7 弔い鍋ってあるんですか?

 秋風が吹き始めた頃、ありきたりな朝食の風景の中、突然彼女が話を切り出した。


「私、働こうと思うの!」


 あまりの唐突な宣言に僕がポカンとしていると、彼女はニコニコと笑い言い放った。


「だから、今後のためにも、もっと貯金は必要でしょう? 将来家を買うかもしれないし、子供ができたら教育費がかかるし、先はどうなるかわからないからね。だからパートをしようと思うの。何より私は……暇だから!」


 目の前の彼女は、実に嬉々とした良い表情だ。


「暇にしてるとね、おやつを食べちゃうでしょう。ここ一年の間に私が四キロ太ったこと知ってる? 確かにこの専業主婦生活は幸せだけれども、こんなに暇にしていたら人間が駄目になっていくと気づいたのよ。人間失格よ! 人間失格!」


 彼女が息巻いてそう言うのを、いろんな意味でそれは違うとは思ったが、そこは敢えて言わなかった。


「体重が増えたくらい、全然構わないけどな……そんなに変わったようには見えないし」

「達己君は毎日私を見てるからね、少しづつ増える体重に気づかないんだよ。今朝起きた時なんて、私、自分のお尻が病気になったかと思ったよ」

「え? 何? 病気?」

「そう、鏡を見た時に、自分のお尻が病気で腫れてると思ったの。去年買ったデニムパンツが入らなくて!」

「…………」


 真面目な表情の彼女から、今の言葉が冗談ではないことが窺い知れる。

 鏡を見たときの自分の姿、そして去年のデニムパンツが入らない……そこは女心が働くのだろう。僕にはよくわからないけれど、とりあえず四キロの脂肪が美香子の尻から下に張り付いているのを想像してみた。四キロの脂肪って、相当だよな、でも……。


「……運動する方が脂肪を落とすには早いと思うけど」


 ボソリと言う僕に、笑顔の彼女がキラリと目を光らせる。


「ん? 何かな? もう少し大きな声で言ってごらん」


 あぁ、笑顔が怖い。


「でも僕は美香子が太っても気にしないよ」

「私が気にするの! いつの間にか私がトドのようになってしまったらどうするの? それでも好きでいてくれる?」


 トド? 僕は更なる脂肪が美香子に張り着くのを想像する。今度は下半身だけではなく、その脂肪が全身へ広がる。ぷくぷくと白くて重いものが増えていき、もう美香子の顔も埋まりそうだ。二の腕は大根のようで、足はすでにカブ。それでもぷくぷく増えていき、もう胴体がどこかもわからない。


「……うん……まぁ、働くのも良いかもね」


 ラノベの読みすぎだ。うん、多分……。

 僕は妄想を止めた。脳内で妄想した彼女は、もう何が何だかわからない物体になってきたからだ。


「でしょう? というわけで、私は今日、面接に行ってきます!」

「え、もう?」

「こういうのはね、善は急げなのよ。いい仕事はすぐに埋まるんだから!」



 かくして彼女はパートをすることになった。

 すぐに何かに夢中になる彼女は、時間に制限がある方が家のこともできて良いのだそうだ。うんうん、確かに家に帰って部屋に電気がついていないのは嫌だ。僕は彼女の居る部屋に帰りたいのだから。


 彼女が働く場所として選んだのはホームセンターだった。まぁホームセンターなら、いろんなのがあるから買い忘れとか彼女に頼むことができる。良い場所でのパートが決まったと僕も喜んだ。






 パートの初日、彼女は変なものを買って帰ってきた。ビニール袋のような透明の袋の中に短いけれど太めの木の棒が一本入っている。


「……これは何?」


 僕が聞くと、彼女は自慢げに笑った。


「まぁ待ちたまえ、ワトソン君。これの正体を知ったら、君はきっと驚くだろうよ!」


 ワトソン君だぁ? 僕は片眉をあげたけれど、乗ってあげることにした。


「僕には意味がわからない。シャーロック、君の推理を聞きたいものだね」

「ワトソン君、君も少しは頭を使いたまえ。これを知るには時間が必要なのだよ」


 どうしても教えてくれそうにないので、気にはなるが僕は時を待つことにした。変化があるならきっと教えてくれるだろう。そこは彼女を信頼している。



 そして数日後、そういえばあの木片はどこに行ったのかと思っていると、洗面台の下にそれを見つけた。見た目に変化はなく、透明の袋に入っているが、口部分は洗濯バサミで閉じている。


 いったいこれは何なのだ? 袋の内側には汗をかいたような水滴がたくさんついている。このままでいるとカビだらけにならないか? ちょっと気味悪くなって、僕は元の場所にそれを戻し扉を閉じた。


 ……見なかったことにしよう、うん、それが良い。



 

 それからまた日が過ぎて行き、ある時家に帰ったら、キッチンの壁に紙で作った横断幕が貼り付けられていた。


『祝!!! 椎茸兄さん誕生!』


 その紙には太いマジックでそう書かれてある。

 椎茸兄さん? 何じゃそりゃ……と思っていると、奥から静々と彼女が何かを掲げて持ってきた。


「待ちに待った椎茸兄さんが、とうとうお生まれになりました。ようやくお披露目ができます。さぁ、ご覧ください、すくすくと育つ椎茸兄さんの姿を!」


 彼女が掲げているそれは、木片のあの物体だった。そしてよくよく見てみると、その木の横腹に小さなキノコがニョッキリと顔を出していた。しかも一つではなく五つも!


「おぉ?! これはまさしく椎茸!」


 成る程! 彼女が買ってきたのは椎茸栽培キットだったわけだ。


「ノンノン、ワトソン君! 椎茸ではない。椎茸兄さんと呼びたまえ」

「……シャーロック、なぜ兄さんをつけるんだい?」

「語呂がいいからだよ、ワトソン君」


 彼女は一度テーブルの上に椎茸兄さんの木片を置いた。


「ちゃんと満遍なく彼の姿を堪能したかね? ではまた、しばしのおいとまを!」


 そして三十秒後にはキッチンの台の下へ移動した。どうも椎茸兄さんは太陽が嫌いで、湿気が好きなのだそうだ。確かにアイツは菌だからな……。




 それから二日ほど経った時、今度は椎茸兄さんはテーブルの隅に乗せられていた。ご飯を食べるのに邪魔だけど、彼女は育つ姿を見ながらご飯を食べたいのだそうだ。


 そうして立派な椎茸兄さんができた。下の方からは新たなキノコの芽が顔を出しているが、確かに椎茸兄さんが一番大きく育っている。スーパーで売られている生椎茸より大きい椎茸兄さんは完全に今が食べごろだ!


「もう食べられるね」


 僕が言うと彼女は複雑な顔をしていた。


「何だか、彼を食べるのは残酷な気がしない?」

「いや、ほら、下にもどんどんできてるから! これ食べないと勿体無いよね?」

「達己君、椎茸兄さんをそんな目で見ていたの?」


 いやいや、むしろ君はどんな目で見ていたんだよ。


 その言葉を飲み込んで僕は彼女の気持ちもわからないでもないような気がしてきた。ここまで可愛がって育てたものを食す。それは如何程いかほどの心痛を感じるものなのか……いや、微塵も感じない、やっぱり僕は食べたい。


「じゃあさ、下の弟たちは食べようよ。ほら、これなんか絶対に食べごろだから。椎茸兄さんの次に大きいし」


 僕は椎茸兄さんの弟たちがわんさとできている部分を指差そうと手を出した。するとその手が椎茸兄さんにポンと当たり、木片が勢いよく倒れた。


「あ!」


 慌てて立て直したが、一番立派に育っていた椎茸兄さんが木片の腹からポロリともげる。


「あれ……」

「椎茸兄さん!!!」


 彼女の悲痛な声が響いた。


「……ごめん、取れちゃった……」 

「椎茸兄さんが! 椎茸兄さんが死んでしまった!」


 彼女は涙目になりそうな勢いだ。このことをどう詫びようかと考えていると、彼女は椎茸兄さんを手に取り、僕に向けて差し出した。


「仕方がない! ワトソン君、今日は弔い鍋だ!」




 弔い鍋という鍋があるのかどうか、僕は聞いたことがないから分からない。でも彼女はそれからあらゆる野菜と共に豚のスライス肉を用意し、鍋の準備を整えた。


 出来上がった弔い鍋の中心に、さっき収穫したばかりの椎茸兄さんが鎮座していたのは言うまでもなく、彼の周りには弟たちもいる。


 そして僕ら二人はもげた彼と弟たちを、美味しく胡麻ポン酢でいただいた。



 それからも椎茸はわんさか実り、冬まで僕らの生活に椎茸が欠くことはなかった。


 あぁ、茶番……


 なんとでも言うがいいさ……彼女が楽しく生活してくれるのなら、僕は何だってする。そう、ヒーローのシャーロックではなく、助手のワトソン君にだってなってやるさ!







 栽培する時に可愛がりすぎると、食す時に躊躇ってしまうと言う話のようだけれど、実は椎茸栽培キットは恐ろしい程の椎茸が出来上がると言う話……

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