瞼の裏が脈を打ち、生き物みたいにぐにゃぐにゃと歪む。


 それまで薄ぼんやりとしていた闇が僅かに照らされて、目の前にある物の輪郭を映し出す。




「高度な集中は、目的の為に不要な情報を排除する」




 ふるいに掛けられた砂みたいに、ミナの声はさらさらと流れ落ちる。顳顬こめかみの辺りに鈍い痛みを感じ、翔太は薄目を開けた。胡座を掻いたミナは、無抵抗を示すみたいに両手を投げ出していた。




「必要かどうかなんて、どうやって判別するんだ」




 翔太が尋ねると、ミナが片目を開けた。

 長い睫毛は綺麗なカーブを描き、滑り台だったら宙返りでも出来そうだった。




俯瞰ふかんさ」




 其処で翔太の集中は途切れ、鈍い頭痛は遠くの花火みたいに尾を引いて消えてしまった。


 高度な集中――。

 翔太はそれを知っている。目の前の少年はそれが出来る子供だった。集中すると周りの声が聞こえないとは屡々しばしば聞く言葉であるが、この子の場合は呼吸すら忘れてしまいそうだった。

 立花はそれを指して、天才だけに許された高次元の集中状態と言っていた。恐らく、誰にでも出来ることではないのだろう。


 ミナはおもむろに立ち上がると、ブラインドカーテンを少しだけ開けた。春の日差しが白く、眩しかった。




「感情とは心理作用の発露だと言われている。厳密には外界からの刺激に伴う脳内物質の増減だ。そして、それは訓練と自己暗示で操作することが出来る。海外企業では瞑想を取り入れてマインドフルネスを図っているところもあるみたいだし、精神医学でも効果を発揮して」

「分かった、もういい」




 ミナは話し足りないような顔をしていたが、続けようとはしなかった。

 翔太は立ち上がり、軽く屈伸をした。関節が固まって、パキパキと小気味良い音がする。ついでに背伸びをすると欠伸あくびが漏れた。


 平和な昼下がりだった。

 繁華街が近いとは言え、昼間の街は死んだようにひっそりと静まり返り、事件の気配も無い。退屈だと感じる程に傲慢ではないので、翔太はブラインドの隙間に見える街並みを眺めてほっと息を吐いた。


 脳内物質は訓練と自己暗示で操作出来る。

 まるで、軍人みたいな考え方である。翔太はストレッチを始めたミナを見遣り、ふと思い出して尋ねた。




「……前に、サイコパスは脳の機能障害だって言ってただろ?」

「うん」

「それって、後天的にも起こるの?」




 ミナが驚いたみたいに瞬きをする。

 真っ直ぐな視線が痛くて、翔太は目を逸らした。




「それまで良い人だったのに、或る日突然、人が変わったみたいに酷いことをするようになったり……」




 ミナは頷き、肯定した。




「そうだね。アルコールとか薬物でそうなることもあるし、事故の後遺症でそうなることもある」

「それって、治らないの?」

「破壊された脳は元に戻らないよ。人が思う程、脳は頑丈じゃない。そうでなければ、分厚い頭蓋骨に守られているはずも無いさ」




 ミナは米国で脳科学を研究していた大学生である。父親は精神科医だと聞くし、翔太が知りたいと思うことは全て答えてくれるだろう。




「話半分で聞いてくれるか?」

「Half?」

「嘘かも知れないってこと。……時々、断片的に思い出すんだ。習っていた空手のこととか、家族のこととか」

「うん」

「それで、この前、変なことを思い出した。砂月さつきが病院みたいな所にいて、医者が点滴をするんだ。俺が幾ら呼んでも砂月は返事をしない。親父やお袋は、きっと良くなるって何度も言う。……なあ、変だろ?」

「……それは」




 ミナは泣きそうな顔をしていた。

 言葉を躊躇ためらっているようにも、困っているようにも見えた。そんな顔をさせるつもりじゃなかった。翔太が何でもないと誤魔化そうとすると、ミナが言った。




「……本当のことが、知りたい?」




 ミナの声は聞いている者が焦りを感じる程に真剣で、凄みがあった。念を押すみたいにミナは問い掛け、じっと顔を覗き込んで来る。濃褐色の瞳に狼狽ろうばいした自分の顔が映る。翔太は逃げ出したいと願いながらも、その場に立ち止まって頷いた。




「前にも言ったけど、良心の呵責かしゃくや倫理観は生育環境に起因する。君たちは同じ家庭で育った兄妹だけど、君は倫理観も遵法精神も持ち合わせている一般的な善人だ。……嫌な話をするよ?」




 ミナはそう前置きして、淡々と言った。




「脳の眼窩前頭皮質と扁桃体の機能が低下していると、衝動的になり、他者への共感能力が欠如する。調べた限り、君の妹さんには事故や手術、既往歴は無かった。だから俺は、先天的な脳の機能障害だと考える」

「でも、砂月は体が弱くて」

「自己申告なんだろう? サイコパスの人間は、巧みに嘘を吐き、人を操る。君の両親は病気だと考えて治療を試みたようだけど」




 後頭部が締め付けられるみたいに痛い。

 踏み締めて歩いて来た大地が、何の前触れも無くいきなり抜け落ちたみたいだった。脈動に合わせて視界が揺れる。僅かな希望を冷静な言葉が刈り取って行く。




「サイコパスの人間に対しては、治療という概念そのものが適切ではない。精神病の治療に薬物が効果を発揮することもあるけど、それはあくまで脳内物質に対する科学的なアプローチであって、破壊された脳が元には戻らないように、生まれ持った機能障害は誰にも変えることが出来ない」

「……」

「誰にもどうすることも出来なかったんだよ。君のせいじゃないし、ご両親のせいでもない。誰も悪くなかった」




 言い聞かせるみたいに、ミナはその言葉を繰り返した。

 君のせいじゃないんだよ、と。


 専門用語を引っ張り出して、話を小難しくしているのは、自分の為だった。ミナの結論は変わらない。立花が言っていた。


 お前の妹は化物だった。


 喉がカラカラに乾いていた。

 翔太は絞り出すように、一縷いちるの望みに縋るように言った。




「医者は、きっと良くなるって……」

「医者の立場ではそう言うしかないんだ。患者は医者を万能と思い込むから」




 凡ゆる希望が途絶え、世界が色を失くして行くようだった。荒廃して行く様を、自分は眺めていることしか出来ない。

 ミナは眉を寄せ、顎に指を添えた。視線は地を這うように低く、何かを探しているようだった。


 ねえ。

 何かを探るみたいにミナが固い声を出す。




「それ、本当に医者だったの?」




 どういう意味だ。

 ミナは怪訝に眉をひそめたまま問い掛けた。




「点滴って、IV――点滴静脈注射だろ? 何で? 発作でも?」

「いや……そんなことは無かったと思う……」

「本当に病院だったの?」




 翔太は答えられなかった。

 分からないのだ。病院だったと、思う。だが、本当にそうだったのかは分からない。何を持って病院と判断したのだろう。医者が白衣を着ていたから?


 病院ではなかった?

 じゃあ、あれは何だ?

 俺の妹は何をされていたんだ?




「一般的に、点滴静脈注射をするのは、薬剤の量が多い時や輸血、薬剤の血中濃度を維持する必要がある時だ。既往歴の無い身体的に健常な人間にはしない。――君の妹さんは何の薬を投与されていたの」




 何の薬――?

 点滴液パックから流れる透明な液体。あれは何だ。

 ラベルがあったはずだ。確か、英語だった。翔太には理解不能な文字で、何かがつらつらと書かれていた。


 分からない。分からない。頭がどうにかなってしまいそうだった。思考回路は糸の塊みたいに絡まっていて、ろくな答えも出せはしない。




「SLC――」




 翔太が呟いた時、ミナは眼球が転げ落ちんばかりに両眼を見開いた。死人のように顔を蒼白にしたミナは、息を詰まらせ、唇を震わせた。




「家族が死んだ日、知らない男たちが来て、俺を車に乗せた……。そいつ等が、言ってた」

「That's impossible!!」

「本当なんだ!」




 ミナは痛みをえるみたいに顳顬こめかみを押さえ、壁に寄り掛かった。壁が無ければそのまま崩れ落ちてしまいそうだった。


 SLC――サイエントリバティー教会。

 キューバのハバナに本拠地を置く新興宗教。


 科学による人類の救済を謳い、信者から金を巻き上げたり、家族から引き離して監禁したり、独自に開発した新薬を大量に投与したりする。――ミナが言っていたことだ。


 独自に開発した新薬を大量に投与――。

 まさか。


 翔太が口にしようとした可能性は、ミナの手の平に遮られた。




「この話は、一旦止めよう。レンジ抜きじゃ話せない」




 小さな手が拳を握る。

 坂道を転がるみたいに追求の言葉が出そうになる。だが、翔太はそれを寸での所で呑み込み、頷いた。


 嫌な、とても嫌な符号が集まっている。違法薬物、人体実験、SLC、そして、ミナ。


 翔太は、黒いワンピースの女性を思い出した。

 毒殺専門の殺し屋、スマイルマン。彼女は歌うように、うっとりと問い掛けた。


 貴方は毒? それとも、薬?

 あの言葉の意味を、翔太はまだ知らない。












 12.星に願いを

 ⑵啓蟄けいちつ












 薄暗い室内に、誰かがうずくまっている。

 立花は目を細め、室内灯のスイッチを入れた。蛍光灯の白い光が部屋の中の影を追い遣り、其処で漸く、ミナは顔を上げた。


 あまり人前で落ち込まない子供である。弱音や泣き言を溢すのも聞いたことが無い。脇腹や太腿を撃たれた時も、手術で意識が朦朧もうろうとしていた時も、彼は泣かなかった。気丈なのか、頑固なのか、立花には未だに判別が付かない。


 レンジ、と。

 掠れた声が自分を呼ぶ。


 またろくでもないトラブルだろうかと思ったが、そういう時に彼は開き直る。ならば、喧嘩だろうか。他人の言動や評価に一々心を動かされる子供だとは思えない。




「どうした」




 立花は担いで来たSVLK-14Sをデスクに立て掛けた。

 そのまま椅子を引き寄せて浅く座り、ミナの言葉を待つ。置いて行かれた迷子みたいに、ミナは途方に暮れた顔をしていた。


 頼むから、泣くな。

 立花はそんなことを思った。目の前で泣かれても、慰めたり励ましたり出来ない。ミナは察してか知らずか、深呼吸をして、普段の顔を繕った。




「話したいことがある。ショータは抜きで」

「……分かった」




 ミナは、覚悟を決めたような強い眼差しをしていた。

 翔太を抜きにしたいと言うことは、彼の過去に関わるもので、しかも自分だけではどうにも出来ないと悟ったのだろう。


 場所を変えよう、とミナが言った。

 煙草が吸いたかったが、ミナは此方の返答も聞かずに立ち上がり、扉に向かって歩き出した。何となく、放っておいたらまずいと思った。

 立花は机の上に積まれた煙草のケースを一瞥いちべつし、腰を上げた。


 ミナが向かったのは屋上だった。

 普段は洗濯場にしか使っていないせいで、それが無いと殺風景である。空は鈍色にびいろの雲に覆われ、雨の気配がした。


 欄干に背を向け、ミナは凪いだ湖畔こはんのように静かだった。立花は辺りに神経を巡らせながら、彼の言葉の先を予想した。


 ゲルニカの依頼を受ける前から、様子がおかしかった。事務所に微かに漂っていた甘い匂いには覚えがある。恐らく、自分や翔太の不在時にペリドットが来たのだろう。

 何か取引を持ち掛けられたのか。それとも、脅迫された?

 それにしては、無意味なタイムラグがある。


 立花が考えを巡らせていると、ミナは躊躇うみたいに視線を泳がせた。回りくどい話は嫌いだ。長々とした前置きを聞くつもりは無かったので、立花は先回りして言った。




「結論から話せ。翔太の敵は何者だ」




 ミナは奥歯を噛み締めたようだった。

 多分、彼は答えを持っている。




「公安だよ」




 ミナは仮面のような無表情だった。




「ショータの父親は公安の刑事だった。精神病質の娘を医学で救えると信じてた。だから、治療と称した人体実験に娘を差し出した」




 人体実験。

 まるで、心の柔らかい場所を無遠慮に掻き回されているみたいだった。立花は平静を装って先を促した。




「公安の裏でSLCが糸を引いている」




 予定調和的な繋がり方だと思った。

 SLCはミナの敵だ。SLCが実験台にした少女の兄を、ミナが拾ったと言うのだろうか。にわかには信じ難い偶然である。




「そいつ等の狙いは何だ」

「SLCは、科学による人類の救済を謳っている。……スマイルマンが言ってた。警察組織は汚染されているって。SLCの薬物汚染のことだったんだ」




 スマイルマンは毒殺専門の殺し屋で、暴走の末に立花が始末した。彼女はそんなことを言い残したのか。


 警察組織の汚染が薬物だとすると、確かに、彼女にとっては許されざる悪だった。スマイルマンの暗殺にペリドットが来たのも、公安の差し金だろう。彼女の存在は邪魔だったのだ。




「何の薬なんだ。麻薬のことか?」

「分からない」




 この場で嘘を吐く意味は無いだろう。

 立花は舌打ちを漏らした。次から次へと厄介なトラブルばかり引き起こして来る。




「妹が実験台になって、兄貴が無事なんてことも無ぇだろう。翔太には来るべき時に俺から話す。何か訊かれたらそう言っておけ」

「……うん」




 ありがとう、と。

 掠れるような声でミナが言った。

 彼の為ではなかった。放っておけば暴走して事態がややこしくなる。ミナにも翔太にも首輪を付ける必要があったのだ。


 鼻の頭に、雨の粒が落ちる。

 ああ、とうとう降り出したらしい。


 立花は暗雲の立ち込める空を見上げ、溜息を吐いた。

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