07 不穏な予感
それから数日――めいは『ねこみや』に通うのが日課となっていた。
しかし彼女が訪れる時間帯は、決まって他の客はおらず、殆ど貸し切り状態を堪能することができていた。
おかげでめいは、自由に振る舞える貴重な空間を手に入れたも同然であった。
具体的に言えば二匹の猫を独り占め――もはやちょっとした猫カフェみたいな認識ですらあり、その都度思わずにはいられないのだった。
どうやらここが天国だったらしい、と。
「にぅー」
「ふふ♪ よしよし、いい子でちゅねー♪」
完全にめいはマシロと名づけられた白猫に夢中となっている。恐らく本人は、赤ちゃん言葉を使っていることに気づいていないのだろうと、猫太朗は皿を洗いながら思っていた。
マシロも完全に与えられた名前を認識している。
めいが名づけてくれたのだと認め、心から懐いている。
それは当の本人も感じており、嬉しくて仕方がない気持ちであった。しかし程なくして、ようやく気付いたらしいめいは、表情を軽く強張らせる。
「――すみません。だらしない姿をお見せしてしまって」
さっきまでの蕩ける笑顔はどこへ行ったのやら。めいの表情は、恥ずかしさと申し訳なさと不安さで埋め尽くされていく。
「猫太朗さんに何もかも投げっぱなしにして……おこがましいですよね?」
「別にそんなこと思ってませんよ」
猫太朗は苦笑しながら、手をパタパタと振る。
「めいさんがマシロと暮らせるよう、なんとかしようとしていることはよく分かっていますから。今日も不動産屋さんに行ってきたんでしょう?」
「えぇ……でもなかなかいい物件が見つからなくて」
マシロを抱きかかえながら、めいは深いため息をつく。
「この近所でペット可能な物件自体はあるんですが、どこも満室で……仮に見つかったとしても、この町を離れないと……」
「でも、あるにはあるんですよね? それだったら別に……」
「嫌です!」
めいは強く否定した。無理にこの近所にこだわらなければ――猫太朗がそう言おうとしたことは分かっており、だからこそ受け入れることはできなかった。
「この喫茶店から……『ねこみや』から離れるなんて嫌なんです。やっと見つけたお気に入りの場所なんですから」
「めいさん……」
今にも泣きそうな声を出すめいに、猫太朗も切なそうな表情を見せる。流石に無神経だったかと反省した。
そして猫太朗は、改めて笑顔を見せる。
「――ありがとうございます。そう言っていただけて、僕も嬉しいですよ」
「あっ、いえ、その……私のほうこそ、変なことを言ってしまって、すみません」
我に返っためいは、改めて顔を赤くする。しかしこれだけは言っておかねばと、しっかりと猫太朗を見上げた。
「マシロの必要経費は、必ずお支払いしますから」
「……はい。気長に待っていますから、無理だけはなさらないでくださいね」
ほんの二秒ほど間を空けて、猫太朗がにこやかに答える。
(正直、めいさんはここ数日で、店の売り上げにかなり貢献してくれている。だから気持ちだけでも……と言ったところで、納得はしないだろうからなぁ)
ここは素直に受け取っておくほうが正しいと、猫太朗は判断した。そこまで恩着せがましくするのも微妙な気がしたので、せめてやんわりとした物言いを貫くことにはしていたが。
「そんなことよりも、めいさんはここ何日か、余裕があるみたいですね?」
「えぇ。おかげさまで最近は、毎日定時で帰れてるんですよ」
心の底から全力で嬉しさを表現したいのだろう。抱きかかえていたマシロをわざわざ下ろし、両手の拳をグッと力強く握り締めてみせた。
「正直言って、信じられないくらいです。ここ数年で初めてのことですから」
「数年で、ですか……」
しかし猫太朗の表情は、ここにきて急に笑顔が消えていった。
「それって、理由とか分からないんですか?」
「えぇ。正直なんにもですよ♪」
明らかに何かが気になっている様子を見せていたが、めいは嬉しさに酔いしれているらしく、まるで気づいていない。
「周りの人たちが嘘みたいに仕事を割り振ってこないんですよねぇ。おかげで自分の仕事だけに集中できて、もう効率が最高潮でして♪」
「はぁ……それはなによりですね」
ひとまずの納得は示したが、猫太朗は引っかかりを覚えていた。そんな彼の様子に気づいためいが、コテンと首を傾げる。
「猫太朗さん?」
「……あぁ、いえ。なんでもありません」
「その割には、何か気がかりだと言わんばかりでしたけど?」
「えっと、まぁ……」
猫太朗は苦笑しつつ考える。上手な言い訳が思い浮かばず、素直に答えるしかないかと腹を括った。
「何か裏があるんじゃないかと思ったんですよ」
「裏、ですか?」
「えぇ。特に何もないのに旨い展開が続く――そんなときは必ず、何かしら潜んでいるものがあったりしますから」
「…………」
めいは押し黙ってしまう。そんな彼女の反応に、猫太朗は申し訳なさそうに力のない笑みを浮かべた。
「すみません。折角の気分を、損ねるようなことを言ってしまいましたね」
「あ、いえ、そんなことはないですよ」
するとここでめいが我に返り、少し恥ずかしそうな表情を見せる。
「むしろ、猫太朗さんの言うとおりだと思います。確かに私も、少しは気になっていたくらいですから。でも……」
マシロの背中を優しく撫でながら、めいは言う。
「下手に上司とかに聞いて、藪蛇突くような結果になるのも嫌ですからね。少し様子を見ておこうかなと思ってるんです」
「なるほど」
「このまま何事もなく、平和な時間が過ぎてほしいですよ、ホント――」
両手を突き上げながらのんびりと言い放つめい。他に客がいないとはいえ、あまりにも開放感溢れ過ぎている恰好であった。
それぐらい、彼女にとっては珍しいことなのだと、猫太朗は改めて思う。
(僕が気にしても仕方ないけど……嵐の前の静けさとかじゃないよな?)
流石に考え過ぎであってほしいと猫太朗は思った。あくまで他人事ではあるが、あながち知らんぷりもできなかった。
彼女に懐いている猫を預かっており、もはや単なるマスターと客の関係を越えているような感じだからだ。
「……何かあったら、遠慮なく相談してくださいね?」
猫太朗は無意識にそう切り出していた。案の定、めいはきょとんとした表情を向けていたが、それに対する彼の表情は真剣そのものであった。
「僕にできることなんて殆どありませんが、話を聞くぐらいはできますから」
「猫太朗さん……はい、ありがとうございます♪ でも大丈夫ですよ」
めいは笑顔でそう言い切った。それはいつもの力強い彼女の言葉だったが、猫太朗の中で不安が消えてなくなることはなかった。
そして、その日を境に――めいは『ねこみや』に姿を見せなくなった。
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