⑵危ない橋

 事務所の一階はテナントになっている。

 コンクリート打ちっ放しの寂れた空間は廃墟はいきょのような印象を与える。横には無理矢理空間を作り出したみたいな駐車場があり、立花の愛車である黒のBMW一台がどうにか停められる程度である。


 空は既に暗かった。竹林に長居したつもりは無いけれど、辺鄙へんぴな場所にあるせいで移動時間が掛かるのだ。翔太は車の荷台から着替えや弁当等の荷物を下ろした。


 荷物を両手に下げて、真っ直ぐ三階へ向かった。事務所のある二階には洗濯機が無いのだ。翔太が三階の扉を開くと、濃厚な珈琲の匂いがした。

 ミナはベッドに腰掛けて、膝にパソコンを置いていた。翔太の帰宅に気付くと勢いよくパソコンを閉じ、仮面のような美しい微笑みを浮かべた。




「おかえり」

「ああ、ただいま」




 いつか立花も言っていたけれど、出迎えてくれる人間がいるというのは良いものだ。ミナはパソコンを横に置くと翔太の荷物から洗い物を受け取って、当たり前みたいに家事を始めた。


 キッチンにミナが立っている。

 白いシャツにベージュのカーディガンを羽織り、黒いスキニージーンズに包まれた脚は細く長い。松葉杖も鎮痛剤も無く歩けるのは、子供だから治癒力が高いのか、熱心なリハビリが効いているのか。


 ぴんと伸びた背中が綺麗だった。翔太がぼんやりしていると、弁当箱を洗い終えたミナが言った。




「レンジは?」

「事務所で煙草吸ってるよ」

「また煙草を買って来たの? せっかく、隠したのに」




 最近、立花が煙草を吸う姿を見ていないと思ったら、ミナが隠していたらしい。ヘビースモーカーが煙草を取り上げられるなんて相当なストレスになりそうだが、ミナがやると子供の悪戯みたいでどうにも憎めない。


 濡れた手をタオルで拭きながら、ミナはベッドに戻って行った。そのままパソコンを抱えて部屋を出て行こうとするので、翔太も付いて行った。

 事務所に向かう途中、今日の話をした。立花の神業かみわざ、近江の言っていたこと。階段を降りるミナは振り返らないけれど、丁寧に相槌を打ってくれた。


 事務所の扉を開ける。

 立花は定位置で新聞を広げていた。ミナはパソコンを脇に抱えて真っ直ぐに机の元に歩み寄ると、まず先に「おかえり」と言った。

 その声は低く、重かった。何かあったのだろうか。

 翔太は後ろ手に扉を閉めた。立花は新聞から目を上げて、訝しみながらも「ただいま」と答えた。


 翔太からはミナの後ろ姿しか見えなかった。

 空気が張り詰めて行くのが分かる。自分達が不在の間、何かがあったのだろうか。


 ミナの肩が僅かに上下する。深呼吸をしたのだろう。




「ハヤブサに依頼が来てる」

「へぇ」




 立花は気の無い返事をして、新聞を畳んだ。

 金色の目が冷たく見詰める。ミナが言った。




「依頼主は国家だよ」

「また?」




 問い掛けたのは翔太だった。

 ミア・ハミルトンの護衛の時も依頼主は国家だった。ペリドットという国家公認の殺し屋がいるのに、外部に委託して来るというのは不自然だ。


 ミナは詳細を説明しなかった。重く苦しい沈黙が流れる。向き合った立花は奇妙に静かで、まるでミナの一挙一動を観察しているようだった。




「断れ」




 突き放すように、立花が言った。

 当然だ。国家という組織の中で何かが起こっているとしか思えない。ハヤブサはそれに巻き込まれようとしている。

 ミナは分かった、と短く言って、息を吐いた。




「危ない橋を渡るつもりは無ェ。お前が嫌だと思うなら、依頼は受けなくて良い」




 変わったな、と思った。

 翔太がこの事務所に来た頃の立花は、ミナの意思や意見を受け入れなかった。では、何が立花を変えたのか。


 立花は、逆境の中で生きて来た人間だ。家族に愛されて恵まれたミナとは違う。自分の身一つで凡ゆる障害を乗り越え、今の立場を獲得した。

 そんな立花が自分の立場を蔑ろにしてでもミナの意思を尊重してくれているのは、信頼以外の何者でもないと翔太は思うのだ。




「分かった」




 振り向いた時にはミナはいつも通りの穏やかな顔付きだった。張り詰めていた緊張感が解かれ、肩の荷が降りたかのようなほっとした空気を漂わせている。


 彼等の関係性について、翔太にはまだよく分からない部分がある。けれど、抜身の刃みたいに凡ゆるものを警戒する立花が、気を許せる場所が一つでも多く出来たら良いと、思った。









 11.ゲルニカ

 ⑵危ない橋









 新聞の一面に、気味の悪い記事が載っていた。

 中部地方の都市部で、不気味な殺人事件が起こった。遺体の損壊は激しく、まともな状態ではなかったらしい。警察は捜査本部を設置して解決に乗り出しているが、証拠の類は見付からず、マスコミは猟奇殺人だと報道している。


 三人目の被害者が出た時点で、警察はまだ確たる証拠を掴めていなかった。そんな頃、地方のテレビ局に犯人を名乗る者から電話が入った。


 貴方が殺したのですか。

 問い掛けるスタッフに、犯人らしき者はこう答えた。

 いいえ、貴方達がやったのです――と。


 ドキュメンタリー映画みたいな仰々ぎょうぎょうしい組み立てで流れて行く映像を、翔太は事務所のテレビで見ていた。立花は定位置で新聞を読んでいたし、ミナはパソコンを操作してテレビに見向きもしなかった。


 中部地方で起きた猟奇殺人。

 詳細は市民には知らされない。箝口令が敷かれたことで人々の恐怖は深まり、出歩く人が減り、経済は停滞し、不安から混乱が起きる。


 そして、四件目の犯行は、県境で起きた。犯行範囲が広がったことで世間はパニックになった。被害者に関連性が無かったのだ。無差別猟奇殺人である。人々は疑心暗鬼に陥り、SNSは不安を煽り、警察を叱責する。


 犯人は北上している。やがて、この国の中枢に至る。

 そんな予言めいた言葉がSNSで飛び交った。




「レンジ」




 回転椅子を回して、ミナが振り向いた。

 捨てられた子犬みたいな情けない顔だった。立花は新聞から目を上げ、低い声で「どうした」と問うた。




「相談したいことがある」




 ミナは居住まいを正して、立花を真っ直ぐに見据えた。




「国家から依頼が来たって言っただろ。……依頼内容は、ミア・ハミルトンの時と同じ。この犯人の護衛、延いては脅威の殲滅だ」




 立花が片眉を跳ねさせた。

 ミナがそれを告げたのは、先週のことだった。立花はミナが受けたくないのならば断って良いと言っていたが、まさか、連続殺人犯の護衛だなんて思わなかった。


 ミナが受けたがらないのも心情として理解出来る。


 翔太は、罪には罰が下るべきだと思う。殺人鬼が殺し屋に護衛されるなんてこの国の司法は終わりだ。


 立花は暫し沈黙し、新聞を閉じた。




「俺は正義の味方じゃねぇし、国家の為に仕事してる訳じゃねぇ。知らない人間が幾ら死んだってどうでも良い」




 砂漠みたいな乾いた声だった。

 ミナは唸るような相槌を打ち、顎に指を添えた。




「お前が依頼を断った理由は何なの?」




 ミナの背中に向かって、翔太は尋ねた。

 この子供は衝動的な所も多いが、意味の無いことはしない。嫌な予感とか気紛れとか、根拠の無いこともしない。


 暗殺なら兎も角、国家からの依頼で連続殺人犯を守れだなんて、正気の沙汰じゃない。何か後ろ暗い陰謀があることは明白だった。この犯人が生きていることでメリットを得るのは誰なのだ。


 ミア・ハミルトンの護衛をした時、自分達は国家内の派閥争いに巻き込まれていた。依頼は達成されたけれど、リスクに見合わない危険な仕事だった。


 パソコンに向き合ったまま、ミナが言った。




だよ」




 意味が分からなかった。

 立花ばかりが納得したみたいに頷いて、深い溜息を吐いた。




「……依頼人は何者だ?」




 尤もな疑問だった。

 ミナは狭い眉間にぎゅっと皺を寄せた。




「この犯人の父親」




 連続殺人犯の身内からの依頼だったのか。

 翔太は溢れる溜息を押さえられなかった。


 子供を守ろうとする親の愛は尊いものだと思うが、これは全く別の話だ。親ならば罪を償わせるべきだろう。




「未成年で、更生の余地があると」




 言っていることは、分かる。

 だが、納得出来ない。と言うか、どうして立花に依頼が来るのか分からない。それは警察の管轄だろう。




「この犯人は司法にコネクションを持ってる。捕まっても大した罰は受けず、すぐに社会に解き放たれるだろう。その時のリスクを国家は払えない」

「なんだよ、それ」




 責任を外部に押し付けて、一体何のつもりなのだ。

 他人を何だと思っているのだ。


 苛立ちが静電気のように肌をピリ付かせる。立花はとても、とても静かだった。翔太には、彼が何を考えているのか想像も出来なかった。


 立花は雑音のように流れるテレビ報道を見遣り、金色の瞳をミナに向けた。其処には怒りも悲しみも無い。立花が時折見せる伽藍堂の眼差しが、翔太には痛かった。




「依頼内容は脅威の殲滅と言ったな。それは何のことだ」

「この犯人を巡って、派閥争いが起きてる。うちに護衛依頼が来てるように、暗殺依頼も出てるんだ」

「何処に」




 立花が問いただすと、ミナはさっと辺りを見渡した。三人しかいない事務所の中で、まるで招かれざる客がいるかのようだ。

 ミナはゆっくりと瞬きをして、言った。




「ペリドット」




 悪寒が背筋を駆け抜ける。

 翔太は、ミナが依頼を受けたがらなかった意味を理解した。

 ペリドットは国家公認の殺し屋である。彼がこの犯人を暗殺しようとしているのならば、必ず対峙する時が来る。


 立花は、危ない橋を渡る必要は無いと言った。

 断ったって良い筈だ。リスクばかりが高くて、得るものは何も無い。依頼を受ける必要すら翔太には感じられなかった。


 立花は金色の目を眇めた。




「この依頼を受けるメリットが見えて来ないし、お前がどうして欲しいのか分からねぇ」




 受けたくないのなら断って良いと立花は初めから言っている。ミナが食い下がる理由が分からない。

 ミナは膝の上で手を組み、逡巡するように目を伏せた。顔を上げた時、ミナの目には底冷えするような怜悧な光が宿っていた。




「こいつが邪魔だ」




 断頭台の刃のような無慈悲さで、ミナが言った。

 しかし、立花は面白いものを見付けた子供みたいに口角を吊り上げて笑っていた。


 ミナは人形のような無表情で続けた。




「こいつの存在も、コネクションも、国家の思惑も全部、邪魔だ。だから、叩き潰したい。力を貸してくれ」

「……殺せって?」

「違う」




 ミナが明確に否定したので、翔太はほっと胸を撫で下ろした。誰にも死んで欲しくないと言っていたミナが、あの頃と変わりない正義を保っていることが嬉しかった。


 立花は新聞を畳んで机に置くと、肘を突いた。




「説明が足りねぇな。どうしてお前がこいつを邪魔と思うのか、どうしたいのかちゃんと話せ。手を貸すかどうかは、それから決める」




 ミナは数瞬の沈黙を挟み、パソコンを膝に乗せて振り返った。長い睫毛の下、濃褐色の瞳は相変わらず透き通り、残酷に美しかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る