エモーション・ドロップ

撈月シン

水仙〈上〉

 誰かに誘われなければ、絶対に赴くことのないような、高い喫茶店だった。香りのよい珈琲と、生クリームが添えられたシフォンケーキ。(かわいい趣味をしている)


 あの日のわたしの手には、今膝の上にある本があった。わたしはどこに行くときでも、本を鞄に入れていた。その理由は、必ずしも読むためではなく、まちまちだった。

 彼女は、本を見て、わたしを見て、こう訊く。


「本、好きだったっけ」


 彼女はまるで、昔のわたしを知っているかのような口をきくけれど、そんなはずはない。付き合いは短い。わたしはいい話し相手にされているだけだ。

(別にかまいやしないけれど)

 だから、


「そうでもない」


 と答えた。彼女は、満面の笑みでそうだよねぇと言った。別に答えは求めていないという顔だった。


「で、が旦那なの」


 と側に座ったそれ(というのも人のようには見えないのだ)に体を寄せた。

 まるで豚のようだ。というか、豚なのだ。たぶん。窮屈そうに椅子に座り、縮こまっている。

 それでも、満面の笑みで会釈をしてきた。(ふつう、なのか)

 彼女はそれを尻目に、わたしに顔を寄せた。爽やかな香水が香って、わたしは思わず目を細めた。



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