09 隠しきれない荒んだ心
この一ヶ月、めいは仕事に追われていた。
猫太朗の淹れた湯気の立つ濃いコーヒーを飲みながら、疲れ切った表情を隠すことなく語り出していく。
「ウチの会社の会長――要は前の社長ですね。その人の息子が、私の所属している部署の部長として異動してきたんです」
突然の展開に、めいを含む部署のメンバーは驚きを隠せなかった。
しかもその彼を連れてきた本部長が、めいに頼んだのだ。経験を積ませるために面倒を見てあげてほしい、と。
あくまでちょっとしたお願いだとは言っていたが、それは実質の『命令』だ。
断る権利なんて最初からなかった。
一主任に過ぎない自分が、上司に当たる部長を指導する――そんなヘンテコな話を受け入れるしかないと。
「ところがその男……典型的な『七光り』でしかなかったんです」
要するに全くといっていいほど使えなかった。部長という立場に胡坐をかき、まるで努力する素振りを見せない。
それどころか、こっちが教えていることを聞こうとすらしていなかった。
ちょっとでも苦言を申し出れば、苦々しい表情で「女で立場が下の癖に」と見下してくる。実績は全て自分一人の手柄として報告し、あまつさえプロジェクトが崩れそうになった責任を、面倒を見ためいに全て押し付けてくる始末。
女なんだからこれぐらい役に立てよな――偉そうな口ぶりでそう言われた。
「勿論、私は黙っているつもりなんて、全くありませんでした。でもどんなに抗議したところで……上は聞き入れてくれなかったんです」
なんとかしなさい。キミは優秀なんだから、それぐらいできるでしょ――言われたのはそれだけ。フォローも何もあったものではなかった。
しかし、めいは見逃していなかった。
そう言ってきた本部長が、わずかに視線を逸らしていたことを。
おまけにめいの抗議を強引に打ち切り、それを全てなかったことにされた。その抗議の時間は、全て単なる『休憩』として扱われ、七光りの部長の嫌味のネタにされるというオチが待っていた。
本部長でも味方にはなってくれないのかと、めいは深いため息をついた。
会長の息子という存在が、それほどまでに大きいものなのかと、改めて思い知らされただけだった。
業績が悪い方向に響くというオプション付きで。
「それで気がついたら一ヶ月……ホント悪い意味であっという間でしたよ」
「はぁ……なんてゆーか、お疲れさまです」
もはやそれ以外にかける言葉が見つからなかった。この一ヶ月、めいがどんな思いで過ごしてたのか、それを猫太朗が理解することは到底不可能である。
それでも相当な日々だったということぐらいは、分かるような気はしていた。
「――それでその上司は、今もめいさんのいる部署に?」
「いえ。今日を最後に、他の部署へ異動されました。スキルを身に付けるために、短期で色んな部署を渡り歩いてるみたいで」
「なるほど。じゃあ良かったですね。その人から解放されたんでしょう?」
「それはそうなんですけど……」
その瞬間、めいの拳がプルプルと震え出す。同時に歯をギリッと噛み締めた。
「あの七光り男、最後までロクなヤツじゃなかったんですよねぇ――マジで!」
◇ ◇ ◇
思えばずっと貶されてきた。それでも最後くらいは、『世話になった』と言ってくれると思っていた。
しかしそれは、淡い期待でしかなかった。
「キミって本当に優秀なの? 今日まで全然ダメダメだったじゃん。ちょっとはこの僕を見習って、真面目に仕事をするべきだと思うよ?」
やれやれのポーズを取りながら、彼は皆の前で堂々と言い放った。
本当に最後の最後まで変わることはなかった。世話になった礼一つも言わなかったばかりか――
「大体オンナが仕事を頑張るなんて、ダサいにも程があるよね。さっさと結婚でもしたらどうなの? まぁ、キミみたいなのができるとは到底思えないケドさ」
そう言いながら笑い出したのだった。それはもう心から愉快そうに。
めいは頭の中で怒りという名の火山を爆発させかけた。それでもなんとか、ギリギリで踏みとどまった。
(我慢よ、めい! あと少し……あと少しでこの男ともお別れなんだから!)
必死に心の中でそう自分に言い聞かせつつ、めいは震える拳を抑える。そして軽く息を整えつつ、彼に向けて淡々と無表情で言った。
「――はい。お言葉をありがたく受け取らせていただきます」
その言葉は、あからさまに感情が込められていなかった。しかし彼は自分の発言に酔いしれていたのか、気にも留めていない。
「それじゃ僕は、そろそろ行かせてもらう。あっという間の一ヶ月だったなぁ」
満足そうな笑みを浮かべ、彼は部署から去るべく歩き出す。これでようやく終わりかと思ったその時――
「あぁ、そうそう、西園寺くん」
最後の最後で、彼は爆弾を落としていくのだった。
「この一ヶ月で積み重なった業績の低下は、全て主任であるキミの責任という形で上に報告しておいたから。この経験を活かして頑張りたまえよ。ハハッ♪」
彼は高らかに笑いながら、今度こそ部署を去っていった。
めいは無表情のまま立ち尽くしていた。頭の中が真っ白となっており、何も考えることができない。
周りにいる同僚たちは、ただ気まずそうに視線を逸らすばかりであった。
火の粉が降りかかるのを恐れてか、なんて声をかけたらいいか分からないのか、誰も彼女に話しかけようとする者はいなかった。
結局残ったのは、疲れとやるせなさと、崩されに崩された取引先との信頼と実績だけだった。
ボロボロとなっためいは、会社の誰からも庇われることはなかった。
◇ ◇ ◇
「――そりゃあ私だって、分からなくもないんですよ?」
めいはぐいーっとコーヒーを飲み干した。
「組織の中で、社長の椅子が約束されている人に逆らう怖さくらいはね。所詮は雇われの身に過ぎないんですから。でも……でもっ!」
ギュッと握られた拳がプルプルと震え、めいは再び涙を浮かばせる。
「少しくらい報われたって良くないですかっ? 必死に頑張った人が貶されて、脇で好き勝手ばかりやってた人が、高い評価を掻っ攫うなんて……うぅっ!」
「そのお気持ちは、お察ししますよ」
猫太朗に言えるのは、それぐらいしかなかった。下手な慰めをしたところで意味を成さない。むしろ余計に傷つけるだけだ。
「――すみません。急にこんなことを話してしまって」
「いえ。むしろ光栄ですよ」
弱弱しい表情で俯くめいに対し、猫太朗は優しい笑みを浮かべる。
「前に僕は言いましたよね? 何かあったら遠慮なく相談してくださいって」
「え、あ、あれは……」
「社交辞令のつもりは、全くありませんでした」
やんわりとした口調ではあるが、有無を言わさないという強い意志も、確かに込められていた。
猫太朗もこんな表情をする人だったのかと、めいは目を見開く。
それに対して彼は、再びニッコリと微笑むのだった。
「この際です。遠慮なく弱音を吐き出してしまいましょう。下手に我慢しても、体の毒になるだけですからね」
「しかし……」
そこまで甘えてしまっていいのか――めいは躊躇してしまう。ここにきてつまらないプライドが働く自分に対して、情けなさも覚えた。
すると――
『遠慮することはない。みょーたろーがこう言ってるんだからな』
そんな渋めの声が聞こえてきた。
『そうだよ。メイのなきそうなかおは、みたくないっ!』
そして更に、もう一つの声も聞こえてきた。どちらの声も、妙に心の中にスッと入り込んでくる感じがして、なんとも言えない心地良さが漂ってくる。
自然とめいの中から、迷いがなくなってきていた。
「……分かりました。じゃあ遠慮なく話させてもら……えっ?」
ここでめいは、ハッとしながら声のしたほうを向く。二匹の猫がつぶらな瞳で、ジッと見上げてきていた。
前にも似たようなことがあったのを、めいは思い出す。
まさかとは思ったが、流石にあり得ないだろうという気持ちのほうが、今回も勝ったのであった。
(気のせい、よね……この子たちが人の言葉を喋るなんて……)
そう自分の中で結論付けながら、めいは苦笑する。そして改めて、猫太朗に視線を向けて語り出すのだった。
もう自分には、相談できる友達も家族もいないのだということを――
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