栗須純の日常

nekotatu

おうち時間

俺、栗須純くりすじゅんは暗い空間にいる。

ここでは考えたことが実体を持つことができる。

どうしてかはわからないが。

そう、例えばコーヒーの風呂にひよこを浮かべるような……

俺は何を言っているんだ?

コーヒーの芳醇な香りが鼻腔を漂う。

コーヒーが目の前にあるわけでもないのに?

いや、これはもしかして……


「夢か……」


ゆっくりと目を開けると、そこは見慣れた白い天井、自分の部屋だった。

コーヒーの香りはリビングから流れてきたのだろうか。いや、恐らくいつもの嫌がらせだろう。全く嫌ではないけども。

以前もこんなことがあった。


俺には10歳以前の記憶が無い。

両親のこともわからず、保護されてからは柳家に育ててもらった。見知らぬ不気味な子供である俺を受け入れてくれた義父と義妹には感謝しかない。

しかし、その義妹である柳圭衣やなぎけいが少々おせっかい……いや、面倒見がよく。

家を出て独り暮らしを始めてから10年経った今でも、週に2回ほど家事をしに来てくれる。

朝ごはんとコーヒーが用意されている日が圭衣がいるという目印である。


嫌がらせというのは、学生時代の俺が二度寝三度寝して生活習慣を乱しまくったとき、圭衣が部屋のドアを思いっきり開けて「純さん!朝ですよ!……二度寝?そんなこと言えないよう、コーヒーの香りで満たしてあげますね。もちろん嫌がらせです」と、部屋のなかに轢き立てコーヒーを置いていった事に由来している。


おっと、あんまり待たせているとまた目玉焼きに醤油をかけられかねない。俺は塩派だ。

さっと着替えてリビングに行くと、やはり圭衣が台所に立っていた。テーブルの上にはほかほかのトーストと目玉焼き、そしてコーヒーが並べられている。


「純さん、おはようございます。この洗い物が終わったら醤油をかけようと思っていたのですが」


「それは困るな。ぎりぎりセーフだったか」


「ええ、残念ながら。ところで、すごい寝癖ですよ。今日も佐都さんがいらっしゃるなら、早く直してきた方がよいのでは?」


「多分来るだろうな。顔も洗ってくるよ」



顔を洗ってリビングに戻ると、圭衣が洗い物を終えてエプロンを脱ぎ、高校指定の鞄を手に取るところだった。


「今日はもう帰るのか?」


「私は勉強会がありますので、これで失礼します。でも純さん、もし記憶の手がかりが見つかりそうになったらすぐに駆けつけますので」


「わかってる。それに圭衣にはいつも感謝してる。朝ごはんのことも、記憶のことも」


「朝ごはんは放っておくとろくなもの食べないじゃないですか。記憶だって貴方のためじゃない」


「それでも俺は嬉しいから。ありがとう」


圭衣は表情を変えないまま、用は済んだと家を出た。

圭衣は恐らく、俺のことが嫌いだ。

特に嫌われることをしたわけではないし、悪意を向けられたこともないが、昔からそんな感じがした。

まあ、圭衣の気持ちはわからずとも、俺にとって圭衣にかけがえのない恩があることは変わらない。

いつか圭衣に返せるといいんだが。


圭衣を送り出し朝ごはんを食べた後は、自由時間である。仕事も今日は休みだし、一人でのんびり読書でもできれば充実した日になるのだろうが……10時になったので、そろそろ来るだろうと玄関まで向かう。


ドアの前に立つとがさごそと物音がしており、覗き窓の向こうではちょうど今来たところらしき佐都が両手の荷物に苦戦しつつインターホンを鳴らそうとしていた。


「あれー?やっぱり持ってきすぎたかな……ぐっ……重い……純ー!助けて純ー!」


俺を呼んでから車まで取りに来させればよいものを……。

俺はため息を吐きつつドアを開け、佐都の荷物を一袋取り上げた。


「おっ純!ありがとう助かったー!」


「ぐっ……」


取り上げた荷物が思ったより重く、いったい何が入っているのかと覗き込めば、それは全て本だった。


「これ、俺が次に書こうとしてる小説の資料!純の家で読ませてもらおうと思って」


佐都……佐都春馬さとはるまは俺の幼馴染みであり、俺が仕事で担当している作家である。

俺の仕事は主に佐都の執筆を手助けすること、そして締め切り前に追い立てることだ。

つい先週までは締め切り間近の追い込みで死ぬほど忙しかったのだが、締め切りを通過した今は比較的ゆったりしている。

いや、佐都は常に呑気に過ごしている気がするな。

先週のやつも締め切りに間に合うギリギリまで書き始めてさえいなかった。少しは編集者である俺の事も気遣って欲しいところだが。


「純、次の小説は超能力ものにしようと思うんだけど……」


そもそも、俺は今日は休日のはずなのだが。やはり仕事から離れられなかったかとため息をつきつつ、佐都の話を聞きながら次の企画を練った。



気がつくと太陽が真上に上っていたので、一旦中断して昼ごはんを食べることにした。確か冷蔵庫に圭衣が作り置きしてくれたチャーハンが入っていたような。しっかり二人分ある辺り、俺にはもったいないくらいよくできた妹だ。


「チャーハン!?俺圭衣ちゃんのチャーハン好き!」


「後で圭衣に伝えとくよ」


「しっかりとよろしくね。いやほんと純が羨ましいなー。俺一人っ子だからさ、親も放任主義でほとんど会わないし。純とこは家族って感じする」


俺は引き取ってもらっただけで血の繋がりはないのだが、義父も義妹も間違いなく俺のかけがえのない家族だ。

佐都もたまには良いことを言う。


「でも、純の本当の家族はどんな人たちだったんだろう」


「本当のというか、血の繋がった、な。どうだったんだろうな。温かかったか、冷たかったか、それすら思い出せないんだ。……もしかしたら俺も一人っ子だったかもしれないな」


「逆に妹や弟がたくさんいて賑やかかもよ?小さい子達にわちゃわちゃにされる純とか面白いんだけど」


「佐都の方が似合いそうだがな」


そんな他愛もない話をしながら暖め直したチャーハンをテーブルに持っていく。


「いっただっきまーす!」


「いただきます」


俺も佐都も、食事中は会話するより食事に専念する主義なので、二人で黙々とチャーハンを食べる。

チャーハンは絶妙に俺好みのおこげが入っていて、絶品だった。焼き豚とレタスも良い味を出している。

きっと義父の正彦さんが警察官でなかなか帰ってこられず、小さい頃から圭衣が料理していたからだろう。

情けないことに、昔の俺は記憶が無いことを理由にして塞ぎ混んだり八つ当たりしたりばかりで、全く家事を手伝っていなかった。

そういえば、佐都もそんな時代の俺を知っている奴だったか。


「なあ、昔の俺はどうだった?」


「ん?昔の純は……」


「強かったっすよ。全てを拒絶するような強さ。僕はそこに憧れたんで。つか、おじゃまします」


「煌!……というか、佐都お前また鍵かけ忘れたな」


「あっごめ」


新しく現れたのは俺の後輩の須賀煌すがこう。見た目や口調は不良のようだが、情に厚く心根は優しい奴だ。

こいつは俺がやさぐれていた頃に出会い、丸くなったあともなんだかんだ縁が続いている。


「そうだなぁ、昔の純は確かに強いと言えば強いけど、ハリネズミみたいな?」


「的確っすね。さすが作家」


「それほどでもー」


ハリネズミはかわいいじゃないか。


「ところで、煌はどうしたんだ?……って、聞くまでもなさそうだけどな」


「休日なんで、純さんの家でギターを弾こうかと」


煌はさっそく背負っていたギターのチューニングを始めた。


「そうだ!主人公はギターの音から発せられる振動で敵を倒す超能力者ってどうだろう!」


「殴った方が早いっすね」


「同感だ」


「この脳筋どもにはロマンがわからないのか!ぐぬぬぬ……」



煌も交えて佐都の超能力講義を聞いていると、気がつけば夕方になっていた。


「あーあ、もう今日も終わりなんだー」


「結構楽しかったっすよ。それにしても、やっぱり純さんの部屋から見る夕日は綺麗っすね」


「煌も意外と感受性高いというか、美しい光景とか好きだよね」


「僕は自然のまま生きてるんで。ナチュラルなんで」


「俺はそんな煌くんが好きだー!」


「そういえば純さんたち締め切り明けたばかりでしたっけ。頭休ませた方がいいんじゃないですか、佐都さん」


「かもね」


「純が酷使させるせいかなー」


「お前が無計画にだらだらするのが一番の原因だろうが」


「違いないっすね」


俺たちはひとしきり笑ったあと、散らばっている佐都の本を集めて車まで運んだ。


「じゃあ、純はまた明日ね!煌くんも探偵業頑張ってー!」


「それ大きな声で言わないで欲しいんすけど。佐都さんもお元気で」


「気を付けて帰れよ」


佐都は手を振って返すと、車を出発させた。


煌は少し何か言いたいことがある様子で、しかし考え込むように沈黙する。

そして絞り出すように一言だけ発した。


「大切なもの、ちゃんと守ってくださいね」


「えっ?」


「では、僕もこれで」


一体何のことだろうか。

少し不穏で、また祈りのような言葉を残し去った煌と入れ替わるように、一台の見慣れた車が俺の前で止まった。妹と父が訪ねてきたのだ。


「ははっ何だかんだ忙しい休日だったな」


車から出てきた圭衣の手には野菜が入った鍋があり、正彦さんの手には肉と鍋の素があった。


明日も明後日もこんな代わり映えのしない日々が続くのだろう。

しかし俺にはそんな日々こそが宝物であり、何よりも無くしたくないものだ。


だから、もう壊させない。

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