休戦条約Ⅱ
「それで、殿下、殿下は今回休戦を申し込んでこられた訳ですが、訳をお聞かせ願えますかな?」
この案自体、先に言い出してきたのはクロエであった。こういうのは先に言い出した方が負けである訳だが。
「はい。今回の戦いで、おおよそ4万の兵士が失われました。これは近年の戦争において類を見ない数字です。死者を弔い、両軍の兵士に休息を与えるべきであるのは、閣下も分かるでしょう」
「なるほど。その点については、私も完全に同意します。我々は、血を流し過ぎました」
もちろん、そんなのは建前だ。双方とも、考えていることは体勢立て直しの為の時間稼ぎである。兵の休息は確かに取れるが、結果的にそうなるだけだ。それは本来の目的ではない。
「さて、休戦といっても、我々には決めねばならないことが多い」
「ええ。その通りですね」
ザイス=インクヴァルト司令官もクロエも、相手の様子を伺って一瞬だけ黙り込む。
「話し合いは好きではありません。さっさと終わらせたいので、こちらから条件を提示しても?」
「結構ですとも」
「はい。向こう6ヶ月、一切の攻撃が全ての戦線において行われないこと。そして、現在我が軍が占領している地域については現状を維持すること。これが条件です」
「ふむ。その程度でよろしいのですかな?」
ザイス=インクヴァルト司令官はわざとらしく心配そうな顔をした。
「その程度、というと?」
「国境を元に戻すということは、貴国の兵士の命が全くの無意味となるということです。この条件については、出てきたならば承諾すると、最初から決めておりました」
「我が国の兵士について気にかけて頂き、ありがとうございます」
「いえいえ。敵であろうと味方であろうと、命は等しいものです」
お互い、相手のことを一切信用していない。誰も近寄れないような緊迫した空気が漂っている。
「ああ、それと、休戦期間中に一切の軍事的な行動を行わないというのも、条件に追加します。すっかり失念していました」
「一切の軍事的行動、ですか。それは少々、厳しいと言わざるを得ませんな」
この期間中に兵士を集めて武器弾薬を造って戦線を再編するのだ。その条件をゲルマニア軍が呑むのはどうあっても不可能。その程度のことはクロエも分かっている筈だが。
「そうですね。言葉が足りませんでした。ブルークゼーレ基地周辺における一切の軍事的行動を行わないこと、です」
「その理由は?」
「つい先日まで血と泥に塗れていた兵士をこれ以上働かせるのは、酷というものです。そうは思いませんか?」
「確かに。その通りですな。では、その条件も加えるとしましょう」
「――はい。ありがとうございます」
ザイス=インクヴァルト司令官にとって、最善の結果は条件なしに現状維持を引き出すことであった。既に第二防衛線までは奪われているが、であれば更なる防衛線を引けばよいのだから。
が、クロエもそれは読んでいた。故に、一切の軍事的行動を禁ずる、などという条件を付けてきたのである。
クロエとしてはこの条件は跳ね除けられるだろうと思っていたのだが、あまりにもあっさりと承諾され、思わず思考が停止してしまった。
「無論、殿下もまた、自らの兵を休ませるのでしょう?」
「ええ。勿論です。条文に書き加えて頂いて結構ですよ」
「承知しました」
正確には、クロエには何の作業を行う理由もないのである。
塹壕を攻める為に掘った大量の塹壕。それらは適当に間を埋めたてれば、十重以上の堅固な塹壕となるのだ。魔法を使えばそんな作業は一瞬で完了する。
と、その時、天上の方から何やら物音がした。
「ふむ? 何だ?」
ザイス=インクヴァルト司令官も困惑している様子。兵士の喧嘩でも起こったのだろうか。屋上で、とは考えにくいが。
「シグルズ君」
司令官は扉の外のシグルズに呼びかける。
「はい! ただいま状況を確認して来ます!」
「頼んだ」
○
当の屋上にいたのは――ヴェロニカただ一人であった。しかし彼女は短刀を片手に持ち、戦場にいるかのように周囲を警戒していた。
――どこだ……
気配。少し前からぼんやりと感じていたそれは、今、すぐそこにある。いや、あった。ヴェロニカが天井に上ると、それはぷっつりと途絶えた。恐らく、ヴェロニカの存在に気付き、気配を完全に消したのだろう。
だが、その場を離れようと動いたりでもすれば、ヴェロニカはそれをたちどころに察知出来る。つまるところ、すぐ近くに気配の元は存在しているのだ。
「………………っ」
極めて小さな服の擦れる音。ヴェロニカにはそれだけで十分だった。
「そこっ」
一気に飛び掛かり、虚空を短刀で斬りつける。それで相手は肉は裂け、血は飛び散る――筈だった。
――外した?
ヴェロニカは勢い余って半周ほど回転してしまった。気配を探るのは得意だが、いざ戦うとなると、ヴェロニカはそれほど得意ではない。姿勢を立て直す僅かの間に、侵入者はヴェロニカから距離を取った。
「このっ!」
気が立ってしまし、考えなしに気配が駄々洩れの侵入者に斬りかかる。だが侵入者はひらりと躱した。
○
――まさか……
顔には出さず口にも出さないが、クロエは生きた心地がしなかった。彼女にはこの騒ぎの原因に明確な心当たりがあった。
マキナである。彼女が見つかったとすれば、この状況を簡単に説明することが出来る。出来てしまう。
「おや、顔色が悪いようですが、どうかされましたか?」
「いえ。ただ、仮にも大公である私の前でこのような騒ぎを起こされたことに、少々苛立っているだけです」
「それは申し訳ない。今、状況を確認させておりますので」
「お願いしますよ」
――感づかれた……?
なおも暫く物音が続いていたが、ある時を境に何も聞こえなくなった。暫く様子を伺うが、何かが起こる気配もない。
「閣下、失礼します」
入って来たのはシグルズ。
「どうだった?」
「はい。単なる兵士の喧嘩だったようでした。もう終わりましたので、ご心配なく」
「そうか。では、話し合いを続けましょうか、殿下」
「え、ええ。そうですね。お願いします」
シグルズは明らかに何かを隠している様子だった。喧嘩である筈がない。だが、ここで面倒ごとになるのを嫌ったザイス=インクヴァルト司令官とクロエは、それ以上何も問いたださなかった。
――助かりました……
クロエは安堵した。
○
「シグルズ様、本当に、逃がしてよかったんですか?」
「ああ。これでいいんだ」
シグルズは、ヴェロニカが見えない何かと戦っているのを静止し、ヴェロニカ曰く、その間に侵入者は逃げ去った。
「で、でも、あのまま捕まえられていたら……」
「あれで騒ぎが大きくなっていて、捕まえられなかったら、ヴェロニカが面倒くさいことになっていたかもしれない」
あえて強めの口調で言った。
傍から見ればヴェロニカは何もないところで短刀を振り回す異常者だ。それに、この休戦交渉が中断されるというのは、シグルズにとっても好ましくないことであった。
――まあ、多分ヴェステンラントの味方をしたことになってるんだけど。
「それは……」
「まあ、過ぎたことは忘れよう。ね?」
「はい……」
ヴェロニカは不服そうに頷いた。
○
最終的に休戦は叶った。
向こう半年、攻撃や設営を含む一切の軍事的な行動を取らない。両軍の境界線は現状維持。それが条件であった、
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