至上のシアワセ
nobuo
恋人とおうち時間
カタカタとキーを叩く音が光源をギリギリまで絞ったオフィスに虚しく響く。
最後の入力が終わり、データを社内メールで上司に送れば終了。PCの電源を落とす際にふと腕時計に目をやれば、ただいまの時刻二十一時四十八分。あと十分少々で警備員が巡回に来て、また呆れ顔をされてしまう。
机の上を片付け、慌てて帰り支度を済ませて部屋を出ようとしたところでちょうど警備員と鉢合わせてしまった。
「えっと、ご苦労様です」
「
「ええ…まあ…。でも今日はもう帰りますから!」
「はいはい。お気をつけて」
気まずさから逃げるようにいそいそと彼の横を通り過ぎると、いつも通りの苦笑いで見送られてしまった。
非常口を報せる緑色の光だけが灯る暗い廊下。一昨年に経費節減を謳って通路の照明をセンサー式に換えたため、近づけば電灯が付くものの、通り過ぎれば再び背後は闇に沈む。
エレベーターで一階まで下りた私は、既にロックされているエントランスではなく、警備室脇のスタッフ通用口から外へ出た。
「うわぁ…」
見上げた空は薄く曇っており、星どころか月も見えない。その上この辺りはオフィス街でビルばかりが立ち並んでいるせいで街灯が少なく、深夜ともなるとかなり暗い。
コツコツと靴音を響かせて駅へと急ぎ、タイミングよく到着した電車に乗り込む。ドア脇の手摺に掴まり車窓に映る車内を観察すると、まだ木曜日だというのに乗客たちのほとんどは私と同様に疲れ切った面持ちで電車に揺られている。
大多数の心境はこうだろう。『ああ、今日もこんなに遅かったのに、また明日も出勤しなきゃならないのか…』と。
普段ならば私も同じ気持ちになるはずなのだが——————
(ふふふ…裏切って悪いが、明日はこの場に私はいないのだ)
今年度有休消化率0%の私は、上司命令で
マスクの奥でニヤリと上がりそうになる口角を必死に抑え、目的の駅までひたすら窓の外を眺めて過ごした。
漸く電車を降りた私が迷いなく飛び込んだのは、駅前のコンビニエンスストア。カゴに次々と目についたものを放り込み、満杯の状態でレジに向かう。正直表示された金額を見てギョッとしつつも電子マネーでさっさと支払いを済ますと、マンションまでの道のりを軽い足取りで歩いて帰った。
「ただいまー!」
玄関の鍵を開け、買い物袋を下ろすのもそこそこに、私は靴を脱ぎ捨ててリビングへ走る。ドアを開けた瞬間に飛び掛かってきたのは、白地に黒ぶちの小さな恋人。
「にゃにゃ~ん! にゃにゃにゃ~ん!」
待ってたよとばかりに擦り寄り、私の両足に体を擦り付けながら脚の間を何度も何度もくぐり抜けるのは、3才になる黒ぶち猫(♀)のあんみつ。
「ごめんね、あんみつ。さみしかったねー」
愛しくてたまらない恋人を抱き上げると、彼女は私の頬に八割れ柄の額を押し付けてくる。そして至近距離で目を合わせると、小さな牙をのぞかせてにゃーと訴えかけてきた。
「そうかそうかー、お腹が空いたんだね。ちょっと待ってて。すぐ用意するから」
後ろ髪惹かれる思いであんみつを下ろすと、大急ぎで部屋着に着替えるべく寝室へ向かった。
「にゃおぅん! にゃおぅん!」
冷凍庫から取り出したささみのストックを鍋で茹で始めると、足元をうろうろし始める。その姿を微笑ましく見つめながら、あんみつと一緒に食事ができるよう、自分の夕飯(ほぼ夜食)の準備もする。
コンビニの袋からさっき買ってきた総菜や冷凍食品を片端からレンジに突っ込み解凍するだけだけど。
それよりも重要なのはあんみつのご飯だ。茹で上がったささみを丁寧に細かく裂いて器に盛りつけ、サービスで鰹節をトッピングした。
冷蔵庫から取り出したハイボール缶をテーブルに運んだと同時に冷食も温まり、私たちはだいぶ遅めの夕食に取り掛かった。
「どう? 美味しい?」
一心不乱にがつがつとささみを食べるあんみつ。そんな恋人の可愛らしい姿を肴にあおる酒は格別だ。
テレビは録画しておいた動物番組の猫特集。しかしメインは目の前にいるため、ほとんど流し見程度だ。
間もなくして器の中身をきれいに食べつくしたあんみつは、一つ伸びをした後にお気に入りのクッションに乗り、食後の毛づくろいを始めた。柄のない真っ白なお腹丸出しで、後ろ脚をピーンと伸ばして胸元を懸命に舐め舐めし———突然ばたりと横倒しに寝転がった。
「っ!」
満腹でご機嫌なのだろう。そのままうねうねと身を捩っていたが、私の視線に気が付いたあんみつは、へそを天井に向けた仰向けの体勢でくるりと小首を傾げ、まあるいお目々で私を見つめてきた。
(あざといぃ! あざといが可愛いから許す!)
欲望に
「あ~~~~~~…」
暖かくて柔らかくて良い匂い。そう、例えるなら干したての布団のように、ぽかぽかした陽だまりの匂いがする。
そのまま暫くあんみつを堪能していたが、サービスタイム終了と言わんばかりに暴れ始めたので名残惜しくも顔を離す。すると彼女はクッションを降りて俯せに寝転がる私の横を通り過ぎ、それまで私が座っていたローソファーへ。
私の体温がまだ残る場所で丸くなると、一つあくびをして目を閉じてしまった。
「あんみつさ~ん」
取り残された私はつれない恋人の名前を呼んでみたけれど、彼女は耳を僅かに動かしただけで、こちらには見向きもしなかった。
寂しい私は仕方なく途中だった食事をもそもそと済ませ、あんみつの眠りを邪魔しないよう静かに片づけを終わらせた。
その後シャワーを浴びてリビングに戻っても、あんみつは変わらずソファーで寝ていた。
その警戒心ゼロの穏やかな寝顔に誘われて隣に腰を下ろし、白と黒半々の頬を指の背で撫でてみたがあんみつは全く目を覚ます様子はない。
「こら、あんみつ。お前は猫なんだから、夜は起きてるもんじゃないのか?」
ツヤツヤの黒い後頭部から黒ぶちの背中を過ぎて腰辺りまでをゆっくりと撫でながら訊ねると、彼女は目を覚ましたらしく頭を持ち上げて私を見上げ……
「あいたっ!」
突然私の手に爪を立ててしがみ付いてきた。しかも手のひらに噛みつきながら、手首の当たりには蹴りまでお見舞いしてくる。
「あだだだだだだ!」
やめてー、ゆるしてーと言いながらも彼女の攻撃に反撃してその小さな顔を鷲掴みしてやると、あんみつは更にヒートアップして容赦なく爪と牙を私の腕に突き立ててきた。
「いででで、いででで、ゴメンって! あんみつ、降参降参!」
なかなか放してくれないあんみつからやっとで逃れると、手の甲や腕には幾筋もミミズ腫れができ、薄っすらと血が滲んでいた。
普段定期的に爪切りはしているけれど、本気になったあんみつの力は相当なもので、格闘すると絶対に無傷ではいられないのだ。
敗者であるズタボロの私に反し、勝者となったあんみつは未だ興奮が冷めないのか、ふすふすと鼻息を荒くして肉球を舐めている。
風呂上がりの匂いが好きなのか嫌いなのか、たまにこうして戦いを挑んでくるのだが、これまで私が勝てたことは一度もない。
まあ傷痕さえもあんみつにつけられたと思えば勲章に見えてくるのだから不思議なものだ。
恋は盲目というけれど、私は身をもって実感している。
その後ミミズ腫れを軽く消毒し、漸くベッドに入ったのは午前の一時半頃。すぐに訪れた睡魔に身を委ねウトウトし出した頃合いに、ドスンと胸の上に何かが落ちてきた。
「ぐふっ!」
「にゃーん」
油断大敵。さっきまでソファーで微睡んでいたはずのあんみつが、鼻先が触れるほどの間近から私を見下ろし、掛布を引っ搔きだした。
「なんだよ~。あんみつは甘えん坊だなぁ」
半分寝ぼけた状態で掛布を持ち上げれば、当然のようにするりとあんみつがベッドに入ってくる。顔の隣でゆらゆらと長い尻尾を揺らめかせていたが、辛抱強く待っているとやがてあんみつが脇の下に陣取って腕を枕に落ち着き、ゴロゴロと喉を鳴らしはじめた。
肩にかかる重みや体温が愛おしい。
(ううう…可愛すぎるっ)
自分よりも体温の高い滑らかな背を撫でた私は、
至上のシアワセ nobuo @nobuo
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