⑶スマイルマン

 立花から着信が入っていた。

 丁度、ミナは別件で通話をしていたので翔太に掛けたのだろう。折り返すと、不機嫌さを隠しもしない低い声がスピーカーから聞こえた。


 駅前の雑踏を眺めながら、翔太はこれまでの経緯を説明した。ミナから報告があったとは思うが、漏れがあったら困る。いざと言う時、翔太が頼る相手は立花しかいなかった。


 立花は確認するみたいに、重く、静かに問い掛けた。




『お前等、スマイルマンの獲物に手を出したな?』




 背筋に冷たいものが走った。

 何のことだ。分からない。スマイルマンは毒殺専門の殺し屋。自分達とは接点が何も無い。




『迎えに行ってやるから、其処から動くな』

「分かった。……スマイルマンって、どんな奴なんだ。見た目とか、特徴とか」




 相手の姿が分からないのでは、気を付けようも無い。

 駅前の喧騒の中、立花の声は不思議によく通った。




『年齢も国籍も分からねぇ。だが、スマイルマンは、女だ』




 その瞬間、猛烈な悪寒に襲われた。肌一面に鳥肌が立って、己の意思とは無関係に膝が震える。

 翔太が連想したのは、赤いエプロンの女性だった。

 説明されなくても、自分達の状況くらい分かる。スマイルマンという殺し屋の矛先が向いているのだ。


 ミナは何処だ。

 翔太は咄嗟にミナを探した。隣にいたはずのミナの姿が無かったのだ。不意に目を向けると、交番に向かう小さな背中が見えた。


 通話は切らずに翔太は交番まで走った。丁度、昼食の時間らしく、交番では桜田が炒飯チャーハンを食べようとしていた。

 ミナは勢いよく机に手を突くと、炒飯の乗ったお盆を引っ繰り返した。炒飯が飛び散り、蓮華れんげが宙を舞う。茫然と目を見開く桜田。背中を向けたミナの顔は見えない。




「食べるな!」




 拡声器でも使ったかのような大声が、交番内に響き渡る。桜田は椅子に座ったまま、両手を軽く上げて硬直していた。




「毒を使う殺し屋が、警察官を狙ってる」

「何のことやねん……」




 桜田は床に散らばった炒飯を残念そうに見下ろしていた。

 まさか、と嫌な予感がする。何の変哲も無い炒飯だった。まさか、其処にも毒が?


 ミナと桜田は暫く睨み合った。そして、根負けしたみたいに桜田は肩を落とした。


 その時だった。駅の改札口から悲鳴が聞こえた。桜田を含めた警察官が血相を変えて走り出す。取り残された翔太とミナは騒ぎの先を遠目に伺った。


 人が倒れているようだった。

 タイルの床に血が広がっている。思わず口元を押さえると、ミナが肩を叩いた。




「その薬、ちょっと貸して」




 翔太がポケットから取り出すと、ミナは殆ど引っ手繰るみたいにして袋を開けた。手の平に一粒転がすと、ミナは鼻先を付けて臭いを嗅ぎ、あろうことか指先に擦り付けて舐めた。




「何やってんだ!!」

「ストリキニーネじゃない。何だろう、この感じ。覚醒剤とも違う」




 ミナは口元を入念に拭うと、思考の動作を取った。

 毒物ではないらしいが、恐らくそれはブラックと呼ばれる違法薬物なのだ。それを無人とは言え交番の中で舐めるなんて頭がおかしい。




「俺はこれを、知ってる」




 ミナは錠剤を袋に戻すと、今度は翔太には渡さずに自分のポケットに入れた。

 翔太の携帯電話が立花と繋がっていることを察すると、当たり前みたいに奪い取った。




「レンジ。俺はこの薬を知ってる」

『どういうことだ?』




 翔太は耳をそばだてた。駅前はパニックに陥り、遠くからサイレンが聞こえた。人集ひとだかりの合間に見えたのは、制服姿の警察官だった。血を吐いて倒れたのは、警察官らしい。




「SLCの新薬だ」




 何のことか分からない。だが、ミナの言葉を聞くと立花は「すぐに行く」とだけ言って通話を切った。

 非常事態が起きていることだけは分かった。ミナと立花の焦りや緊張が伝染する。翔太は滲み出る冷や汗を拭った。




「SLCって何だ」




 ミナは少し迷ったように視線を泳がせた。




「移動しながら話そう。レンジと合流したい」




 そう言って、ミナは駆け出した。








 9.毒と血

 ⑶スマイルマン









「SLC ――サイエントリバティー教会は、キューバのハバナに本拠地を置く新興宗教だ」




 薄暗い路地裏で、ミナが言った。

 その目は無機質に光り、喜怒哀楽の類が死に絶えたかのような無表情だった。




「科学による人類の救済を謳い、信者からお金を巻き上げたり、家族から引き離して監禁したり、独自に開発した新薬を大量に投与したりする」

「カルトってことか?」

「そうだよ。世界中に一万人近い信者がいるとされている。少し前に事件を起こして教主が逮捕されたんだけど、組織そのものはまだ解体してない」

「そいつ等の作った新薬が、そのブラックなのか?」




 ミナは答えなかった。僅かに伏せられた横顔に、見たことの無い焦りや緊張、恐怖のようなものが感じられる。

 翔太は慎重に言葉を選んだ。




「そいつ等の目的は何なんだ」

「分からないけど……」




 独自に開発した新薬を大量に投与する――。

 まるで、人体実験だ。翔太はその言葉を何処かで聞いた覚えがあった。


 ミナは眉間に皺を寄せた。

 嫌悪感のようなものが滲み出ている。




「SLCは政治や軍事とも癒着ゆちゃくしている。関わるべきじゃない」




 確かに、そうなんだろう。

 そんな巨大な組織を相手に一個人が太刀打ち出来るはずも無い。例えそれが凄腕の殺し屋だとしても、賢い子供だとしても。


 新興宗教、違法ドラッグ、スマイルマン。無数の糸が絡まって、現状の把握が困難になる。翔太は頭を掻きむしりたい心地だった。深呼吸をして、ゆっくりと瞬きをする。


 毒殺専門の殺し屋、スマイルマンの狙いは警察だった。だから、警察署で毒をばら撒き、眼前で毒殺を試み、交番にいた桜田を狙った。でも、立花は、獲物に手を出したと言った。

 翔太もミナも、スマイルマンと関わりが無いのだ。ましてや、狙われる理由など。


 ミナが言った。




「スマイルマンは独自の正義を持ってるって、レンジが言ってた。……もしかすると、スマイルマンの獲物は、この薬の使用者なんじゃないかな」




 ミナの声は鉄の塊みたいに冷たく、重かった。

 翔太にも、その言葉の意味が分かった。スマイルマンが違法薬物の使用者を狙っているとしたら、意図せずそれを所持した自分達が狙われたのも分かる。

 そして、スマイルマンが警察署を狙った理由。それは。




「警察は薬物が蔓延しているのかも……」




 マスコミが喜びそうなネタだ。

 翔太は自嘲した。


 この国は腐っている。政治家は金や権力に腐心し、司法は民間人を守らない。報道は規制され、殺し屋が暗躍する。

 そんなことは、分かっている。そして、翔太にはどうでも良いことだった。スマイルマンのように悪を罰したいとは思わないし、権力を得たいとも考えない。ただ、身に迫る脅威から逃れる方法が欲しい。




「俺達じゃ手に負えない。早くレンジに」




 ミナはそう言って、ビデオの一時停止みたいに固まった。

 喉元に刃物を突き付けられているような緊張感に襲われ、脊髄反射で振り返る。薄暗い路地裏に、黒いワンピースの女性が立っている。


 ボリュームのあるワンピースはレースがふんだんにあしらわれており、ビスクドールのドレスみたいだった。所謂、ゴスロリと呼ばれるファッションである。黒い詰襟つめえりのブラウスに黒いガウン。金色のボタンがやけに眩しかった。


 その女は、あでやかな黒髪を風に流し、淑女しゅくじょのように静かに立っていた。両目に覇気はきは無く、人形のようにただ美しく微笑んでいる。


 歌が、聞こえる。

 澄んだ鈴の音のように、それは薄暗い路地裏に反響する。




「My mother has killed me……」




 英語の歌だ。翔太には耳馴染みみなじみが無い。

 ただ、それがとても恐ろしいものだと、本能で知っていた。




「My father is eating me……, My brothers and sisters sit under the table……」




 マザーグース。

 独り言みたいに、ミナが呟いた。




「Picking up bury them under the cold marble stones……」




 翔太もミナも、動けなかった。

 二人の視線は、女の容姿から、右手に下げられた注射器に向けられていた。銀色の針からは何かの液体が滴り落ちる。それはまるで、涙のように。




「悪い子ね」




 女が、言った。

 その声は慈愛に満ちているのに、濃厚な殺気が滲み出ている。


 隣で、つばを呑み込む音がした。




「貴女が、スマイルマン?」




 ミナの声は固かった。女はうっとりと微笑み、肯定した。




「貴方は毒? それとも薬?」




 意味の分からない問い掛けに、頭の中がぐちゃぐちゃになる。酷い耳鳴りに、耳の奥が刺すように痛んだ。


 緊張と恐怖に心臓が潰れそうだった。明確な殺意を向けられて、嫌な記憶がフラッシュバックする。翔太は奥歯を噛み締めてミナの前に腕を広げた。

 ミナは翔太の腕の上からあの真空パックを掲げた。




「これは拾ったんだ。落とし主に届けたくて、警察署に行った。ただ、それだけだ」




 スマイルマンは笑った。




「貴方は悪い子ね。だから、私が殺してあげる」




 話が通じないことを、ミナも悟っただろう。

 スマイルマンは独自の正義を持っている。頭がいかれている。立花の言葉が走馬灯のようによぎり、翔太はミナの腕を引っ掴んで走り出した。


 その瞬間、路地裏は真っ白な煙に包まれた。


 目が鋭く痛み、肺が発火しそうに熱い。視界がぐらぐらと揺れて、目の前には汚れたアスファルトが映った。

 後ろでミナが崩れ落ちる。引っ張られるようにして翔太も倒れ込んだ。スマイルマンのヒールの音が不気味に響く。


 頭が痛い。目が回る。指先がしびれて、体が動かない。

 冷や汗が全身から吹き出して、耳の側で脈が聞こえた。




「貴女の狙いは、警察だろ……!」




 ミナの掠れた声がした。

 どうにか振り返ると、ミナはうつぶせのままスマイルマンに訴え掛けていた。

 スマイルマンはガスマスクをしていた。その時になって、路地裏を包んだ白煙が毒であることに気が付いた。




「警察は汚染されている。誰も救わないというのなら、私がやる」




 警察組織の汚染。

 ミナの予想は、当たっていたのだ。

 腐敗を取り除く為に、スマイルマンは警察官を無差別に毒殺すると言う。無茶苦茶で、自分勝手で、破滅的な独善だった。




「警察組織が汚染されていることは、知っている。でも、全ての警察官が腐っている訳じゃない」




 絞り出すような声で、ミナが言った。




「泥の中をいながら、明日を信じて闘う者だっている」




 翔太の脳裏には、桜田の笑顔が蘇った。

 全ての人間がそうではない。ミナは幾度と無くそう言った。悪人もいるし、善人もいる。誰かの正義は誰かの悪で、其処に貴賎きせんなんてものはありはしない。




「貴女の遣り方では、何も変えられない」




 ミナ――。

 この子は、いつもそうだ。殺されるかも知れない、死ぬかも知れないその時に、自分のエゴを貫こうとする。相手が殺し屋で、倫理観の欠如した異常者であったとしても、びたりへつらったり、誤魔化したりしない。


 この子は、折れない。折れられない。

 だから、命乞いもしない。例え、それが命取りになるとしても。




「子供を殺すのは趣味じゃないんだけどね」




 スマイルマンが距離を詰める。

 何かの液体で満たされた注射器がかかげられ、針のきっさきが鋭利に光る。ミナは動けない。逃げられない。針先が腕を突き破る――刹那。乾いた破裂音が響き渡った。


 注射器が粉々に砕け、液体がアスファルトに散乱する。その銃弾は、スマイルマンの足元を抉り、湯気のように硝煙を立ち昇らせていた。


 スマイルマンと翔太が振り向いたのは同時だった。

 白い煙の向こう、すっと背の高い男が立っていた。


 夜の闇に似た黒髪と、エメラルドグリーンの瞳。

 構えられた銀色の銃と革のジャケット。立花じゃない。彼は、ワタルと自分を襲った謎の襲撃者だ。けれど、ミナにとっては違うらしかった。


 ミナは、泣き出しそうな顔でその名を呼んだ。




「ノワール……!!」




 銀色の拳銃が鈍く光る。

 ノワールと呼ばれるその青年は、睨み殺すかのような鋭い目付きでスマイルマンを見据えていた。

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