ライフ・ワーク
瑞樹(小原瑞樹)
運命の日
都内の某書店内で、店内を見回しながら何かを探している1人の女性がいた。
探すこと数十分、ようやく目的の書棚を見つけ出したらしいその女性は、人々の間を縫うようにしてそこに直進していった。
本棚の前で視線を彷徨わせていた彼女は、不意にある一点で視線を止めた。棚に手を伸ばして一冊の本を取り出す。「小説時代」というタイトルが目に入る。どうやら文芸誌のようだ。
女性は眉間に皺を寄せると、そろりとその本を開いた。震える手でゆっくりとページを
やがて目的のページに辿り着いたのか、女性がぴたりと手を止めた。ページの右上に書かれた文字を食い入るように見つめる。
「第56回小説時代賞 一次選考通過作品」
なるほど。彼女は物書きで、この賞に自分の作品を応募したのだろう。そして結果発表日である文芸誌の発売日を待ちわび、こうして書店に足を運んだというわけだ。
女性はそこに書かれた名前を1つ1つ丹念に見て回った。
だが――どれだけ注意を凝らして見ても、彼女の名前も、彼女によって生み出された作品も、ついにそのリストの中に見つけることはできなかった。
女性はなおもリストに視線を落としていたが、不意に小さく息をつくと、そっと本を棚に戻した。ため息をつき、肩を落として本棚を離れる。
店内の雑踏の中では、彼女の姿に目を留める者は誰もいない。本を探し、ページを捲る間に、高鳴る心臓の鼓動を彼女がいかに抑えつけていたか。そして期待が泡と消え、高揚感がたちまち失われていったことも、人々はまったく知る由がなかった。
彼女の名前は
小学生の頃から本の虫と呼ばれ、学校の教室よりも図書室で過ごす時間の方が多かった彼女にとっては、本を読むことは呼吸をするも同じであった。そんな智子にとって、数多の面白い作品を生み出す作家は憧れの存在であり、自分でも作品を書きたいと思うようになることは必然でもあった。
中学生の頃から細々と小説を書き続けた。年齢を重ねるごとに課外活動が忙しくなり、書く時間は減っていったけれど、それでも執筆を止めたいとは思わず、将来は漠然と作家になるのだろうと考えていた。
だが、智子がそんな幻想を抱いていたのも大学3年生までだ。就職が現実的な問題として浮上する中で、作家になりたいという智子の思いは徐々に影を潜めていった。
小説を書きたい気持ちがなくなったわけではない。ただ、親やゼミの先生に向かって、作家を目指すと公言するほどの勇気はなかった。理由は簡単。返ってくる答えが決まっているからだ。現実的ではない、と。
智子自身、周りの反対を押し切ってまで作家を目指すほどの気概はなかったから、普通に就職する道を選んだ。幸い、複数の会社から内定をもらえ、一番条件のよかった現在の会社に就職を決めた。
社会人になってからも生活に大きな不満はなかった。仕事は難しくなく、人間関係で悩まされることもなかった。学生時代の友人から仕事の愚痴を聞かされる中で、大きな悩みもなく仕事を続けていられる自分は恵まれていると実感した。せっかくいい会社に入れたことだし、与えられた環境で頑張っていこう。最初の頃はそう思っていた。
そんな智子の決意が揺らぎ始めたのは、入社して半年が過ぎた頃だった。
仕事にも慣れ、大抵のことを1人で出来るようになる中で、智子は少しずつ生活に物足りなさを感じるようになっていた。職場と家の往復の日々を繰り返す中で、智子はふと考えてしまったのだ。今の生活を続けたところで、自分は変わり映えのしない人生を送るだけではないか、と。
小説のことが頭をもたげたのはそんな時だった。押し入れにしまい込んでいた過去の作品を引っ張り出し、読み返してみる。文章の
それからの行動は早かった。パソコンを起動してwordを立ち上げる。題材を考えているうちにアイディアがどんどん浮かんできて、気がつくと智子は夢中になってキーを叩いていた。
一心不乱に書き続け、ふと気がついて顔を上げると外が暗くなっていた。3時間ほどぶっ続けで書いていたようだ。そんなに集中したのは久しぶりだったので驚いたが、不思議と時間を空費した感覚はなく、むしろ心地よい疲労が身体を包み込んでいた。
書いたものをあらためて読み返してみると、学生の時に書いたものよりも各段に文章力が上がっている。市販の作品と比べでも遜色のない出来映えに思えた。
『私……才能あるんじゃない?』
かつて智子の心を燃やした情熱が蘇った瞬間だった。
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