囚われのスカーレット隊長
『艦内の敵は一掃された。もう出て来てもよいぞ』
「な、何をしたんだ、君は……」
銃声の一つも聞こえないままに戦闘が終息したと言われて、シュトライヒャー提督は半信半疑であった。しかし艦橋から出てみると、ぐったりとした様子の魔女達がゲルマニア兵によってことごとく拘束されていた。
『うむ。これは化学兵器だ』
「化学兵器? 何だそれは?」
『人間が吸い込むと粘膜を刺激し、激しい吐き気や頭痛を催す気体のことだ。毒ガスとも言うな』
「毒……。そんなものを陸軍は開発していたのか」
ゲルマニアは工業ばかりが目立っているが、化学分野もそれ相応に発達しており、その中で多数の化学物質の合成に成功していた。その中には当然、人間に有害であるものも。
『いや、これはかなり前に開発された化学物質だ。新たに開発したものではない』
「そうなのか? ではどうしてこれまで使わなかった?」
『毒ガスは風によって簡単に吹き飛ばされてしまう。風の魔法を持つ魔女共にはほとんど効果がないだろうということで、誰も見向きもしなかった』
「そうか……。だが狭い屋内でなら、魔法があってもどうにもならない。ここでなら有効な兵器たり得ると言うことだな?」
『いかにも。アトミラール・ヒッパーはその条件を満たす理想的な環境だった』
味方の勢力下にある密閉された空間に敵がまんまと入って来なければ毒ガスは効果がなかった。そんな状況はこれまで想像し得なかったが、一つだけ、戦艦の艦内がその条件を満たしているではないかとザイス=インクヴァルト大将は気付いた。そして密かに毒ガスを配備していたのである。
「それなら事前に言ってくれればよかったものを」
『それでは情報が漏れる可能性があった。ヴェステンラント軍が知れば艦内には突入してこなかっただろう』
「それでいいじゃないか。犠牲が出なくて済む」
『捕虜が欲しかったのだ。何かと役に立つ。その為に、非致死性の化学兵器を用意したのだから』
毒ガスは死には至らず後遺症の残らないものを使用している。事実、スカーレット隊長というヴェステンラント軍の重臣を無傷で捕獲することが出来た。
「話は分かった。君のお陰でアトミラール・ヒッパーが救われたのは事実だ。感謝する」
『ただの趣味だ。気にすることはない』
ザイス=インクヴァルト大将がどこまで読んでいたのかは誰にも分からないが、ともかく、クロエの最初の作戦は完全に失敗に終わった。
○
「え? スカーレットが捕まった……? 本当ですか……?」
マキナからの報告にクロエは顔を青ざめさせながら聞き返す。しかし答えは変わらなかった。
「はい、クロエ様。間違いありません。スカーレット隊長はゲルマニア軍の虜囚となりました」
「そんな……スカーレットが捕まるなんて……」
仮に作戦が失敗したとしても彼女なら逃げて帰って来られると思っていた。だから、彼女が捕らえられたというのは、クロエにとってあまりにも衝撃的な報せであった。
「クロエ様、戦いはまだ始まったばかりです。ここで落ち込んでいる場合では――」
「何とかスカーレットを助け出す方法はありませんか?」
「それは……我が軍が先の戦いで得た捕虜と交換するのが定石かと思われますが」
「そ、そうですね。それがいいです。すぐにゲルマニア軍と交渉を――」
「クロエ様、一度落ち着いてください。クロエ様は気が動転しておられるようですので」
マキナはいつになく強い口調で言った。クロエも流石に少しは冷静さを取り戻した。
「え、ええ、そうですね。すみません。確かに冷静ではありませんでした」
「はい。何よりです」
「とは言え、捕らえられたのは重騎兵です。500とは言え、重騎兵ならそれなりの戦力になります。それ相応の条件を出しても返還してもらうべき、というのは間違ってませんよね?」
「公正な取引であるのなら、はい」
捕虜交換自体は間違った選択ではない。マキナが心配していたのはクロエが必要以上の対価を支払うのではないかということだ。
「とは言え、ゲルマニア軍のことです。法外な対価を要求してくるとも考えられます。くれぐれも、スカーレット隊長の為に判断を謝るようなことはないようにお願いします」
「……今日は何と言うか、雰囲気違くないですか」
「そのようなことはありません。私はいつも通りです」
今日のマキナは何故か威勢が良い。
○
「閣下、ヴェステンラント軍より通信が入りました。先に捕らえられた捕虜と武具の返還を要求しています」
クロエはすぐにザイス=インクヴァルト大将に通信を掛けた。
「ふむ。その対価は?」
「ベダで捕らえた捕虜のうち、5,000名を解放するとのことです」
「1対10で人間を交換するか。だが、それでは到底足りない。相手は重騎兵なのだ」
重騎兵は10倍のゲルマニア軍をも簡単に打ち破って来た。とてもそれでは釣り合っていない。
「それにスカーレット隊長もいるのだ。対価はもっと必要だ。そのように伝えよ。いや、私が自分で交渉しよう。通信機を」
「は、はい! 直ちに!」
ザイス=インクヴァルト大将はこういう酔狂が大好きなのである。
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