⑽エンジェル・リード

 夜露で濡れたアスファルトが、水面のように輝いている。

 喧騒は遠去かり、街は祭りの後のように静かだった。ミナと立花は並んで歩き、翔太はその後ろを影のようにひっそりと追い掛けた。


 ペリドットを見送り、三人で帰路を辿っていた。

 時刻は午前二時。ミナが頻りに欠伸あくびを噛み殺す。怪我人とは思えないくらいしゃっきりと歩いているので鎮痛剤の服用を疑ったが、彼が言うには怪我も大分癒えて来ているそうだ。


 微睡まどろんだ声で、ミナは言った。


 八田冬至は、或る参議院議員の秘書の一人だった。

 五年前、ゲルニカによって一人娘を惨殺され、妻は自殺。絶望の底にいた八田に手を伸ばしたのは、法改正を目論む革新派の権力者だった。


 罪には罰を。外道には相応の報いを。

 彼等の理念はただ一つ。――復讐である。


 復讐に囚われた八田冬至を利用し、ゲルニカによって殺害させる。民衆は残酷な殺人鬼を憎み、恨む。その中でペリドットという殺し屋がゲルニカを処刑することで民衆はカタルシスを共有し、彼等を崇拝する。


 ペリドットと言う存在は、犯罪者の抑止力になる。

 何処かで聞いたような話だ。翔太が見遣ると、立花は忌々しげに顔を歪めた。


 社会情勢や権力争いのことはよく分からないが、今回の事件の裏で何が起きているのか大体のことは予想が付く。


 裏社会の抑止力、ハヤブサの威厳いげんと言うものが衰退すいたいしつつあるのだ。立花自身の能力は決して劣っているとは思わないが、彼一人の存在では抑え切れない程に治安は悪化し、殺し屋たちが力を付けて来ている。社会そのものが複雑になって来ていることも一因だろう。だから、立花に代わってペリドットを祭り上げようだなんて人間が現れるのだ。


 何が起きているのか想像することは出来ても、だからと言って何をすれば良いのかは分からない。

 ミナは、曇った夜空を見上げていた。




「時代は、正義の所在を問うている」




 絶対的な正義、社会的規範、民意の代弁者。

 それは決して間違った欲求ではないけれど、集団というエネルギーは時として誤った道を選ぶ。


 暴走する機関車だと、ミナは言った。

 一度走り出せば止まることは出来ない。皆でやることは正しいことだと盲信し、少数派を弾圧する。だが、そうした過激な行為を選ぶ人間は社会の大多数であり、自身が善人だと信じている。


 集団になる程、思考そのものは縮小する。

 民衆は煽動せんどうし易いのだと、ミナは言った。


 そして、流され易い人間は社会にとって有益な歯車であり、ミナのような人間は社会にとっては悪なのだ。例え、其処に崇高な理念や研ぎ澄まされた正義があったとしても、和を乱す者は弾圧される。


 翔太には、それがとても恐ろしいことに思えた。




「今回の件に、ハヤブサが絡んだというのは追い風になる」




 ミナは言った。

 立花が協力したのも、其処等辺の事情があるのだろう。


 しかし、それは結果論である。そもそも、ミナは社会正義なんてものの為に行動した訳ではない。八田冬至の復讐も、ハヤブサと言う抑止力のことも関係が無かった。全ては、エンジェル・リードと言う個人投資家の社会的信用を得る為だった。


 その結果として比較的マシな結末を迎えたけれど、悪人を罰したい、遺族を救いたいと願った八田やペリドットが間違っていたとは思わない。


 彼等よりも、ミナや立花の方が強かった。

 ただ、それだけのこと。




「あんまり、無茶すんな」




 翔太が言うと、ミナは苦笑した。




「心配させてごめんね」




 振り返ったミナの顔に、一匙ひとさじの後悔が滲んでいた。

 それが本心なのかは翔太には計れないが、多少なりともミナは反省しているようだった。


 ゲルニカが人質としてミナを盾にした時、翔太は心臓が潰れるかと思った。用意周到な彼のことだから何かしらの対抗策もあったのだろうけれど、計画を考えると彼は抵抗の手段を持つことが出来なかった。最悪、あの場所で殺されていた可能性もあったのだ。


 ミナは背中を向けたまま、独り言みたいに呟いた。




「エンジェル・リードが潰されるのは、困るんだ」




 エンジェル・リードは、若い芸術家に資金援助する個人投資家である。どうしてミナがそんなことをするのか全く分からないが、この子供のことだから、エンジェル・リードそのものが目的ではないのだろう。


 見慣れた景色が見えて来る。

 早く寝たかった。瞼が重く、怠かった。事務所の階段を上る刹那、立花が言った。




「……お前が何をしようとしているのか、咎めねぇ。だけどな、あんまり自分を過信していると、痛い目を見るぞ」




 立花は何かを見透かしているようだった。

 ミナは足を止め、金色の瞳を見据えている。それは罰を受け入れる罪人のように無防備で潔く、悲しく見えた。




「過ぎた野心は身を滅ぼすぞ。お前が思う程、民衆は馬鹿じゃねぇし、人間は強く出来ていない。自分が特別な存在だなんて思うな」




 立花の忠告は、通り雨のように容赦無く降り注ぐ。

 ミナは何かを堪えるみたいに俯き、眉根を寄せた。それはきっと彼の誠実さであり、もろさだった。そして、顔を上げた時にはいつものように微笑んでいた。




「Thanks for your advice」




 ミナは舞台演者のように深々と頭を下げた。再び顔を上げた時には、光り輝くヒーローを体現するかのように、堂々と胸を張っていた。


 小さな背中が階段を上る。

 聞き慣れたボーイソプラノが歌を口ずさんでいる。




「Hallelujah……」




 柔らかく澄んだ歌声は、恐ろしいくらいに伸びやかで美しかった。背中を向けた彼がどんな顔をしていたのかなんて、翔太には分からない。

 立花の忠告をどのように受け止め、翔太の苦言にどのくらいの関心を示し、ペリドットの言葉をどんな思いで聞いていたのかなんて。


 ただ一つ分かるのは、彼が立ち止まらない人間であるということだけだった。ミナという人間は、崖の淵を裸足で駆けて行くような少年だった。


 翔太には、それが少し、怖かった。

 いつか、この子が闇の底に真っ逆様に転落して、差し伸ばした手も掴もうとしないのではないかと。そんな空恐ろしい予感が、あった。










 11.ゲルニカ

 ⑽エンジェル・リード










 初春の風がレースのカーテンを揺らす。透き通るような日差しは美しく、力を込めれば砕けてしまう硝子細工のように繊細だった。磨き込まれた鏡のような蒼穹に雲は無く、とんびが真っ直ぐに引き裂いて行く。


 畳敷きの独房のような安アパートの一室に、一枚のキャンバスが墓標の如く突き立てられている。乾いた油絵の具をパレットナイフが削り、シンナーに似た油絵の具の臭いが鼻を突く。ミナは畳の上に胡座あぐらを掻き、キャンバスに向かう青年の後ろ姿を眺めていた。




「ノワール」




 青年――ノワールは、精緻せいちな作業をこなす職人のように静かだった。呼んでも振り返りもしない、関心も示さない。けれど、ミナには、そのぞんざいな態度が気を許してくれているように感じられて、心地良かった。


 繁華街から電車で二十分。学生の多い寂れた街の一角に、彼の住居は有った。トタンの赤い屋根、漆喰しっくいの壁、二階建ての安アパート。今時、トイレ風呂共同のワンルームが全部で十室。ノワールの住処は一階の角部屋だった。


 玄関は北向きで、湿った土にドクダミが群生している。割れた石畳は苔生し、手入れの行き届かない庭は雑草が伸び放題である。廃屋はいおくのような寂れた建物に、ノワール以外の住人を見たことは無い。


 其処はまるで、忘れ去られた楽園のようで、完成された箱庭のようで、不可侵の聖域のようだった。

 ノワールは持て成しもしないけれど、出て行けと追い出しもしない。殺し屋である彼が無防備に背中を向け、何かに没頭し、その姿を見せてくれる。ミナを否定しないし、肯定もしない。ただ其処にいてくれる。


 きっかけは、喫茶店に飾られていた絵画だった。

 写実的な花の絵を見て、ミナは写真を貼れば事足りると言った。


 ノワールは笑った。

 そして、言った。


 芸術とは表現である、と。

 万人の心を打つ写真もあるだろう。子供の落書きが人を救うこともあるだろう。言葉の羅列が未来を形作ることもあるだろうし、大衆向けの映画に涙を流すこともあるだろう。情報伝達の効率性ではなく、芸術とは徒労の極地だと。


 芸術がどんなものかなんて、ミナは知らなかった。興味も無かった。写真にすれば一瞬で終わるのに、油絵にすれば一年以上も掛かる。

 まじまじと絵画を見ていたら、ノワールが家に誘って、油絵を見せてくれた。


 知識として画材や技法は知っていたが、実際に見るのは初めてだった。幾度も塗り重ねられる絵の具、おぼろげに浮かび上がる影の輪郭りんかく揮発きはつする油の臭い。その全体像が見えて来た時になって、ミナは自分の発言が如何に浅慮せんりょで無粋なものだったかを痛感した。


 絵画の良し悪しや、才能の有無はよく分からない。だけど、ノワールの絵には、何かがあると思った。大切なものは目に見えない。触れられなくても、其処には確かに存在する。


 キャンバスを埋め尽くすビルの群れ、ぼんやりとした街の看板。列を成す車と人の波。ミナのよく知る繁華街の風景が青いグラデーションに塗られ、まるで海底に沈むアトランティスのようだった。潜水艇で何処までも潜って行くみたいに、ノワールの世界を見せてもらった気がした。


 死なせたくないと、心から思った。

 何が出来るかは分からない。それでも、彼の為に何かがしたいと本心から思った。


 エンジェル・リードを立ち上げることを決めたのは、その時だった。


 若い芸術家に資金援助する個人投資家と言う立場があれば、彼を直接後押し出来る。ノワールの絵に芸術的な価値があるかどうかは、正直分からない。例え彼の絵が脚光を浴びなくても、彼の立場を社会的に肯定出来る。


 いつか、自分が稼いだ資金で、ノワールが海外に足を運んで、くすぶる若い芸術家を救うような、そんな未来を思い描いた。エンジェル・リードが理不尽や不条理の雨から彼を守る傘になれば良いと思った。


 エンジェル・リードは、ノワールや翔太のような社会から弾かれた人間を救い上げる隠れ蓑、踏み台である。何でも救えるとは思わない。だからせめて、大切だと思った相手を守れるような強さが欲しい。


 ラピスラズリのような深い青色を塗り重ね、ノワールは筆を止めた。キャンバスの前で腕を組んで唸る姿は偏屈な職人みたいでおかしかった。


 ミナが笑うと、ノワールが振り向いて、はにかむみたいに笑った。こんな微温湯みたいな時間がいつまでも続けば良いと、思った。


 他人の嘘を見抜くことが出来る自分は、他人と信頼関係を構築することに向いていない。だけど、その人といる自分が好きだと思うのなら、例え嘘だと分かっていても信じる。

 この場所にいる時、ミナは自分が無力で、愚かで、崇高だと思えた。生きていることを実感し、酸素の存在を意識出来た。


 傷付くことを恐れていては、本当の友達なんて作れない。

 幼い頃、弟に教えられたことだ。




「お前は大物になる気がするぜ」




 絵筆をもてあそびながら、ノワールが言った。




「その時は、ノワールを養ってあげるからね」




 嘘じゃなかった。冗談のつもりも無かった。ノワールが鼻を鳴らし、視線を逃す。照れている時の、彼の癖だった。

 兄の話をする時、彼は誇らしげに、何処か恥ずかしそうにした。


 優しい兄だったと。

 強い人だったと。

 自慢の兄を、心の底から尊敬していると。


 そんなノワールの話を聞いている時、胸の中が温かくなって、母国の弟を思い出した。


 ペリドットに言われたことを、覚えている。

 お前の地獄に他人を巻き込むな、と。

 あの言葉の意味が、痛い程に分かる。


 家族が大切だ。笑っていて欲しい。幸せでいて欲しい。その為なら何でも出来る。抱き締める愛があれば、突き放す愛もあるだろう。兄と言うのは、弟妹の為なら大抵の事は受け入れるし、その幸せを守る為なら幾らでも骨を砕く。


 ミナも、ペリドットも、兄だった。

 どんな事情があるのかは知らないが、弟を突き放すのなら理由があるのだろうし、ミナにはペリドットが悪人だとは思えなかった。


 笑っていろと、父が言った。

 この世で一番強いのは、笑っている奴なんだと。

 諦めないことを誓った。立ち止まって守れるものなんてありはしない。大切なものを、人を、場所を守れるように。


 携帯電話が鳴った。部屋の中を満たす穏やかで温かな空気は、そっと冷めて行く。ミナは少し目を閉じ、現実と対峙する覚悟をする。


 目を開けた時、ノワールが不思議そうに見詰めていた。

 エメラルドの瞳は透き通るように美しく、輝いている。ミナは笑ってポケットに手を伸ばした。


 闘う準備は出来ている。

 どんな困難の中にも希望の光は差し込み、どんな地獄にも花が咲く。止まない雨も、明けない夜も無い。叱責も罵倒も、殺意も悪意も怖くは無い。


 俺たちは、夜明けを知っている。

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