タイプライター上のおうち時間
五三六P・二四三・渡
第1話
感染拡大が広がる中、わが社もようやく思い腰を上げたらしく、リモートワークを導入することになったようだ。というわけで私も毎日の往復三時間にも及ぶ通退勤時間を日によって無くすことができ、いわゆる「おうち時間」を有意義に使う余裕が出来るようになった。さて今日の業務も定時で終わったことだし、映画でも見ようかと思いテレビのスイッチを押そうとしたところで、異変が私を襲った。
最初はただの筋肉痛かと思った。しかし鈍い痛みを体中にぽつぽつと感じ始める。やがてこむら返りと同等の痛みを脹脛と二の腕に感じてこれはただごとではないぞと私は焦り始める。
「痛い!」
同時に二か所を攣った経験などなく、焦りから不安に駆られ涙が出そうになった。じっとしていれば治るかと思ったが、全く痛みが引くこともなく、ただ時間だけが過ぎ去っていく。
そこで誰かに助けを求めようと携帯電話で連絡をしようとする。しかしここで救急車を呼ぶというのも大げさな気がした。とりあえずは看護学校に昔通っていたという後輩に連絡することにした。
「はい、どうしましたか先輩?」
「助けて」私は何とか声を絞り出す。「足と腕が痛くて、どうしたらいいかわからない」
「えっ、大丈夫ですか? 救急車呼びました?」
「いやそこまでしなくてもいい……ただあなた看護学校通ってたって言ってたよね……? だからどういう処置をすればいいか教えてほしくて」
「いや通ってないですよ。何と間違えたんです?」
「あれ……介護学校だった……?」
「うーん? もしかしてホームヘルパー2級をとるために数か月間だけ講習と実習受けたことですか?」
「……」
「……」
「とにかく助けて……」
「いや本当に駄目なら救急車呼びましょうよ」
「いやでも、いったん症状を話させてほしい。最初はチクチクっとした痛みだったんだけど、それが次第に大きくなって、這うように体を周り、最後に脹脛と、二の腕に残って」
「あーもしかしてあれじゃないですか? いやでもなあ……」
後輩は意味深に考え始める。心当たりがあるなら話してほしかった。
「何々? やっぱり救急車必要な症状なの?」私は不安げに尋ねた。
「いや多分いらないと思いますけど。うーん」
「あー痛い痛い痛い! 肩に痛みが伝播した!」
「あの……これ言っても『アホか』とか言わないでもらえますか?」
「言わないから! 言わないから早く言って!」
「えーとですね。たしか先ほど本社のほうでシステム障害があったらしくてですね」
「ふんふん」
「『おうち時間』に対する障害が起こっているらしいんです」
「うん? どういうこと? それにシステム障害があったとしてこの痛みと何の関係が?」
「簡単に言うと『おうち時間』がバクったことにより『アウチ時間』になったってことですよ」
「……」
「……」
「アホか!」
「言わないって言ったじゃないですか……」
「あのね、今私は本当に痛みで苦しんでいるの。そんなときに回りくどくて面白くない駄洒落を言われたら、『アホか』としか言えない」
「いや絶対そうとしか考えられないんですって。現に今私のおうち時間もバクっているんですよ」
「まさかあなたにも痛みが……?」
「いえ、『カウチ時間』と『トウチ時間』が一緒に来たことにより、カウチソファーに座って、
「くつろいでんな!」
「いや、私だって困ってるんですよ! 今日はカルボナーラを作って食べる予定だったのに」
「はいはい」
「どうやら信じてもらえたようですね」
「いや無理だって! 今の情報で信じる要素ないって!」
「では少し待ってみてください。おそらく本社でエンジニアの方々が復旧に努めているので、次第に改善するでしょう」
いやまあ仮に治っても、『安静にしていたので治ったんだな』としか思わないし信じないだろうけど……
――次の瞬間部屋の中に大きな爆発音が響いた。
ガス爆発かと思い慌てて立ち上がるもどうもうまくいかない。このままでは巻き込まれてしまう。
しかしよく見ると、炎が上がった様子はなく、壁が破壊されただけなようだ。それでも大惨事だったが。
「何事!?」
白い煙が晴れるにつれ巨大な物体が現れる。それは生き物のようだった。
牛よりも大きくその、茶色い体を引きずり、フローリングの床を汚していた。髭の生えた顔は愛嬌があるが、口から生えた巨大な牙が恐ろしくもあった。
「ヴエエエエエエエエ!」
鼻から息を全力で噴出し、その生き物は鳴いた。
「何なになんなの!?」
私はわけもわからず、慌てることしかできない。
「あーその声はセイウチですね。つまり『セイウチ時間』がやってきたってことです」
スピーカーの奥から他人事のような声が響いた。
確かによく見れば、セイウチにしか見えない。その巨体を動かし、部屋を徘徊し、あたりの者を破壊していく。
「えっ、つまり、さっきあなたが言ったことは冗談じゃなく本当ってこと?」
「私は嘘なんかついたことないですよ。まあそれは嘘ですけど」
「ちょっと、これどうすればいいの!? めちゃくちゃ邪魔なんだけど!」
「どうしようもないですよ。ただこのシステム障害において出た損害は会社に保証してもらえるそうです。よかったですね」
よかったですねと言われても、そもそも後でお金を渡してもらおうが、今邪魔だという気持ちは改善されない。
セイウチは動き回って疲れたのか、それとも慣れない環境でストレスを感じたのか、その場で動かなくなった。
私は目をつむって、開けば目の前の惨状がなくならないかと願ったが、茶色い巨体はかわらずそこにいる。
どうやら今日は充実したおうち時間は過ごせなさそうだ。
◆ ◆ ◆
それからは大変だった。セイウチが消えたと思ったら
「ということになってる」
「なるほどわかんないですー」
「私だってわからないって」
混沌の嵐が吹き荒れる中、何とか後輩との連絡は途絶えてなかった。しかし待てども待てどもシステム障害は復旧することはない。幸いにも痛みは引いたが、他の要因により何か所かかすり傷を負っていた。
「そっちはどうなの?」
「いやなんかいろいろこっちでも起こりすぎて、ちょっと言葉にできない感じですね」
どうやらあちらもくつろいでいる余裕はなさそうだ。
どうにかして待つ以外に解決策を見つけ出せないだろうか。
そこで妙案と言うほどでもないが策を思いついたので話してみる。
「猿のタイプライターの話って知ってる?」
「猿がタイプライターの鍵盤をいつまでもランダムに叩きつづければ、ウィリアム・シェイクスピアの作品を打ち出せるみたいな話ですよね? それが何か?」
「最初のほうは『おうち時間』と言う言葉を少し変えて物事が起こっていたわけだけど、時間がたつにつれその縛りはなくなっていき、非常に不条理な状況が続いているのが現状。このままではランダムな文字列に合わせて状況が変化してしまう。例えばその状況を小説の地の文として現すと『あんdぇうrんfぬrfjkなせねいんし』みたいなことになるってことね」
「そうなりますね。と言うか私のfnefnrifjdk所はもうなfmorefmkってる気がします」
「まだ言葉が通じているから大丈夫。それはそうとして先ほどの無限のサル定理だけど、ランダムであっても無限であればシェイクスピアの文字列が作り出せる。つまり『おうち時間』から始まったこの混沌も、無限に続けば正常な文字列……つまりはいつもの日常を取り戻せるかもしれない」
「でも無限に待つんffefsですか? 死ぬほfadど暇adedでしょう」
「大丈夫だって。『あびぃぅあんjsdねうらcばえ』みたいな状況でまともに考えられるはずがないし。意識的にはあっというまだって」
「あーそうなると私たちがrerやることは?」
「結局待つしかないってこと」
「あxすjhなえlにりえl?」
「すんrくfhrsklんcfr」
「cぬいえjfcんkdcのえ」
んcjdfclねfぇ;んcぇ;f
んcじえmfkm;ss;おえ
cめfck;fkd
xmjkdmせ
mせm
おい
い
◆ ◆ ◆
「申し訳ありません! ただいま復旧が終わりました。復旧にかかった時間はなかったことにしますので今日の『おうち時間』をお楽しみください」
どれほどの時間が流れただろうか。
惑星に海が出来、生命が生まれ文明を築くほどの時間だっただろうか
星雲から星が生まれ、やがて爆発するまでだろうか。
11次元の無から有が生まれ、何百億光年の宇宙を作り、やがて熱死するまでだろうか。
無限に続く意味のない文字列の中、ほんのまれに意味が通る言葉が生まれては死ぬのを見てきた気がする。
そんなことはなく、ただ瞬きをしたその間の出来事だったのかもしれない。
すべてが夢だったようだ。今から後輩に電話をかけて、日常を取り戻した喜びを分かち合いたかったが、彼女には彼女の『おうち時間』がある。話をするのはまたあしたにするとしよう。
当初の予定通りDVDをデッキに差し込んだ後、少し便意を感じたのでトイレに入る。
そして数時間ほどこもった後、今の状況に気が付き、私は叫んだ。
「復旧してねえええええええ!」
タイプライター上のおうち時間 五三六P・二四三・渡 @doubutugawa
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます