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「私達は再び摂津に向かうつもりでおります。上様には数々の御情けを賜り、御礼の言葉もございませぬ。私達で何か御返し出来る事がございましたら、何なりと御申し付け下さいませ」
ルイス・フロイスは礼を述べた。
「貴様等は大切な客人である。持て成しこそすれ、何か貰おうなどとは考えておらぬ。寧ろ、フロイス!再び会えて嬉しかった。面白き話しも沢山聞けたし、弥助も貰ったしな」
信長がちらっと目を遣った先には、弥助が明るい青色と白緑の肩変わりの小袖を身に付け、姿勢を正して座っていた。
その黒い肌に鮮やかな色の小袖が良く映え、言葉こそ未だ片言だが、体格の良い彼の堂々たる姿は真の侍のように見えた。
「貴様等に贈りたい物がある。あれを持って参れ」
坊丸と力丸が立ち、緋色の布が掛けられた大きな何かを運び込んで来た。
宣教師達の前に立てると、緋色の布を取り外す。
「おお!これは素晴らしい」
日本語が堪能でない宣教師達からも口々にポルトガル語で称賛と溜め息が洩れた。
それは二曲一双の金色の屏風であった。
安土城と城下の様子が詳細に描かれている。
狩野永徳作と伝わる屏風の素晴らしさは、名のある絵師の筆というだけでなく、それに傾けた信長の情熱にも依る。
一年の歳月をかけて製作されたその屏風は、実物と寸分違わず描写する事を命じられ、少しでも違うと描き直させたという。
屏風に描かれた安土城と城下町は、風景をそっくりその儘切り取ったかのようで、驚嘆に価する緻密さだった。
城下の商家も、窓の数、障子の数までが忠実に再現されていた。
人が行き交い、生き生きと暮らす様子まで伝わってくる見事な筆致だ。
狩野永徳と信長の渾身の力作は、朝廷にまで評判が及び、是非にと請われたが、知らぬ振りを押し通して返事もしなかった。
それ程までに秘蔵していた屏風を、この国の者ではない宣教師に贈るところが信長らしいのかもしれない。
ヴァリヤーノは、いずれ遠い祖国に帰ってしまう。
遠路遥々やってきた者達への
そこで自身が大事にしている物を贈るのが一番と考えたのだ。
「遥々遠くから訪ねて来てくれたのだから、思い出となる品を贈りたい。儂が秘蔵している屏風を贈ろうと思うが、実際に見て気に入らなければ返してくれても良いし、気に入ったなら受け取って欲しい」
使者を遣わし、宣教師達に伝えさせた。
ヴァリヤーノが喜んで受け取る事にしたのは言うまでもない。
目に焼き付けた日本の美しさ、安土の城の壮麗な様と良く整備された城下町。
筆舌に尽くしがたい、それら全てを言葉だけで再現するのは難しい。
安土城を描いた屏風が海を渡り、異国の数多くの者達の目に触れる。
これ以上ない贈り物だった。
「乱、あれも持って参れ」
『あれ』で通じるのは、乱法師も宣教師達への贈り物を選ぶのに携わっていたからだ。
乱法師は木箱を持ってきて開け、宣教師達に中を見せた。
異国の者達の目には、どうやら
それは乱法師の故郷、美濃から贈られた堂上蜂谷柿だった。
現代でも美濃の加茂市で作られている極上の干し柿だ。
一個の値段が米一升分とも云われ、朝廷にも献上された事から堂上蜂谷柿と名付けられた。
かなり甘味が強く、甘い物好きの信長の好物だった。
巡察使ヴァリヤーノとルイス・フロイス等は出立の日を決め許可を貰おうとしたのだが、ここでやや強引に引き留められた。
信長は面白い事を考え付き、せっかくだから宣教師達にも見せてやりたいと思ったからだ。
七月に毎年行われる盂蘭盆会の時には、各家の戸口や窓に提灯を吊すのが古くからの習わしである。
今年は全ての家の前で火を炊く事が禁じられた。
夜の琵琶湖に舟が何艘も浮かんでいる。
安土城周辺は闇に包まれていた。
多くの人のざわめき、小さな灯明が、時折光るのが見えるくらいだ。
蒸し暑い夏の夜。
信長がいる御座舟の辺りは、虫の鳴き声以外しんと静まり返っている。
乱法師は琵琶湖に浮かぶ舟の上にいた。
闇に包まれた城下町の方角を目を凝らすように見詰めていると、灯りが一つ、二つ、三つと灯り始めた。
次から次へと灯火は連なって行き、やがて城下に長い光の道が作られた。
湖上から見守る何艘もの舟から、早くも感嘆のどよめきが上がる。
城下町が明るく照らされ、それを合図に安土城の天守閣に吊るされた、無数の色とりどりの提灯に火が灯されていく。
───光と闇。
相反するものでありながら、どちらが欠けても成り立たないもの。
闇の中に照らし出されているのか、それとも闇夜を照らしているのか。
赤、緑、青、黄色、白、様々な色の光で染め上げられた虹色の安土城の姿を湖上から堪能する。
乱法師は幽玄で幻想的な世界に、すっかり魅了され我を忘れて見入ってしまった。
それが良くなかったのかもしれない。
遠くに見えていた筈の灯りが、目の前にぐっといきなり近付いてきたかに見えた。
目の前で火が燃え盛り、安土城が紅蓮の炎に包まれているような錯覚に襲われ、一瞬前後不覚に陥ってしまった。
「──乱!どうした? 」
信長の声ではっと我に返る。
灯火は遥かに遠く辺りを穏やかに照らし、安土城は神秘的な光に包まれていた。
今さっき目の前に迫ってきた情景との違いに、目をしばたたかせる。
先程は漆黒の闇に浮かび上がった安土城が、地獄の罪人を焼く紅蓮の炎に包まれているようだったというのに──
「舟を降りて、城下の様子を見に参ろう」
キリシタンの修道院の一角から街道に添い、手に手に松明を持った群衆が整然と居並び、安土山の麓まで灯火は続いていた。
松明は葦で出来ており、燃え尽きる時にぱちぱちっと爆ぜて火花が散る。
松明を持った者達は、わざと火花を撒き散らし、小姓や馬廻り衆は喜んでその上を踏むように走り回った。
死者達の為の灯火は、それ事態が御霊のように燃え、生ある者達に何かを語りかけてくる。
死者と現世で会う事は叶わずとも、温かな光が闇夜を照らしている間だけは、あの世とこの世の境目は薄れ、ほんの少しだけ繋がる事が出来たのかもしれない。
──翌日、ヴァリヤーノとルイス・フロイスは当初の予定から十日も遅れて出立した。
実は随分と強引に引き留められ、早く出立したくて堪らなかったのだが、盂蘭盆会の壮大さに感動し、また祖国に良い土産話しが出来たと喜び安土を後にしたのだった。
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