第2話『スッポンの卵スープ』
スマホからの上司の言葉は途切れ途切れしか聞こえなかったが、怒っている様子はなかった。
「はい……はい。いえいえ、僕はたまたま通りがかっただけですので。いえ……では、
そう言いながら、辰也にニッコリと笑いかけてくれた。そんな香取の表情に……辰也は、なぜか胸がドキッとしてしまう。イケメンではないが、とても柔らかい表情が似合う男性だったせいなのか。
そしてスマホを受け取ると、彼は厨房に戻ることなく辰也の隣にいてくれた。
『おい、美作?』
見惚れていると、スマホから上司の声が聞こえてきたので慌てて辰也は自分の耳に当てた。
「あ、すみません。部長」
『またぶり返したのかと思ったぞ?』
「いえ……それはないです」
『なら良かった。とりあえず、今日は早退届出してやるから。そのまま帰れ。ミーティングとか業務連絡とかはまたメールしてやる。明日ももし体調が悪そうになったら、早めに連絡するんだぞ?』
「……はい。申し訳ありませんでした」
『謝んな。まあお前の長袖には理由があるし……改善点は、せめて日傘買うとかくらいだろ』
「……そうします」
苦し紛れの方法でも、長袖を着ない理由にはなれない。部長には、入社した時から知ってくれている相手だからその理由を受け止めてくれているのだ。
とりあえず、直帰の処理をしてもらうことで電話は終わり。改めて、香取にお礼を言うのに辰也は彼の前で腰を折った。
「そんな。謝罪だなんていいですよ。僕は人命救助のお手伝いが出来ただけなんで」
「けど。香取さんに助けていただかなかったら、俺下手すると死んでました」
「そうですね。一歩間違えれば……ですが」
「本当にありがとうございました」
そしてもう一度腰を深く折ると。辰也の腹部から異常なくらいに大きな腹の虫が暴れたのだった。
これには、流石に場の空気が緩和されて、二人で笑い合った。
「何も口にされてなかったようですし、何か食べていかれませんか?」
「……いいんですか?」
「ええ。これでも料理人ですし、腕を振るわせてください」
「あ。払います」
「……じゃあ。今から美作さんは
とりあえず、カウンターでも座敷でもいいから座るように言われたので、せっかくだから調理工程が観れるカウンターの真ん中に贅沢に座ることにした。
店内は狭いが、厨房には小型でも食洗機があるし、オーブンみたいな電化製品もあった。ような、と言うのは調理に詳しくない辰也の目で見ても、焼き窯のようなものがあったからだ。何に使うのかはよくわからない。
「ここって、和食がメインなんですか?」
完全に食べる気分が沸いてきた辰也は、ひとりだけの客だから香取に質問したくて堪らなかった。
「そうですね。メニューがないのは、基本的に僕のお任せで作らせていただくからです。お酒の方も、自家製の梅酒とか仕入れている焼酎がほとんどですが」
「あ〜……病み上がりだから飲めない」
「ふふ。今日は我慢してくださいね? とりあえず、夏ですけどスープでお腹を温めてみてください」
と言って、後ろにあるコンロ台の上にあった小鍋から、お椀一杯分のスープを器によそってくれた。辰也の前に置いてくれたのは、緑がかった透明なスープ。中華料理屋にあるような黄色よりは、緑が強い。
だが、嗅いだ匂いは寝起きの時に鼻に届いた出汁と同じものだった。
具材は白髪ネギとふわふわの卵だけだったが、病み上がりにはちょうどいいだろう。それも気遣ってもらったのか、辰也は手を合わせてから朱塗りのスプーンを手に取った。
「んまっ!?」
例えようがないくらい、スープは優しい味わいだった。
具材の火加減もだが、スープの出汁が特に美味。ニンニクの風味だけは分かったが、鶏肉とも違う、けれどパンチの強い肉の味が……スープを口に含んだだけで口いっぱいに広がっていくのだ。
ひと口、またひと口。ただの卵スープなのにどんどん口に含みたい、味わっていたいと言う欲求が高まり。
パンチは強いが、胃に負担の少ないスープの優しい味に……あまり自炊をしない辰也にでもよくわかった。これは手間がかかっている料理だと言うことに。
最後はスプーンを置いて、器を持って飲み干してしまうくらい。おかわりは、と香取に聞かれたのでもちろんと辰也は器を渡した。
「お気に召されたようでなによりです」
「いや! ほんとに美味かったです!! 普通の鳥だしとかのスープより断然飲みやすかったです!」
「ふふ。僕の店は『割烹』なので、名古屋駅近くの
「へ? スッポン?」
亀に似た、けど顎の力が強過ぎる云々で扱うのが大変な食材。と言うのを、この前早く帰宅出来た時にテレビで流れていた情報を覚えていた程度だが。
「驚いたでしょう? スッポンは鮮度次第では刺身でも食べられるんですよ。あと、唐揚げも出来ますが」
「おぉ……!」
「ただ。あとは夜のお客様のためにしか材料がないので……申し訳ありませんが、そちらはお出し出来ないんです」
「あ、いいですよ。それは俺の都合で食べさせてもらうわけにはいかないし」
まだスープだけしか食べていないが、この店にはまた来たい。それくらい、辰也は香取の作る料理の虜になってしまった。
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