「上様、岩村の本陣におられる川尻殿から書状が届いておりまする」


「読め!」


 乱法師は書状をすばやく開き目を通した。


「おお!とうとう飯田城が落ちたそうにございます。夜に城から逃げ出したとあります。それを勝手に……」


 乱法師は思った。

 弟の立場で兄の軍規違反を訴える書状を読み上げなければならぬ不運を。


「乱、どうした先を読め」


 その場には乱法師だけでなく、他の側近衆や小姓衆も多数控えていた。

 兄が一度でも己の行動を反省し、少しでも弟の立場を考えてくれた事があっただろうか。


 否──


 他の家臣達が居並ぶ前で、兄の愚かな行状を読み上げるのは苦しかった。

 乱法師は長可程神経が図太くないのだ。

 赤の他人の名と思い、感情を殺して読み上げる。


「全く血の気の多いたわけ共めが」


 口で言う程怒っている訳ではないらしいと胸を撫で下ろす。


 易々と城が落ち、思ったよりも早く片が付いてしまいそうだと信長は少し焦っていた。

 諸国に触れを出してしまったのに、自身が出馬する前に片が付いてしまったら、有り難みが全くなくなってしまうからだ。

 武田勝頼が自刃してから出馬する程滑稽な事はあるまい。


 よって、河尻秀隆に森長可や団平八の勇み足を抑えるようにとの書状を認めた。


『城之助(信忠)には儂が出陣するまで先に行くなと、滝川一益と相談して固く申し聞かせよ。武蔵守と平八の事だが、若者達故にこの時とばかり粉骨砕身して功名を上げたと儂に訴えたいのであろう。後見役として貴様からもよくよく言い聞かせよ。それが一番大事じゃ』

 

「申し訳ございませぬ。中将様にまで御迷惑を掛けてしまい、兄に代わって御詫び申し上げます」


 周りに人がいない時を見計らって静かに詫びた。


「ふっふふ。始めから予期していた事じゃ。勇み足はな。思った以上に四郎(勝頼)に従う者がおらぬということか。急がねばなるまい。河尻等がそなたの兄や平八の手綱を取り続けるのは無理であろう」


「では、今月中に御出馬なされますか? 」


「いや、まだ無理じゃ。諏訪までは長い道のりじゃ。暫くこちらに戻ってこれぬからのう。だが、来月早々には出陣出来るようにせねばなるまい」


 来月と聞き、乱法師の眉が残念そうに下がった。

 出陣したとて本陣の奥のそのまた奥の陣幕の中で、小姓とは別に信長の世話を焼くのが彼の仕事なのだから、どこにいてもあまり変わらないのだが。


「乱、焦るな。此度は楽しき道のりになろう。そなたにとってもな」


 そう言うと、意味深な目で彼を見るのだった。


 飯田城から逃亡した今福昌和は足軽部隊を指揮し、織田方に寝返った木曽義昌、遠山父子を含む織田軍と鳥居峠で激突した。

 ここでも織田軍が勝利し鳥居峠を占領した為、武田軍は深志の城に立て籠った。


 総大将信忠は、岩村から辛い難所を越えながら平谷に進み、その後飯田城に着陣した。

 到着するや、目付け役の河尻秀隆は長可と平八、特に長可に向かい詰め寄った。


「既にその方共の勝手な振る舞い、上様より直々に御叱りがあったと思うが、重ねて儂より──」


 が、最後まで言う前に、とっととその場を立ち去る長可の背に向けて罵しるしかなかった。


「うぬぅーー武蔵守めぇーー」


 信長の命を受けて派遣された戦目付けである己に対して、何たる態度と憤慨する河尻に信忠が声を掛ける。


「もう良い!儂も厳しく申し聞かせたのじゃ。些かしつこかろう。結果として飯田城は落ちたのじゃ。斯様な勝ち戦の時につまらぬ諍いをするでないぞ」


「──ですが」


『申し聞かせて聞いた事が一度でもございましたでしょうか? 』


 信忠の寛容な言葉に、その後に続く言葉を呑み込んだ。

 河尻も毛利も気持ちは一緒だった。

 その場にいる信忠以外の全ての者は思った。


『諍いを起こす張本人は常に武蔵守であろう』と。


 ────

 

 平八が探すと長可は物見櫓にいた。


「次は大嶋城が落ちるか深志城が落ちるか。それが終われば、いよいよ高遠城じゃな」


「やれやれ、さすがに少しは年寄り共の顔を立ててやらぬとまずいのではないか? 」


 長可よりは良識のある平八が言った。


「お主まで爺共の味方か?あの時は儂と一緒に嬉しそうに狩っていたではないか」


「しかし、上様から直々に御叱りを被ったのじゃぞ!いくら何でも……」


「たわけ!儂らが前進を止めておきたいのは上様の都合じゃ。城から敵が逃げ出すのを見て手をこまねいて見てられるか!それとも何か?これからも敵と切り結ぶ度に御伺いを立てねばならんというのか!大体、いつまで安土で亀のようにちんたら──」


「うわぁーわぁーそれ以上申すな。誰かに聞かれたら何とする」


 慌てて不敬極まりない言葉を遮る。

 長可は自身の気持ちに正直であるが故に信長や戦目付け達の本音の部分を見透かしてしまう。

 口に出せない本音、信長の出馬が果たして必要であろうかと。

 信長に気を使い無駄に時を費やすなど愚の骨頂。

 並みの人間ならば気付いていても心の奥深くに秘め、大人しくしているものだ。

 並みの人間ならば──


「爺共の都合に合わせて戦がやってられるか」


 長可が言う爺共の中に、果たして信長が含まれていたかどうかは定かではない。

 何か悪巧みを思い付いたのか、長可は不敵に笑った。


 次に落ちたのは飯田城の北の方角に位置し、天竜川に面して建つ大嶋城だった。

 信玄の弟で、顔が瓜二つであったと伝わる武田逍遙軒信綱が守将として居たが、到底敵わぬと諦め火を放ち、城兵は夜の間に甲斐へ逃亡してしまった。


 またかと呆れはしたが、丸く作られた巨大な馬出しに、堅固で高く築かれた城塁、攻めるのに困難を極めたであろう深い堀、もぬけの殻の城に入り、夜逃げしてくれてつくづく良かったと思った。

 

 戦況や進軍の様子は河尻から安土の信長に随時知らされる。

 知らせる度にむやみに戦功を焦って進軍するなと毎回うるさかった。


『進軍するなと言っても戦わずに城の方から勝手に落ちるんだからしょうがねぇだろうが! 』


 長可は腹の中で毒づいた。

 そして腹の中だけでは終わらないのが長可だった。




 

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