offering of flowers.
aza/あざ(筒示明日香)
Fuchsia フューシャ_1
後悔ってのは先に立たない。こんな些細なことに気付くまで、随分と年食ったもんだ。
ベッドとテーブルと荷物置きくらいしかない簡素な部屋で男がコートに袖を通していた。男は中年の、ガタイの良い男だった。
「もう行くの……?」
「おう。何だ、起こしちまったか?」
男が身支度をする傍らで、女がベッドから起き上がる。女は寝起きと思しき虚ろな瞳で、それでも熱心に男へ問い掛けた。
「もう、行くの」
「そろそろ行かねぇと可愛い上司が怒るんだよ。……よく寝れたか」
「うん。久し振り」
「そいつぁ、良かった」
男はそう笑うと、部屋から出て行った。扉が閉められ男の姿が見えなくなると、女はベッドの中で膝を抱え不機嫌そうに、また泣き出しそうに顔を歪めた。
「今夜も、指一本触れて来なかったわね……私、この娼館のナンバーワンなのよ?」
親子程離れた自分など相手にしないことくらいわかっていたけれど。女は自嘲し立てた膝へ顔を伏せた。
「いい加減にしてください! ここは曲がりなりにも軍の学校なんですよ? 規律を重んじるべき学校で、その教官が、朝帰りなど以ての外です!わかっていますかっ?」
早朝の現在。女の、娼婦の部屋から帰った男の前には、一人の青年がそれはもう般若の体で、眉と目を吊り上げ怒鳴っていた。周りの人間は冷や冷やしながら見守るところで、男だけが平然としている。聞き流しているのが明白だった。
「……っ」
当然、怒鳴っている青年にもモロバレである。こめかみに青筋が浮き立っていた。
「あなたね、幾ら大尉と言えど────」
「准佐」
馬の耳に念仏だった男が、突如青年を正面から捉え口を開いた。准佐と呼ばれた青年は、男に、大尉に射貫かれ思わず口を閉じる。己のほうが階級は上であるのについ見据えられただけで閉じてしまうのは、やはり相手が下の階級とは言え数々の華々しい戦歴を持つ猛者で、自分はどれだけ実技をこなしていようと終戦後軍へ入ったキャリアの若輩者だと言う劣等感が、在るせいだろうか。
「な、何でしょう」
そうとしても、青年、准佐にも矜持が在る。奥歯を一度噛んでから、質した。
「俺、今日休みなんで、もう行って良いっすかね?」
一瞬走った緊張が、へらりと笑う大尉の顔で弛んだ。准佐だけでなく、周囲の者まで呆気に取られた。うっかり。
「はぁ?」
口に出てしまうくらい。
「寝不足なんで、寝たいし、出掛ける仕度とか考えるとアレなんで。……じゃ」
呆然とする准佐と辺りの人間を放置して大尉は口笛を吹いて去ってしまった。
「は、た、大尉!」
准佐が慌てて呼び止めても後の祭りと言うものだ。大尉はひらひら手を振ると振り返ることは無かった。
「何なんですか! まったく、あの人は!」
怒りに震え、喚く准佐と、取り残された若い他の教官たち。教官たちは、まぁまぁ、と准佐を宥める。
「落ち着きましょうよ准佐ー」
「そうですよ。まぁ仕方ないですって。今日は確かに、大尉休み取っていますし」
「知っています! ですが────」
「良いじゃないですか。僕たちは授業も在りますしそろそろ準備しませんと。ね?」
生徒を引き合いに出されては、准佐も収まらない腹の虫を収めるしかない。准佐の怒気が下がると、教官たちもほっと胸を撫で下ろした。
「でも。何で今日は休みなんでしょうか」
「ああ、そう言やいつも、この月のこの日は休みにしていますよね、大尉」
去年も一昨年も、と比較的長くいる教官が指折り数える。何かの記念日だろうか。誰かに会いに行くのか。もしくはお祝いか。教官たちは想像を膨らませていた。ただ一人。
「……」
准佐だけが浮かない表情だった。
「誕生日なんだ」
准佐がまだ生徒だったとき一言聞いた、大尉の科白だ。
あのときの、大尉の笑顔を、多分准佐は一生忘れられないだろう。
准佐は思う。自分は、だいぶ彼に頼られる位置に来れたのに、と。
「……」
一つ嘆息して、准佐は自己の授業の準備を進めたのだった。
「……遅くなっちまったな。結局一睡も出来なかったわ」
陽も傾き夕方へと差し掛かるころ。大尉は花と酒を抱えて一つの墓の前に立っていた。赤々と照らす陽光が、灰色の墓石を染めていた。
「いろいろ用意してたらよ、こんな時間だよ。こう言う日は眠れねぇからさぁ」
花をそっと置いて酒を開ける。きゅぽん、と音を立てて栓が外れた。一口飲むと、あとは墓へ注いだ。
花は形式上だ。主役は酒であり、この酒を探すのに時間がやたら掛かってしまった。
「アタシこの酒大好きなのぉっ。やったねぇ」
戦時下。戦場で配給された酒を無邪気によろこんでいた。高い酒では無い。安くも無いが。
ある敵地を制圧した日の夜配られたのだ。見張り番以外は酒を楽しんだ。と言っても戦地地帯だ。数は大して無く、一人一杯と言ったところだった。
普段厳しい顔付きで女だてらにスコープを覗き銃をぶっ放し、暴れ回る女がまるで十代の少女のみたいにはしゃいだ。
この数時間前に銃を片手に鬼の形相だった面容が、だ。
「酒ばっかりだったな、お前」
大尉は煙草に火を点けた。紫煙が赤から青へ変色する空へ昇る。─────あの日も、こうやって煙草を蒸かしていた。
「おい、聞いたか」
「八十二番隊、全滅だってな」
「───」
あの日口から零れ落ちた煙草と同じ銘柄の煙草を、今日は地に置いた。
「ちょうだいよ」
追い払いつつ“女が煙草なんか吸うな”と叱れば。
「男女差別っ」
膨れっ面で舌を出された。よくやっていた遣り取りだ。作戦による新編成で隊が分かれる前日もやっていた。自分がいた六十三番隊は別ポイントの待機だった。
煙草の一本くらいやるべきだったかと、下らぬことを嘆いた。ショックが大き過ぎると、人間、そんなものなのだろう。
命日は知らない。分かれて数日後齎された訃報だった。ゆえに。
ゆえに大尉は唯一知り得た誕生日を、墓参りの日と決めていたのだ。
「……」
愛していると、言ったことは無い。彼女には当時幼い息子がおり、夫は他界していたけど、どうにもそこに入り込む気にはならなかった。
そう言えば、その息子はどうしているのだろうか。一歳にもならぬ内に手放し、彼女の両親が預かっているとか言っていたけれど。
「……。さって、帰るかね」
感傷は、終わらせた。今日こそは早く帰らねば、再び准佐にこってり絞られるだろう。大尉は。
「また来るな」
返事など無い別れの挨拶をして、大尉は夕闇へ踵を返した。
「放せよっ」
大尉が教官寮へと帰る途中で何やら騒ぎが起きていた。言い争う声が一方は余りにも若く、少年に思えた。夕暮れと言うには暗い。少年が外で遊ぶには少々遅い時刻だ。ふらっと、大尉は騒ぎのほうへ足を向けた。
「放せっ! 俺何もやってない!」
「黙れ!」
言い争いは、憲兵と少年のようだった。ふと、ああ今日街に立つ客引きを一斉摘発するとか言っていたなと思い出す。ならばこの少年も客引きか、年若い男娼と言うことだろうか。
めずらしいことでは無い。戦争が終わろうと、銃弾や爆弾が飛んで来る量が減るだけで治安と言うものは相変わらず悪いし、貧困は行政がどんなに支援を整えようとしても追い付かない。昨夜大尉が訪ねた娼館なんかは、その治安を守るために街が管理する、役所に認可された風俗店だった。
娼婦たちは勤めれば一夜を客に提供せねばならないが、その分衣食住は保障される。けれども、春を売る者はこの何倍もいた。手っ取り早く稼げるために。
認可された娼館は高級と言わなくとも、成り立ちの性質から入れる者は年齢や健康の問題で篩い落とされた。娼館は一つではなく数在れど、篩い落とされれば同じこと。溢れた娼婦や男娼は街に立って安く身を売った。
無論、景観は悪くなる。治安も。安く身売りする者の中には定職に就けないならず者とつるみ強盗したり……いわゆる美人局ってヤツである。
頭を痛めた行政がやることは一つ。軍の憲兵隊に根刮ぎ捕まえさせること。何箇月に一度のペースで行われていたが効果は無い。大尉は騒ぎの中心へと足を踏み入れた。
【 ......Next story. 】
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