17 病室の二人
「……んぅ?」
ぼんやりと意識が覚醒する。自然と目がゆっくり開かれていくと、そこは見慣れない場所であった。
否――正確に言えば見たことだけはある。
一度だけ、幼い頃に親戚の叔父のお見舞いで訪れたその場所は、なんとも異様だったと思い出す。そもそもお世話にならないのが普通だと、困ったような表情で話す叔父の姿は忘れられない。
そんな『病室』に、自分はどうして寝ているのだろうか――めいはどれだけ思い返してみても、意味が分からなかった。
「あ、れ……」
とりあえず起き上がろうとしたが、体に力が入らない。そもそも今、自分がどういった状態なのかも、まるで見当がつかない。
一体、何がどうなってこうなったのか――誰かに説明してほしかった。
扉の開く音が聞こえたのは、そんなときであった。
「――めいさんっ!」
入ってきたのは猫太朗であった。いつものエプロン姿とは違う、見たことがあるようでない私服姿が、なんとも珍しく思えてならない。
そんな呑気なことを考えていためいに、猫太朗が慌てて駆け寄る。
「目が覚めたんですね! 大丈夫ですか?」
「え? あ、その……」
「あぁ、そうだ。ナースコールを――早く知らせなきゃ!」
酷く慌てる猫太朗に、横たわったままのめいは、ただ茫然と成り行きを見守ることしかできない。
いつも落ち着いていて優しい笑みを浮かべている姿からは、想像もつかないと言える様子に、めいは思わず疑問に思う。
(猫太朗さん……よね? なんかいつもと全然違うわ)
実際、声に出していたら、流石にあんまりじゃないかというツッコミを返されていたことだろう。
しかし無理もないと言えなくもない。
めいからすれば、この状況が何なのかを、まだ理解できていないのだ。おまけに起き抜けで頭がまだ霧がかかっているようにぼんやりとしている。言わば冷静さを失っているも同然であった。
程なくして、看護師が駆けつけ、目が覚めた彼女に驚きを示す。
何かしら声をかけられ、脈を触られたりしたが、正直それが何を意味するのか、今のめいには理解しきれなかったのだった。
やがて看護師は、担当医師に報告してくると告げて病室を後にする。
留守番がてら残った猫太朗は、ゆっくりとめいに近づいてきた。
「本当に、目が覚めて良かったです」
その浮かべている表情は、いつもの優しい笑みだった。
やっぱり自分の知っている彼だったのだと、めいも安心してしまい、思わず頬が緩んでしまう。
「めいさん、店先で突然倒れたんですよ。救急車で病院に運んでもらいました。お医者さんによれば、過労と栄養失調だそうです」
「過労……」
猫太朗の説明を聞いて、めいはようやく自分の置かれている状況を理解する。
「そうだったんですね……ご迷惑をおかけしました」
「いえ。こうして無事だったんですから、なによりですよ」
「……マシロは?」
「流石に病院へ連れてくるのは……ちゃんとウチで、留守番してますよ」
「そうですか」
思い返してみれば、マシロの目の前で倒れてしまった――めいはマシロを驚かせてしまったと、後悔の念に駆られる。
できればすぐにでも目が覚めた姿を見せてあげたい。
しかしそれはできない。そもそも体に力が上手く入らないのだ。ここまで弱っていたのかと、自分の弱さが悔しくてならない。
(情けないなぁ……ホントに)
気分が沈み込むのを感じていたその時、病室の扉がノックとともに開かれる。看護師が担当医師を連れてきたのだ。
改めてめいは、医師から事の顛末を聞かされる。
「正直、危ないところでしたよ。彼がすぐに救急車を呼んでいなければ、果たしてどうなっていたことか……」
医師の目は本気だった。下手をしたら命を失っていたのだと、めいは改めて大きな事態に陥っていたのだと気づかされる。
そんなめいを見下ろしながら、医師は淡々と話を続ける。
「全くどれだけ無茶な生活をしていたのか……たった一日で目が覚めたのも、奇跡としか言いようがありません」
「一日……」
確かによく見ると、外は夕焼けに差し掛かっている。まるで時間が巻き戻ったかのように思えてしまうほどだ。
それだけ時間が経過しているのだと分かる。
「疲労と栄養失調の影響で、今はまだ起き上がれないでしょう。様子を見るためにもう一晩、ここで入院してもらいますから」
「はい。ありがとうございました」
「礼ならば、あなたのご友人にするべきですね」
医師が猫太朗に視線を向ける。
「彼がいたおかげで、あなたはこうして助かったんですから」
「……はい。本当に感謝してもしきれません」
めいが形だけの会釈をする。本当なら起き上がって、深々と頭を下げたい――そんな感情が滲み出ているように猫太朗は見えた。
それから数点ほど伝え、医師と看護師は病室を出ていく。
猫太朗もしばらく残ることになった。めいには他に家族がいないため、友人である彼が手続き書類の代筆を行うことになったためだ。
改めて少し落ち着いたのか、めいの表情は幾分和らいできていた。
「ありがとうございます。何から何までお世話になってしまって」
「いえいえ。これくらいお安い御用です。それよりも――」
猫太朗はめいに自身の顔を近づける。あくまで『表面上』は、いつもの穏やかな笑みを浮かべたままで。
「流石にこうなった経緯について、説明の一つくらいはしていただけますよね?」
「……はい」
めいも観念して頷いた。彼の笑顔に潜む強い圧には逆らえない。多大な迷惑をかけたという自負があるから尚更であった。
「とは言っても、至って単純な話なんですけどね……」
締切に追われ大ピンチを迎えていたプロジェクトに、ヘルプで放り込まれた。最初は簡単な手伝いのみだったが、いつの間にかメインメンバーと化して、大半の仕事を押し付けられた。
それをなんとか終えると、すぐさま次の炎上案件に放り込まれ、終わればまた次のデスマーチ――ここ数週間ずっと、その繰り返しだったことを明かした。
「……そうだったんですねぇ」
軽く聞いた時点で、猫太朗も大体の光景が浮かんできてしまう。喫茶店に訪れる客の中には、その手の話で悩む人も、割といたのだった。
もっともめいみたいに、本当に倒れてしまう人は初めてではあったが。
「まさかそれで、食事をしたり寝たりする余裕がなかったとか?」
「はい……そのまさかです」
猫太朗の問いかけに、めいは恥ずかしそうに苦笑する。そして改めて、昨晩の自分の様子を軽く振り返ってみた。
すると余計に笑えて来てしまうほど、あからさまだったことに気づいてしまう。
「もう限界なんて、とっくに超えちゃってたんだと思います」
「でしょうね。そんな状態で、よく『ねこみや』まで来れたもんですよ。しかもあんな凄い土砂降りの中を」
「えぇ……」
恥ずかしくなるくらい、正気ではなかった――それでいながら、しっかりと辿り着きたい場所には辿り着いていた。
そこで気が緩み、体に溜め込んでいたものが一気に爆発してしまったのだ。
それが意味するところは――
「よっぽど、私は帰りたかったのかもしれません」
「帰りたかった?」
「えぇ。マシロの待つ、あの喫茶店に……」
ついでに言えば、猫太朗やクロベエもいる、というのも含まれているだろう。もっともそれは、気恥ずかしくて口に出すことはできなかったが。
「だから、私も会社の帰りに……あっ!」
めいが何気なく呟いた『会社』というキーワードで、あることを思い出す。
「すみません。私のスマホって、どうなってますか?」
「そこにバッグ共々、ちゃんとありますよ。救急車に乗ったので、僕のほうで勝手に電源切らせてもらって、そのままにしてますけど」
「そう、ですか……そのスマホ、ちょっと電源入れてもらえますか?」
「いいですよ」
めいのお願いに猫太朗は素直に応じる。バッグの外ポケットに入れておいたスマホを取り出し、電源を入れた。
すると――
「うわっ!」
マナーモードにしていた携帯が振動し始めた。いきなり電話がかかってきて、猫太朗は思わずスマホを落としそうになる。
「め、めいさん……『成瀬川真彦』と表示されている方から来てるんですが」
「あー……」
やっぱりそう来たかと言わんばかりに、めいはげんなりする。そして大きなため息をつきながら明かした。
「私の上司です。こないだ話した、その……七光り的な人で……」
まさかの事実を聞かされ、震えるスマホを持ったまま、猫太朗は思わず呆気に取られてしまうのだった。
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