「何じゃ忘れたのか?そなたが安土に来て間もない頃、茶室に誘って話したであろう。小関の清水の事を。この水で茶を点てると美味いと申しておった。それ故、金山に参る事があれば、そなたの手前で茶を点て

 るという約束じゃ」


「あ……覚えて下さっていたのですね……私は、まさか真においでになるとは思わず……戯れ言を申されただけかと。その事ならば私も覚えておりまする。いつか御越し下されば良いと、夢が叶い嬉しゅうございます。真に……覚えておられるとは……」


 以前に交わした戯れ言めいた約束を覚えていてくれた事と、本当に金山城に来てくれた事に感激のあまり涙ぐむ。


「忘れる訳がなかろう。あの日の事を──あの日のそなたの事を忘れる訳がない」


 気持ちの籠った熱い瞳で見つめられ、あの日を思い出し顔が火照る。

 あの日、茶室で深く唇を重ね、その夜初めて信長に抱かれたのだ。

 周りに人がいる事など忘れ、二人だけの甘い思い出が甦り、濃密な愛の世界に浸ってしまう。


 坊丸は激しく居心地の悪さを感じたが、力丸は幸か不幸か乱法師に似て鈍いので、辺りに立ち籠めている甘い空気に気付いていないようだった。


「……兄者、そろそろ……」


 時を忘れて見つめ合う二人に、申し訳なさそうに坊丸が声を掛けた。


「では、三左に挨拶しに参るとするか」


 山桜が綺麗に咲く境内は静謐そのもので、人の姿は見えず不思議と音も聞こえてこない。

 無音の空間には、死者を悼むに相応しい清らかな気が流れていた。 

 力丸が信長の訪れを告げる為、境内の何処かにいるであろう僧侶を探す。


「無用である」


 それを信長は制した。

 死者の前では身分や権威は意味を持たず、僧侶達に平伏されれば静けき空間で純粋に手を合わせ、心で語り合う時を邪魔されてしまう。

 可成の墓石の前に座り、信長は静かに瞼を閉じ手を合わせた。


 乱法師も坊丸も力丸も、同行している森家の家臣達皆、瞳は涙で濡れていた。

 可成の愛息三人を家臣として伴い、わざわざ立ち寄ってくれたのだ。


 長い間手を合わせていた。


「城に参ると致そうか」


「大手道の方に行くには、一旦下った方が宜しいかと存じます」


 涙を拭いながら乱法師が言う。


「搦手からは登れぬのか? 」


「ここから先は大堀切がございますので、搦手から登るのは大回りで道も悪うございます」


「何?大堀切じゃと?それは見てみたい」


 信長は寧ろ目を輝かせた。

 堀切とは敵の襲来に備えた仕掛けの一つで、山の斜面を横に抉るように分断し、敵が山を容易く登って来れないようにするものだ。

 大堀切は南北長さ50m 巾4mから7m、高さ10mもあったと云う。

 

 信長は大堀切を繁々と覗き込んだ。


「これは登れないであろう。それにしても大きいな。長さはどれくらいじゃ? 」


「およそ三十間はあるかと。搦手口から本丸に入るには迂回しなければなりませぬ。やはり大手道から登った方が宜しいかと存じますが」


 尾根が巨大堀切で分断されている以上、山の斜面を直進する事は出来ない。


「いや、搦手から登ってみたくなった」


「は、はあ……ですが二の丸三の丸と、大手からの方が見目良く道もなだらか──」


「ならば帰りは大手道から降りれば良かろう。さあ早く案内致せ」


 信長は止められれば止められる程立ち向かいたくなる質である。

 止めようとする乱法師にもささやかな事情があった。

 城中の者達皆、当然信長は大手道から登って来ると思っているからだ。

 困った事に搦手側の櫓に家臣を一人も登らせていない上に、こちら側に注意を払う者などいよう筈がない。


 義姉を始めとして家臣一同、小者に至るまで、大手門で居並び、信長が登って来るのを今か今かと待っている筈だ。

 搦手門から信長が入れば一同尻を並べて迎える事になり、これ程滑稽な眺めもないだろう。


「はい──では、こちらへ。御足元に御気を付け下さいませ」


 乱法師の心知らずに、信長は楽しげに小唄まで口ずさみ始めた。

 険しい山道に申し訳程度に作られた細い小道を進めば、木々の間に鹿を発見したり野猿にも遭遇したりする。

 細野左近の邸を左に見ながら登って行くと、搦手側に築かれた東腰曲輪が近付いて来た。

 やはり櫓には誰の姿も見えない。


「上様、実は城中の者達が上様を御出迎えする為に大手門側で待っておるのでございます。搦手側から参られる事を知らせに行かせたいのですが」


「おお、そうであったか。はは!驚かせてやりたい気もするが、知らずに待たせるのは気の毒であるから行って参るが良い」


 乱法師は武藤三郎に命じ大手門まで向かわせた。

 堅固な石垣で築かれた曲輪が重なるように本丸を防御する。

 曲輪には城側の人間の為の出入口が設けられていて、それを虎口こぐちと呼ぶ。

 虎口を入るとその次にも門があるのだが、奥の門を大手門とするならば、その正面に虎口は通常設けられない。

 構造は様々だが、二つの門の位置は垂直で、左右どちらかに曲がらないと次の門に辿り着けない仕組みになっていたりする。


 防御を考えて作られた出入口が、戦闘時に簡単に打ち破れる訳がない。

 虎口から次の門に至るまでの四角い空間を枡形と呼び、虎口を突破し枡形に入り込んだ敵を、櫓や城壁の上や狭間から矢や鉄砲で三方向から狙い撃ちするのだ。

 金山城の本丸に至る門は櫓門になっており、櫓であると同時に門でもあった。


 信長は急な斜面を息を荒くしながら登り、搦手門に続く東腰曲輪の虎口に辿り着いた。

 信長ですら息を荒くしているのだから、付き合わされる家臣達には全く苛酷な試練だった。


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